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2 二箇所の暗号


 (みつぐ)が三善家の門前で新伍(しんご)を呼び止めたのは、ちょうど新伍が散歩から帰ってきたときだった。


「お時間よろしいですか?」

「僕に、ですか?」


 三善家の主である陸軍中将への用事ではなく、自分への用事なのかと確認すると、貢は確かに「えぇ、五島さんに」と頷いた。


 軍帽のつばをキュッと直し、丁寧な口調で新伍で頼む。


「実は少々、五島さんに知恵をお借りしたいのです」


 陸軍少尉の藤高貢とは、桜子の事件以来、会えば話す仲となった。頭の回転がよく、鋭い男だ。近々、陸軍大学校に進むことも決まっている。


 その貢が、いきなり訪ねてきて、しかも助力を乞うなど、よほどのことに違いない。


「あと一時間程で桜子さんたちが来るので、それまででも、よろしいですか?」

「桜子さんが?」

「胡条の旦那様とお二人で、晩餐にいらっしゃるんです。三善中将のご招待で」


 桜子の唯一の婚約者候補である新伍も、勿論、その晩餐に同席する。


「そうですか。それは、順調そうで何より」


 貢は淡々と頷くと、すぐに話題を切り替えた。


「それでは、あまり時間がありませんね。すぐにでも見ていただきたい物があるのですが」

「承知しました」


 時津に頼んで、貢を応接室に通してもらう。

 三善家の応接間は胡条に比べればずっと小さい。灰緑色のカーペットの上に、肘掛のついた低い応接椅子が四脚とそれに合わせた机が置いてある。


 貢は、新伍の向かいに腰掛けると、運ばれたお茶に手を付けることもなく、口を開いた。


「早速ですが、こちらを」


 ポケットから折り畳んだ数枚の紙束を取り出して、新伍の前に置く。


「……これは?」

「実は、ある男を追っていた時に、偶然、その男が落としたものです」


 貢が、この紙を手に入れた経緯を掻い摘んで説明する。


「それで、この中には不可解な……暗号のようなものが書かれています」

「暗号ですか? 開けてみても?」


 貢に許可を得て、新伍は紙を取って開く。

 目を通した瞬間、思わず「え?」と、驚きの声をあげた。


「これは……」


 その暗号は、つい先程、散歩の道中に長屋の板塀で目にしたものと、とてもよく似ていた。


「ご覧のとおり、文字は英語ですが、意味はないでしょう?」


 貢も、これが英単語として意味を成していないことは理解している。


「一見すると、てんでバラバラな文字の羅列に過ぎない。しかも中には間違っている字もある。ひょっとしたら、解読に何か乱数表のようなものを用いるのかと頭を捻ってみたのですが……私にはお手上げでしてね」


 いつもと同じ無表情の貢が、こめかみをぐっと押さえた。


 新伍は、紙束に順に目を通す。

 全部で五枚。どれも同じような英字の羅列だが、全く同じものはない。


「面白い……ですね」


 まさか同じ日に、同じ暗号をお目にかかるとは。なんとも珍しい日だ。新伍の口から、思わず笑みが漏れる。


 新伍は手にした一枚目の紙に目を落とした。


・・・・・・・・・・・・・・

 Omr  10m" 

 wP"cD『y』m『S』mM

・・・・・・・・・・・・・・


 二行目のyとSが反転している。鏡文字だ。(※鏡文字を表記できないため、『』で括ってあります)

 そして、二枚目。


・・・・・・・・・・・・・・

 K『c』e k"k"3 m"

