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6 牧栄進の決意

続編になってからも、ブクマ、評価、いいねをいただき、ありがとうございます!!

その応援に、大変励まされて、今回で続編完結。ありがとうございました。



 新伍が、掴んだ腕を掲げ、問いかけた。


「その包帯の下、犬の噛み跡ではありませんか?」


 歯をガチガチと鳴らして、無言のまま震える富乃(とみの)

 老医師が素早く側に寄って、包帯を解く。


 すると、新伍の推察通り、富乃の指は犬が噛んだように点々状に腫れている。


「これは……噛まれたのは、いつじゃ?」

「……み……三日前の夕刻です……」


 医師に問われ、ようやく口を開く。


「あの子、いつもより凄く気が立っていて、餌をあげようとしたら、突然……」


「先程言ったように、貴女が餌付けしていた犬は、狂犬病だ。噛まれた者たちの多くは、すでに死んでいる。」


 新伍が言った。


「……で………でも…」


 それでも富乃は、言い訳でもするように、


「あの人たちが噛まれた時、あの子、そんなおかしな様子はかった………」

「まだ発症してなかったんじゃろう。」


 今度は、医師が答える。


「感染してから症状が現れるまでは、一般的に、三週間から一月(ひとつき)程度。だが、噛まれた位置や本人の体力次第で大きく前後する。」


 心臓に近い位置を噛まれるほど、発症が早いと考えられている。そして、発症したら、まず助からない。


「実のところ、先生に来ていただいたのは、あの人を診てもらうためではありません。診断はしてもらおうと思っていましたが……」


 新伍の言葉に、老医師がため息をついた。


「儂が呼ばれたのは、このお嬢ちゃんの治療か。」

「……間に合いますか?」


 老医師は、「わからん。」と断ったうえで、


「ただし、希望はある。そう深く噛んだわけではないようだし……海外では、感染後にワクチンを接種することで発症を抑えられたという例もあると聞く。やってみる価値はあるが……」


「わ……私には、そんなお金……」


 医師と新伍の会話に、一層青白くなる富乃を見て、居ても立っても居られなくなった桜子は、


「……時津、湖城で……」


 何とかならないかと相談しようとした瞬間、新伍が止めた。


「止しなさい。」

「えっ?!」


 驚き、戸惑う桜子に、


「牧家の女中は、桜子さんとは関係ない。湖城家は、桜子さんの一存で、誰かれ構わず慈善事業をするつもりですか?」

「で……でも……それでは、お富さんが……」

「いえ、大丈夫ですよ。」


 新伍の顔が僅かに和らいだようにみえた、その時。


 ガラッと引き戸が開いた。そこにいたのは、


「栄進ちゃん?!」


 下唇を噛み締めた栄進が、仁王立ちをしていた。


「なぜ、栄進ちゃんが、ここに?」


 栄進は、伯母に諭され、自室に戻ったはずだ。


「ずっと、僕たちを追ってきていましたよね?」

「五島さん、気づいていたんですね……」


 気づいていたのに黙っているなんて、人が悪いやと、苦々しく呟く栄進。

 貢も軽く肩を竦めたところをみると、同じく気づいていたらしい。


 栄進は、つかつかと歩いてくると、土間を上がり、富乃の前、彼女を庇うような位置で腰を下ろしして、板張りの床に膝をついた。


「皆さん。」


 栄進は、新伍、桜子、貢、時津、そして老医師の顔を順に見ると、


「この度は、当家の女中が、大変なご迷惑をおかけいたしました。」


 両手を床について、頭を下げる。

 しばらく低頭していた栄進は、やがて、ゆっくり頭をあげると、


「桜子姉さん。あと……時津さんも。」


 二人の顔を交互に見て、


「改めて、父と母とも相談した上で、湖城のお宅に伺います。富乃の治療費をお借りするために。お借りしたお金は、将来、必ず僕が湖城で身を立て、お返ししますから。」


「なん……で、栄進ちゃんがそんなこと……?」


「富乃は、牧家の女中です。当家できちんと面倒を見るべきですが、恥ずかしながら、どれだけかかるか分からないような金を、すぐに用意できるような状態ではありません。」


 強い決意。それに、時津が水を差す。


「栄進さんのお父様やお母様が、賛同するとは限りませんよ? 悪い男に誑かされたとはいえ、彼女は盗人だ。」


 栄進は、背筋をピンと伸ばして、「両親は僕が説得します。」と真っ直ぐに言う。


「富乃は、根は真面目です。田舎の家族を養うために、必死で働いてきた。今も仕送りの殆どを家に送っています。確かに今回のことは、彼女の浅薄が招いたことですが、決して悪い者ではないのです。」


