1.午後の陽射しの中で
重厚感のある、黒革の書物だった。
光の加減によっては、紺色にも見える。
ぱらりとめくれば、年月の経過を感じる、色あせた文字が並んでいる。
文章の一行目、始まりはこうだ。
『アーマリナ。私の長年の婚約者よ。明日、君に、婚約破棄をいい渡そう』
その書き出しで、これを書いた人間が、この国の若き国王、そしてかつての王太子である、リュシアン・ディロードであるとわかる。
若く美しき賢王。
この世を滅ぼさんとする闇の軍勢と戦い、人々へ勝利をもたらした、白き救いの御手の王。
その長い銀の髪は、この世のものとは思えない神秘的な輝きをまとい、薄青色の瞳は、夜明けよりもなお高き空のようだと、吟遊詩人たちはこぞって彼を称える。
─── その彼の、秘密の言葉。過去の日記。
『アーマリナ。私は明日、君に、大勢の前で、この婚約は破棄すると告げる。おそらく、君は驚愕して、こんな仕打ちを受ける覚えはないというだろう。周りの者たちも皆、その通りだと頷き合うだろう。「あの方がどれほど献身的に支えてこられたか、王太子殿下は忘れてしまったのか!?」と、誰もが口々にいい合うことだろう。
けれど、私は知っている。
君がどれほど残酷な人間であるか、私は知っているのだ。
私たちが出会ったのは、お互いに10歳のときだったな。
私は父王の七番目の息子で、王宮ではよく兄たちに虐められていた。
私の母はすでに亡く、母の実家は成り上がりの男爵家だった。母を後宮へ入れるために、祖父はたいそうな金額をばらまいたらしく、後を継いだ叔父は、祖父も母も疎んじていた。まして、母亡き後の私のことなど、思い出したくもない存在だったのだろう。私に後ろ盾はなく、守ってくれる大人もまたいなかった。
私には魔術の才能もなかった。
かつて偉大なる魔術王が築いたといわれるこの国で、私は王子でありながら、炎を操ることも、風とともに飛ぶことも、水を生み出すことも、大地を揺らがせることもできなかった。兄王子たちは、どれか一つは扱えたというのに、私だけは、教師も匙を投げるほどだった。
私に扱えた魔術は、ほんのささやかな治癒術だけ。それも、紙で切った指先を治せるかどうかといったところだった。無能だと、誰にいわれるまでもなく、私自身が一番感じていたよ。
君も知っての通りだ、アーマリナ。
ここに改めて書き記すのは、君に伝えるためではない。
この日記を、君が目にすることはない。
これは私にとって、決意表明のようなものだ。
明日、誰に何をいわれようとも、私の意志が挫けることのないように。
話を戻そう。
10歳のときに、父王の命で、私たちの婚約は結ばれた。
君は一人娘で、私は君の家に婿入りする予定だった。兄たちは大いに嘲笑っていたよ。君の家は、代々優れた騎士を輩出している軍人貴族だったが、家格が高いとはいいがたかったからだ。確かに、一国の王子が婿入りするには、不釣り合いといえたのだろう。
けれど、私は、王子といっても、王宮内の幽霊のような存在だった。
誰にも気にかけられることはなく、いてもいなくても同じで、ときどき思い出したように暴力を振るわれるだけだ。
だから私は、この婚約を嘆くどころではなく、君や、君の父君がこの婚約にさぞ不満だろうと、怯えていたものだ。影の薄い、無能な王子との婚約など嫌だと、まだ見ぬ君がそう泣いている気がした。君との顔合わせの日が近づくことすら、憂鬱でならなかった。
王宮の片隅の庭園に、君が現れたときのことを、今でもよく覚えている。
あの日の空は、私の心と同じように、どんよりと曇っていたな。
だというのに、君ときたらまるで、風を切るようにやってきた!