 wwOoNK

・・・・・・・・・・・・・・


 こちらは、二文字目のcが、やはり鏡文字。


 1つ目の紙には、正しく「c」が書いてあるから、単なる間違いではないだろう。何か意味があって反転させているのだ。


 それから気になるのは、あちらこちらにある不自然な記号。貢の長い指が伸びてきて、その一つを指した。


「この点々は、英語の会話文などで使うもののように見えますが、五島さんはどう思いますか?」


「ダブルコーテーションマーク、ですね。確かに、そう見えますが、いずれも会話文とは思えない不自然な箇所です」


 新伍は、残りの紙束も順に捲る。

 全て似たような暗号が書いてある。


「これを持っていたのは、どんな方ですか?」


 新伍が尋ねると、貢は口を開きかけて、すぐに閉じた。ぐっと結んだ唇からは、なんと答えようか思案しているように見える。


 新伍が様子を伺っていると、やがて貢は口を開いた。


「……売れない文筆家です」

「作家?」

「たまに粗末な文章を書くが、大して儲けもないような。大部分の時間を、仲間の自称知識人たちとサロンと呼びあう溜まり場に屯し、無為な時間を過しているような類の人間ですね」


 無為な時間だと思うのは、貢の主観だろう。彼らに対して、あまり良い感情を抱いていないようだ。


「どうして少尉はその人物を追っていたのですか?」

「それについては国防に関わる、とだけ」

「国防?……というと、海の向こうの大陸ですか?」

「今は、北方もキナ臭い」


 貢はすぐに身体を引いて、小さく首を振った。


「すみませんが、五島さんでもこれ以上は……」


 貢は、詳しく話すつもりはないようだ。

 だが、彼の話しぶりから、この手紙の持ち主は、おそらく間諜を疑われているのだろうと思われた。


「分かりました」


 そういう事情なら、答えられないこともあるだろう。新伍は、質問の角度を変えた。


「その人の名前と年齢は教えていただけますか?」

高輪祐一(たかなわ ゆういち)。年齢は、25歳」

「英語は堪能ですか?」

「海外文学をすらすらと読める程度には」


 その男の情報が頭に入っているらしい。今度は淀みなく答える。


「海外文学をすらすら読みこなすなら、かなり学のある人物なのですね」

「五島さんの先輩ですよ。ただし、数度留年した末に、中退しているが」


「……なるほど。帝国大学ですか」


 貢が軽く顎を引いて、肯定の意を示す。


「仲間の連中とどこで出会ったか知りませんが、高輪祐一は随分と他国の思想に傾倒していたとか。そのあまり学業ままならず、ついには二年前に中退したようです」


 そして今は売れない作家、か。

 在籍が二年前なら、丹念に探していけば祐一を知っている人間に当たるかもしれない。


「ちなみに、その高輪祐一さんは、兄弟はいますか? 弟か……あるいは、妹」


 この質問は、貢にとって想定外であったらしい。虚をつかれたように動きを止めた。

 やがて申し訳無さそうに答えた。


「すみません。その点について、私は把握していない」


 貢の知る限り、祐一は天涯孤独の身だという。

 

