番外編:愛の日(バレンタインSS)(後編③)(完結)
リシューの手を引いて、蛍鈴の花の近くに設置されている小さな丸テーブルに向かう。
侍女長が用意しておいてくれたのだろう。よく磨かれた飴色の丸テーブルの上にはお茶の準備がしてあった。それに、わたしが預けておいた魔導製の保冷器もある。あの中にはわたしが悪戦苦闘して作り上げたガトーショコラが入っているのだ。
わたしたちはそれぞれ木製の椅子に腰を下ろした。
リシューは見るからに嬉しそうな気配を漂わせて、二人分の紅茶を淹れてくれる。わたしは保冷器を開けて、すでに切り分けてあるガトーショコラを、用意されていたデザート皿の上にそうっと乗せた。乾燥防止のための包み紙を外してから、しずしずとリシューの前に置く。
「ど……、どうぞ……」
断末魔のごとく、くぐもった声でいう。戦場で恐れるものなしと謳われた『ディロードの悪夢』も、ことお菓子作りに関しては新兵以下の度胸である。
リシューは神々しく輝く微笑みを見せていった。
「ありがとう、アリー。とても美味しそうだ」
「いや!!! できれば今夜のことをすべて忘れて食べてほしいな!!!」
「あぁ、もちろん、煩わしい政治の話などは忘れ去ってしまったよ。愛する君からの贈り物が私の前にあるのだからね」
「いや!!! ごめんね!!! 政治の話じゃなくて、夜会で出されたデザート類の記憶を一時的に消し去ってほしい!!!」
きょとんとしているリシューに対し、わたしは身を縮こまらせてモゴモゴといった。
「これもそんなに味は悪くないと思うんだけどね? 今までで一番よくできたのよ? でもやっぱりプロは凄いよね……、どれもすごく美味しかった……。あれらとこれでは天と地ほどの差がある……」
リシューは小さく首をかしげてから、フォークを手に取って、ガトーショコラを一口、舌に乗せた。
不安のあまりじーっと見つめるわたしの前で、彼はひどく幸せそうに顔をほころばせた。
「美味しい」
「……そう?」
「とても美味しいよ、アリー」
「よっ、よかった~!!! ホッとした! ありがとう神様! ありがとう師匠!!」
「あぁ、私が今までに食べたチョコレートの中で一番美味しい」
「それはさすがにお世辞を盛りすぎだよね!?」
「私は君に世辞などいわないよ。知っているだろう?」
知っている。知っているけれど無理があると思う。王宮の料理人たちが作った物のほうが絶対に美味しい。百人中百人がそういうだろう。
だけど、リシューは本当に幸せそうな顔で食べている。その顔を見ると、反論の言葉なんて消えていって、この人がそういってくれるならそれでいいかという気持ちになる。
わたしは紅茶を飲みながら、リシューが食べる様子を眺めていた。この人の喜ぶ顔が好きだ。幸せそうな顔が好き。見ているだけでわたしも幸せな気持ちになる。
リシューは綺麗に食べ終わると、今度はなぜか申し訳なさそうな顔になった。
「アリー、夜会の後からなにか考え事をしているようだったけど、もしかしてチョコレートのことを心配していたのかい? それならすまなかったね。私が露骨に楽しみにしていたから、君のプレッシャーになってしまっただろうか?」
「え? あぁそれはちがうの。チョコは関係なくて、それは……」
わたしはいい淀んだけれど、隠すことはすぐに諦めた。
気づかれていたのなら黙っていても仕方ない。どのみち王であるリシューには伝えるべきことだ。
「実は、バルコニーに出ていたときに、若いお嬢さん方の会話を立ち聞きしてしまってね。どうもライル伯爵家は、美しいと評判の三女が陛下の寵愛を受けることを期待しているらしいのよ」
「へえ……、そうか」
リシューの薄青色の瞳が途端に冷たさを帯びた。
そして発された声には、燃えるような怒りが滲んでいた。