「すみません」と、君はいった。「おまたせしてしまいました、走ってきたんですけど」と、ドレス姿で、肩で息をしながらいった。
君の後ろ、少し離れた場所で、騎士服姿の君の父君が、真っ青な顔をしていたのは、今となっては笑い話だよ。
君は騎士になるための訓練をしていたのだといった。それで時間に遅れそうになったのだと。
私は愚かしい問いかけをしたな。「それは、危なくはないのですか?」と。
剣を振るうのだ。危ないに決まっている。だけど、君は、若葉色の瞳を輝かせて、力強く答えた。「大丈夫ですよ!」と。それから君は、自分は身体強化の魔術が使えるのだとつけ加えた。
そのとき、10歳だった私がどのような想像をしたか、君は知らないだろう、アーマリナ。幼く、物知らずで、愚かだった私は、君には屈強な大男とて軽々と投げ飛ばせるような力があるのだと思ったのだ。それほどに強力な身体強化術を使えるのだろうと。だから、危険はないと断言できるのだろうと。
アーマリナ。陽の雫のような金の髪に、瑞々しい若葉のような瞳をした君よ。
君は、立派な騎士になるのが夢だと語った。父君のように、強く賢い騎士になって、皆を守るのだと。そのために、日々訓練に励んでいるのだと、君は意気揚々と語った。
婚約者である王子との顔合わせの場だ。父君は卒倒しそうな顔をしていたが、私は、君の瞳の輝きに魅せられていた。君はきらきらと光り輝いていて、その瞳に宿る意志は誰にも曲げられないほど強く固く、まっすぐだった。
私は、生まれて初めて、憧憬というものを胸に抱いた。私は君に憧れていた。君のその情熱と、輝きと、意志の強さに。
それがいつか、私の足元をすくうのだと、知らぬまま。
君は、たびたび、私に会いに来てくれるようになった。
君は、訓練で負った擦り傷や、あざを、隠すことはなく、誇らしそうにしていたけれど、私は君の傷を見るたびに、気が気でなかった。
私が、魔術の猛勉強を始めたのは、あの頃からだぞ、アーマリナ。
君は未だに理解していないが、私が私の治癒術を、それこそ死に物狂いで高めていったのは、この国の人々を守るためではない。兵士たちを守るためでもない。そんな崇高な理由ではない。私は君とは違う。私はただの俗物だ。私は君の傷を治したかった。君は私にとって、太陽よりも眩しい、ただ一つの輝きであったから。
君と婚約してから、半年後のことだ。
私は、父王から、辺境の砦の責任者に命じられた。
過去には魔物が多く出没し、国境の守りの要といわれた砦だったが、当時はすでに目立った戦いも起こらなくなっており、その分、資金も人材もろくに配備されていなかった。
私は要するに、田舎へ飛ばされたのだ。
私に不満はなかった。王宮にも王都にも、何の未練もなかった。もとより、王位を欲するような覇気はない男だ、私は。辺境の地でひっそりとつつましく暮らせるならば、そのほうがよほど身の丈に合っているように思えた。
ただ一つ、悲しく、苦しかったのは、君と遠く離れてしまうことだった。
私が王都に戻されることは、一生ないだろうとわかっていた。王宮にいても幽霊同然の王子を、王都から遠く離れた田舎へ置くことは、父王なりの配慮なのだろうとわかっていた。私はこの先の一生を、その砦で終えるのだと。
君の父君であるレガルド卿は、私にも優しく、誠実で、君のいう通り立派な騎士だった。私の人生で初めて出会った、真っ当な大人だった。
しかし、だからこそ、彼が娘の幸せを願わないはずがないとわかっていた。名ばかりの王子であっても王族は王族だからと、その血筋目当てに遠い田舎へ愛娘を嫁がせるような真似は、彼はしないだろう。おそらく、旅立つ前には、君との婚約は解消されてしまうのだろうと、深い悲しみと、なじみ深い諦念の中で思っていた。
けれど、旅立ちの日になっても、婚約解消を告げられることはなかった。
そして、当日の朝。
見送る者も、別れを惜しむ者もいない、七番目の王子の出立に、空だけが皮肉なほどに青く澄み渡っていたあの日。
君は来た。
膨れ上がった荷袋を背負って、両手にも重そうな鞄を持って、当たり前のような顔をして、君は来た。
「晴れてよかったですね、殿下!」
それが君の第一声だったことを、私は今でも覚えている。一生忘れることはないだろう。
私はあのとき、初めて、君の前で泣いてしまった。』
ぱらりと、紙をめくる。
次のページからは、文字は、どことなく伸びやかだった。まるで、書き手の心情を表しているかのように。