「両親は、帝国大学に入ると同時期に亡くなっているはずですが…弟妹が重要ですか?」

「ひょっとしたら」


 すると貢が鋭い三白眼を見開いて、身を乗り出した。


「五島さん。まさか、もう解けたんですか?」


 珍しく、見てわかるほどに驚いている。驚愕の中には期待が混じっていた。焦る少尉を押しとどめるように、新伍は軽く首を振った。


「申し訳ありません。流石に、まだ……」


 否定しながらも、新伍の頭の中では既に、この英字の組み合わせから導き出せそうな内容を幾通りも検討し始めている。


「まだ解けてはいませんが、挑戦はしてみたいですね」


 紙を見比べていた新伍の口元が思わず緩む。それを貢は見逃さなかった。


「イキイキしていますね。楽しそうだ」


 指摘され、新伍は思わず口を手で覆った。


「あぁ、すみません。国防に関わる事案だというのに、不謹慎でしたね」

「構いませんよ」


 貢は、気にすることはないと、さらりと言った。


「元より私は、五島さんの知恵を借りに来たのです。これを解くのが貴方のなすべきことであり、その答えを活かすのは、私の役目ですから」


 藤高貢は、決して揺るがない。自分の信念がハッキリしている。そして合理的だ。

 それが、新伍が初対面から、この男を好ましく思った一番の理由だ。


「少しお時間をいただけますか? それと、この紙、お預かりしてもいいですか?」

「構いません。5日後の同じ時刻にまた来ましょう」

「5日後?」

「私が非番なので」


 5日か。時間としては十分だ。確約は出来ぬが、可能だろう。いや、解き明かしてみせる。

 新伍が難敵を見つけたような高揚を感じていることを、貢はしっかり見抜いていた。


「5日後、解けていても、いなくても進捗状況を聞きに来ます。が、次に私が来たときには、貴方は解き終えている気がしますよ」


 確信めいた調子で告げた貢は、ついでのように、なかなかの無理難題を注文する。


「可能なら、高輪祐一とその隠れ家を明かしていただきたいのですがね。私は奴らを引き摺り出したい」


「それは……あまり期待をしないでください」


 貢のブレのない鋭い視線に、新伍は、ため息交じりに苦笑した。


*  *  *


 昨日と同じ木箱に腰掛けて馴染んだ煙管をふかしていた徳助が、新伍と目が合うなり呆れたように言った。


「ホントに来たのか……」

「今日も、盛大に書かれていますねぇ」


 足を止めて、壁を見る。


 昨日と同じ位置に、同じ炭のようなもので、


・・・・・・・・・・・・・・・・


 PMu nKm『c』i OhL"eS


・・・・・・・・・・・・・・・・


 と書かれている。nKm『c』iのcが鏡文字だ。


「あんたが見たがっていたから、消さずに待っていたんだが」

「ありがとうございます」


 顎に手を当て、熱心に文字を眺める新伍に、徳助は「物好きもいるもんだな」と首をコキっと鳴らして、また遠くを見る。

 今日は、帳面を持ってきた。気持ちよさそうに煙管を燻らせる徳助の隣で、新伍は壁に書いた文字を写し始める。


「あんた、そこに何が書いてあるのか、読めるのか?」


 徳助は、地面に落とした煙草の葉屑を草履で踏んづけながら、尋ねた。


「うーん…解けそうな気もしますが、決め手に欠ける……といったところでしょうか?」

「何だそりゃ、ハッキリせんな」

「すみません」


 徳助は、木箱から立ち上がると伸びをして、腰を伸ばした。


「そろそろ、消してもいいかね? 差配人さんが戻ってくる前には、きれいにしておきたいんでね」

「帳面に写したので、消していただいて大丈夫てす」


 新伍が了承すると、徳助は昨日と同じように桶の水で絞った雑巾で、ゴシゴシと壁を擦りはじめた。


 それを眺めながら、徳助に話しかける。


「徳助さんにちょっと聞きたい事があるんですが、いいですか?」


 徳助が手を動かしたまま、「なんだ?」と問い返す。


「この辺りで、子どもがよく遊ぶ場所を教えてください」


 新伍の質問が意外だったのか、徳助は手を止めて、振り返った。


「子どもが……なんだって?」

「子どもの遊び場です。この辺りの子たちの」


 なんでそんなことを聞くのかと、不審がられるかと思ったが、徳助に質問の意図を気にする素振りはなかった。

 雑巾を桶にいれて、濯ぎながら、「そうだなぁ……」と呟く。


「子どもの遊びそうな場所といえば、お化け森神社、ひょうたん池、赤松塚。あとは、ちょっと行ったところにある河原……あたりだろうな」


「赤松塚、というのは?」

「河原の近くに、古い赤松が一本立っていて、その下に小さな祠がある。その祠のことを、ここいらの人間は、皆、赤松塚と呼んでおる」

