2.目が曇っているのでは
『辺境の砦、ガルドルス。
私はそこで、ひっそりと、静かに、墓守のように暮らすのだと思っていた。
ふふ、とんでもなかったな。
私と君ときたら、まるで訓練所に放り込まれた見習いのようだった。
掃除洗濯に始まり、日常のあらゆる仕事をいいつけられて、あらゆることを学ばされた。あの地で、生きていくために。
魔物は、一時よりは減ったとはいえ、変わらずに姿を現し、小規模の戦闘は日常的に起こっていた。ガルドルスの砦は、あの近隣に暮らす人々を守る、最後の盾だった。
「だってのに、若い奴らはみんな街へ出て行っちまって、砦の守りは年寄りばっかりなんだぜ?」
誰の言葉だったか、君ならわかるだろう。そう、ルドヴィク老だ。
彼は壮年で、小柄でもあったが、誰よりも戦闘経験が豊富で、指揮官としても人望厚く、砦の長老格だった。
ルドヴィク老は、私と君を見て、にやにや笑っていったものだ。
「ようやく砦の平均年齢が下がったな。戦うにはまだガキすぎるが、なに、ジジイとババアしかいないよりはマシだ。しっかし、まあ。ランスのやつが、よく愛娘を手放したと思ったら、なぁ」
ランスというのは、君の父君の名前だった。
砦に来て初めて知ったことだったが、君の父君である、ランス・レガルド卿は、ルドヴィク老の弟子だった。レガルド卿が、君に、私への同行を許したのは、行き先がルドヴィク老の下だったからということも大きかったのだろうと、私は密かに納得していた。
ルドヴィク老は、君の前にしゃがみこんで、かすかなため息とともにいった。
「お前さんは、レガルドの一族の血が濃すぎるな。あまり、生き急ぐなよ」
その言葉の意味を、私が真に理解したのは、それから何年も経った後のことだった。
砦での暮らしは、厳しくも、楽しいものだった。
私は、あの地で初めて、毎日が楽しいという感覚を知った。この時間がずっと続けばいいと願うことを知った。
水仕事は身体が凍えるようだったが、その後で君と二人でたき火の前に座り込み、手のひらをかざしながら、たわいない話をするのは楽しかった。剣の訓練ではへとへとになったが、君も同じ量をこなしているのだ。君にみっともないところを見せたくなくて、私は必死だったよ。
剣では、未だに君には勝てないが、私は君に勝ちたいわけではないので、いいのだと思う。いや、これは、言い訳かな? 悔しさを誤魔化そうとしているだけなのかもしれないな。でも、いいのだ。私は君を護りたかった。君が受けるあらゆる傷を癒したかった。君は私の一番まぶしい人だから。
私は魔術の勉強にも励んだ。
砦の治癒術師である、癒しの巫女ミリスティは、偉大な教師でもあった。治癒術における魔力の扱い方、術式の描き方、魔術陣形の構成と力の分配について、丁寧に教えてくれた。
「火だの風だのを扱うのとはわけがちがうのですよ。治癒術は人体の再構成。一つの狂いも許されません」
そう毅然とした面差しでいう彼女は、砦の中で唯一、礼儀作法にも厳しかった。
私も細やかに指導されたが、私以上に、君は、なんというか、そう、ときどき、暴れるこいぬのようだった……。
「わたしは騎士になるのです!」
「騎士に礼儀作法がいらぬと思うのですか!」
「いえ決して礼儀作法を軽んじているわけではありませんがっ、まず騎士として剣の訓練をしなくては!」
「ルドヴィクに許可は得ました」
「師匠!? 嘘でしょう師匠!? 愛弟子を売ったんですか!?」
「いいかアリー、この砦で一番逆らっちゃいけねえのは、誰だと思う?」
「師匠です!」
「馬鹿野郎、ミリスティに決まってんだろうが。相手は治癒術師様だぞ。治癒に見せかけて指を六本にされたくなけりゃ、大人しくお勉強してこい」