「では、その者たちは、王妃である君を蔑ろにしようと企んでいるということか」
「今はまだ陰でいっているだけよ。わたしに対して何かしたわけじゃない。そういう思惑があるということだけ心に留めておいてくれたらいいから、リシュー」
わたしはなだめるように名前を呼んだけれど、夫の瞳は凍えたままだ。
リシューは滅多に怒らない。私人としても、公人としてもだ。温厚で温和、どんな理不尽な目に遭っても冷静に物事を考える。この人が怒りをあらわにするのは、わたしが無茶をして重傷を負ったときか、あるいはわたしが貶められたときだけだ。それを知っているので、わたしはどこかむずがゆい気持ちで口を開いた。
「あのね、リシュー。怒ってくれるのは嬉しいよ。ただ、わたしたちが並んでいるのを見て『付き合いが長いだけ』と思う人がいるのは、それはもう仕方ないことだと思うんだ」
「───そういっていたんだね? その“お嬢さん”が君のことを、私と付き合いが長いだけだと?」
「おっと、忘れてほしい。これは一般論として聞いてくれないかな?」
「いくら君の頼みでもそれは難しいね」
「リシュー、わたし自身でも思うよ? わたしはたまたま運よく“婚約”というきっかけがあったから、子供の頃にあなたと知り合えたんだって。あの十歳の日に、婚約者としてあなたの前に立てたのは、とても幸運なことだったと思ってる」
リシューはなぜか薄青色の瞳を大きく見開いた。
彼はどこか呆然としているようだったし、自分の耳を疑っているようにも見えた。まじまじとわたしを見つめて、まるで涙を耐えるかのように眉根を寄せた。
それから深く息を吐き出して、リシューは震える声でいった。
「アリー……、そんなことをいうのは君だけだ」
「え、誰だって思うでしょ。リシューは子供の頃から格好良かったからね」
「王宮の幽霊と呼ばれるほど誰からも無視されて、始終おどおどしていた無能な七番目の王子だぞ。婚約者になった不運を嘆くことはあっても、幸運だなんて思う人間はいないよ。……君を除いてはね」
「そういう腹の立つ悪評があったことは知ってるけど、実際のリシューとはかけ離れていたじゃない。あなたと少し話をすれば誰だってリシューの格好良さがわかったはずよ。あの頃のわたしは難しいことなんて何もわかってない子供だったけどね、それでもあなたが素敵な人だってことはすぐにわかったもの」
リシューがなぜか片手で顔を覆ってうつむいた。それでも頬から耳まで伝った赤味が隠しきれていない。わたしはにんまりと笑った。
「ふふ、照れてる。かわいい」
「アリー……ッ! さては君、私で遊んでいるな!?」
「まさか。わたしはただ、あなたと釣り合っていないと思われるのは仕方のないことだという話をしているだけよ。だからって譲る気はないけどね」
リシューが驚いたように顔を上げる。
わたしは不敵に笑って、ばきばきと指を鳴らしてみせた。
「リシューがとても魅力的な人である以上、ライバルが現れるのはやむを得ないことだからね。でも引く気はない。いざとなれば戦おうじゃないか。戦って駄目なら───……」
「そのときはそのとき、かい? 君らしいな」
「ん~、騎士としての戦いならそういうところだけど……、あなたの妻としての戦いだと、そう潔くなれないかもしれない……」
あなたの幸せを願って身を引くことはできないかもしれない。嫉妬して泥沼の争いをしてしまうかもしれない。ごめんね。
そういい終える前に、リシューの手が伸びてきて抱きしめられた。小さな丸テーブルが揺れる。驚くわたしを強く抱きしめて、リシューは感極まった声でいった。
「愛してる、アリー。君を心から愛している。どれほどいっても足りないほどに。この想いを伝える言葉が見つからないほどに。陳腐に聞こえるかもしれないけれど、君が私のすべてだよ」