「近いですか?」

「すぐそこだよ」


 徳助は、それ以外のお化け森神社やひょうたん池の場所についても教えてくれた。


 ひょうたん池なんていう地名は、丸が二つ重なる瓢箪型の池によく付く呼び名だから、名前なんてあってないよなものだ。

 ここらでいう「ひょうたん池」というのも、ごくごく小さな水の溜り場らしい。


 徳助の話は、なかなか参考になった。


 懐の帳面に覚えで書き付けると、頁を捲る。

 そこには次なる目的地が記されていた。


「ありがとうございます。徳助さんのおかげで、あと少しで解けそうです」


 新伍は徳助に礼を告げると、背後を振り仰ぐ。広い畑の向こうに、でんと構えた二階建ての建物を一瞥してから、その場を離れた。



◇  ◇  ◇


 桜子が三善家の応接間に入ると、一人掛けの椅子に座った新伍が、背中を丸めて何かを書いていた。


 今日は時津がいないようだ。顔なじみの女中は、応接間に桜子を通すと、さっさとお茶の用意をしに部屋を出で行ってしまった。

 三善の家とは気安い関係だから構わないのだが、時津がいたら絶対に、桜子が来たからと新伍の手を止めさせただろう。


「新伍さん?」


 名を呼びながら近づいたが、新伍は集中しているようで、気が付かない。

 桜子は新伍の背後に回った。何を書いているのか、頭の上からそっとのぞき込む。

 盗み見をするなんて、令嬢としては褒められたことではないが、何度呼んでも顔を上げない新伍だって悪いと思う。


 机の上には数枚の紙が重ねて置いてあって、新伍はそれを見ながら別の紙に何やら書き写している。


「これは……英語ですか?」


 桜子が覆うように覗き込んでいたせいだろう。耳元で響いた声に、新伍は驚いて顔を上げた。


「桜子さん、いらしていたんですね」


 もうこんな時間でしたか、と紙を片付けながら言った。


「気が付かず、すみませんでした」

「そちらは……大学の勉強ですか?」


 桜子が新伍の前に回る。新伍が片付けた紙について尋ねながら、向かいの席に腰掛けた。


「いえ、ちょっと人からの頼まれ事で、暗号を解いていました」

「暗号……ですか?」


 暗号といえば、他人に知られぬように決まった人同士でやり取りするために使うものだ。例えば、軍の機密を扱うような……

 新伍が居候している三善は、陸軍中将の家だ。何となく物騒な印象に桜子は思わず眉を寄せたが、新伍がすぐに、心配ないと手を仰いだ。


「機密に関わるようなものなら、こんなところに堂々と広げたりはしません。これは……ほんの子どもの遊びみたいなものです」


 新伍がいたずらっぽく肩をすくめた。

 その顔をみれば、暗号がほとんど解けているようにみえた。


 ちょうど新伍が片し終えるのと同時に、先ほどの女中がお茶とお菓子を運んできた。


「あら、チョコレート……?」


 桜子の前に置かれた小皿には、摘んで一口で食べられる大きさのチョコレートが二つ乗っている。

 三善家でお茶請けにチョコレートが出てくるのは初めてた。あまり洋菓子を嗜む家ではない。お茶はいつもの湯飲みに緑茶だ。


 桜子が「いただきます」と一つ口にいれると、舌の上で、甘い味が溶けて広がる。


「美味しい!」

「桜子さんがお気に召したのなら、また買ってきましょうか?」

「えっ?! これ、新伍さんが買ってきたのですか?」


 新伍がにこりと笑って頷く。


「……どちらのお店のものですか?」


 確かに、新伍が外出した時に新しい饅頭屋を見つけたとか、美味しい大福餅だったとか言って、お土産をくれることは時々あった。


 でも、チョコレートのような洋菓子はもらったことがない。

 チョコレートは、居候の書生である新伍が何度も買いに行くほど安価ではないはずだ。


 桜子が暗に懐具合への心配を滲ませて尋ねたことに気がついたのか、新伍は軽く肩を竦めた。


「お金のことは、お気になさらずに。この暗号を調べるために、依頼主から必要経費としていただける約束ですから」


 子どもの遊びみたいな暗号に必要経費が出るのかしら。それとも、子どもの遊びというのは、新伍にとって簡単という比喩で、実際には重要な案件ということなのか。


「……どなたからのご依頼ですか?」

「それは、まだ内緒です」


 新伍はそう言うと、自身もチョコレートを口に放り込んで、緑茶を一口啜る。

 桜子が何となく次の一つに手を伸ばすのを躊躇っていた。

 すると、桜子の不安を拭うように、気楽な調子で新伍が言った。

 

「本当に心配無用ですよ。だってこれは子どもの遊び、マザーグースなのですから」



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