「そっ、そんな! あっ、殿下! 殿下はわたしの味方ですよね!? わたしの殿下ですもんね!? ほらっ、殿下も無理強いはよくないといってくれていますよ! さすがは殿下です! 殿下、格好良い!」
「ルドヴィク」
「へいへい、巫女様。ほら、いくぞガキども。殿下、お前もな、惚れた女にちょっとおだてられたくらいで、顔を真っ赤にしてんじゃねえよ。アリーなんかなんも考えてねえぞ」
まいった。まいったな。あの頃の会話を、私はそらで書きだせてしまう。
あの頃は、こんなやり取りばかりしていたものな。楽しかった。幸福だったよ。
私が君に、愛称で呼ばせてほしいとねだったのも、この頃だったな。
アーマリナ。美しく、可愛らしい君。柔らかで、伸びやかで、ときに暴れるこいぬのようであった君よ。
砦の皆が、アーマリナでは呼びにくいからと、アリーと呼ぶようになってからも、私だけは、アーマリナと呼んでいた。こだわりがあったわけではない。情けない話だが、私は意気地なしだったのだ。皆のように、私も君をそう呼んでもいいのだろうかと、呼んでも許されるのだろうかと、日に何度も考えていたよ。
君はきっと笑顔で「いいですよ」といってくれるだろうと、わかっていたのだけどね。それでも私は、君に拒まれることが恐ろしかった。矛盾しているな。自分でもそう思う。
だけど、あの、夏祭りの夜。
星空の下で、君を見た。君は、巫女様に淡い水色のワンピースを贈られて、物珍しそうにしながらも、楽しそうに、くるくると踊っていた。美しかった。世界で一番美しいものが、すべてそこに詰まっていた。
踊る君に、私は、何度目かの恋に落ちた。
君に出会ってから、君に何度も、何度も、恋に落ちていて、そして今また、すとんと、私の心は君への恋へ落ちていった。君が好きだと、心から想った。
「私も、アリーと呼んでも、いいですか?」
そう、なけなしの勇気を振り絞って尋ねた私に、君はぱちりと瞬いて、それから朗らかに笑った。
「もちろん! じゃあ、ついでに、その丁寧な言葉遣いもなしでお願いします!」
えっと、戸惑う私に、アリーは楽しそうに続けた。
「だって、殿下とわたしは、この先も、ずっとずっと一緒でしょう? 丁寧に喋るの、面倒じゃありません? もっと適当でいいですよ」
ずっとずっと一緒。君のその言葉に、どれほど私の胸が熱くなったか、君は知らないだろう、アリー。
「では、アリーも、私に、ほかの皆に対するのと同じように、話してもらえませんか。いえ、話して、くれないか?」
「いいの?」
「はい。いえ、うん。いい、よ」
「じゃあ、殿下じゃなくて、リシューって呼んでもいい?」
私のことを、リュシアンと、名前で呼ぶ者はいなかった。
まして、リシューと、そんな風に呼ばれたことは、人生で一度もなかった。
この辺境の地にあっても、私は“殿下”だった。それは、大人たちにとっては、当たり前のことだっただろう。私だって、そう思っていた。
けれど、戸惑う私に、君はいった。
「だって、殿下。殿下って呼ぶと、ちょっと寂しそうな顔をするから」
あの夜から、君は私のことを、リシューと呼ぶようになった。
砦の大人たちは、皆、なにか察するところがあったのだろう。私は、いつの間にか、皆からもそう呼ばれるようになっていた。私はもう、王宮の幽霊でも、無能な七番目の王子でもなく、ただの“リシュー”だった。
私にとってあの日々が、どれほど幸福だったことか。
私の知る言葉では、とても言い表せないほどだ。
毎日が光輝いていた。満ち足りていた。私はこのまま、ずっと、この地で、君と暮らしていくのだと思った。それを願っていた。夢見ていた。心から望んでいた。
王都が崩壊した、あの日までは。』
ぱらりと、再び紙をめくる。
次のページからは、文字は、どことなく固く、インクとともに、苦しみが滲んでいるようだった。