「う、うん? わたしも愛してるけど、どうしたのリシュー? 何かあった?」
今わたしは夫を奪われそうになったら潔く退くどころか泥沼になるだろうという嫌な予告をしたところだ。どうして夫が喜んでいるのかわからない。
とりあえず彼の背中をポンポンと叩いてみる。リシューはゆっくりと身体を離して、とろりと甘い瞳でわたしを見た。
「アリー」
「うん?」
「気高い君が私のことになると潔くなれないなんて、たまらなく嬉しいよ。喜びで胸が震えるね」
「……そういうもの?」
「ああ。とはいえ、君にそんな戦いをさせる日は永遠に来ないから安心してほしい」
「おっ、なんか話が一周して元に戻ってしまった気がする」
「それにね、付き合いが長いだけなんて戯言を口にするのは、自らを愚昧だと証明しているも同然だよ。実に馬鹿馬鹿しい。そういった者たちは『白き救いの御手の王』という御大層な名しか見えていないのさ。君という太陽よりも眩しい輝きがあってこそ今の私が存在しているというのに」
リシューは冷ややかにいった。
「もしもまともに私という王を見たなら、それこそラスローの皇帝のように誘うだろう。“余の名にかけてアーマリナの待遇は保証する。王冠など放り投げて、愛する女と穏やかで幸せな家庭を築きたいとは思わんか?”なんてね」
「えっ! あの皇帝、そんなことまでいってたの!?」
「さすが大国の皇帝陛下、他人の欲望をたやすく見抜く方だなと思ったよ。私は王位なんていらなかったからね。……昔からずっと、私が欲しいのは君だけだ、アリー」
リシューの手が伸びてきて、わたしの頬を優しく撫でた。
「私も同じだよ、アリー。君のことだけは譲れない。王位など譲ってもいい。玉座に相応しい者が現れたなら喜んで退位しよう。権威も名誉も欲しい者がいるなら持っていけ。だが───……、君だけは駄目だ。君だけは誰にも譲らない。君を奪おうとする者がいたなら私は持てるすべての力を持って滅ぼすだろう。君を愛している。アリー、君だけは、誰にも渡したくないんだ」
狂おしいほど甘い響きだった。ぞくりと身体が震えてしまうようだった。
わたしの心臓はドキドキと早鐘を打っていて、頬が熱を帯びているのがわかる。
リシューがふと嬉しそうに笑った。
「照れているのかい、アリー?」
「くっ……、仕返しのつもりね? でもわたしは負けない……!」
「ふふ、可愛い。君は世界で一番美しくて可愛い」
「リシュー、それは欲目がすぎますね」
「やれやれ、君は昔から自分の魅力に無自覚で困るね」
「こんなに理不尽な『やれやれ』がある!? リシューのそれは贔屓目というものだからね!」
わたしは正論をびしりと突きつけた。
だけどリシューは全然わかっていない顔でいった。
「幸運なのは私のほうだよ、アリー。あの日、君という美しく優しく気高いひとの婚約者になれた私こそが、世界一幸運な男さ」
蜜よりも甘い声だった。チョコレートよりも甘く蕩ける瞳だった。
リシューの硬い指先がするりとわたしの頬を撫でていくと、それだけでたまらない気持ちになってしまう。
薄青色の瞳がわずかに細められる。まるでベッドの上で見つめてくるときのような妖しさを含んだ眼差しだ。ぶわりと身体の熱が上がってしまいそうだった。頬が赤くなっているのが自分でもわかる。
ううと唸った末に、わたしは夫を前にして白旗を上げた。
「色仕掛けは卑怯……!」
「ふふ、愛しているよ、アリー。キスをしてもいいかい?」
「こっ、ここでは駄目です……!」
「寝室ならいい?」
「考慮します……!」
完結です。
バレンタインをずいぶん過ぎてしまいましたが、ここまでお付き合いくださってありがとうございました!