 たった10歳の栄進が、まるで牧家を支える頭首のようみえたがーーー


「でも栄進ちゃんは、まだ10歳で………しかも、跡継ぎでもないでしょう……」

「だからこそ、です。」


 栄進は桜子の言葉を遮った。


「……僕ならば………湖城に入ることが決まっている僕ならば、この身と働きを持って、必ずやお返しできる。だから、僕がお願いに上がらねばならないのです。」


「どうして、そこまで……?」


 栄進の言うことには、一理あるかもしれないが、それは、まだほんの子どもの栄進が負うべき責任ではない。

 すると、栄進が尋ねた。


「桜子姉さんなら、どうしますか?」

「……え?」

「同じことが自分の家の使用人に起こって……例えば、イツさんが同じ状況になったら、桜子姉さんはどうしますか?」


 そんなの、聞かれるまでもない。頭下げて助かる可能性があるのなら、父にでも、金を出してくれる他の誰かにでも、ためらうことなく頭を下げるだろう。


「僕は……僕は、桜子姉さんが好きだから……桜子姉さんに憧れているから、だから、僕もこうしているんですよ。」

「栄進ちゃん……」


「わかりました。」


 時津が言った。


「明日の旦那さまの予定を確認して、栄進さまに御連絡いたします。」


「ありがとうございます……」


 栄進が再び、低く頭を下げた。



◇  ◇  ◇



 その翌日から、辺り一帯の野犬狩りが行われた。


 野犬狩りは、かなり広範囲にわたり、警察のほか、陸軍の小隊も駆り出された。噂によると、藤高少尉も現地に赴いたらしい。


 富乃が餌をあげていた思しき犬は、どこかの家から逃げ出してきた洋犬と二匹で仲良く寄り添って、息絶えているのが見付かった。

 また付近では、他にも数名、犬に噛まれた者や感染が疑われる者がいたという。


 元々、狂犬病の可能性が疑われていたが、最初の男たちが医者に罹らないまま、立て続けに死んでしまったから、調べが進まなかったらしい。

 新伍のお陰で罹患中の者が見つかり、診断を下すことができた。

 

 警察は、念のため、事件の面からも捜査していたようだから、あの日、牧家の裏門で、桜子が見た勝川警部補は見間違いではなかったのだろう。


 ここ数年、あたりで狂犬病は、見られていなかったから、その死んだ洋犬が、異国からウイルスを持ち込んだのだろうと考えられたが、詳しいことは分かっていない。


 事件は終息した。


 おそらく、よほどのことがない限り、新聞で続報を聞くことはないだろう。



 おおよそ、そんな事を、桜子は父と新伍から聞いた。



 また、事件の翌日には、約束通り、栄進が、栄進の父の牧男爵とともに、湖城家を訪れた。

 予め時津と新伍から事の次第を聞いていた父の重三郎(じゅうざぶろう)は、牧家の頼みを二つ返事で承諾した。


 イツが後で、「時津さんから聞いた話です」と教えてくれたところによると、先立って、新伍が随分、口添えしてくれていたらしい。


 曰く、


「狂犬病の治療実績は、日本では殆どありません。これは一女中の治療ではない。今回の治療が上手く行けば、将来、何千、何万人もの人間を救うことができる。そのための投資と考えてみてはいかがでしょう?」


 新伍は、父に向かって、そんなことを告げたのだという。


「すごいですね、五島さん。時津さんも、驚いていました。」


 時津が、他人を褒めるような話を口にするのは、珍しい。


 桜子は、自分の思い慕っている人が、認められるのを聞いて、嬉しくなった。



 そして事件から10日が経った。


 その日、湖城家の応接室には、新伍と栄進がいた。


 富乃の治療経過は今のところ順調で、栄進は、その報告とお礼に、改めて新伍と桜子に会いに来たのた。


「先生によると、治療は、まだ続くそうですが……」


 それでも、ワクチン接種とやらは、順調らしい。


「上手くいくと良いわね。」

「本当に、ありがとうございました。」


 背筋を伸ばした栄進が、桜子と、それから新伍のほうに深く頭を下げた。


 長々と頭を垂れる栄進に、桜子と新伍が顔をあげるように促す。

 そろそろと面をみせる栄進に、もうこれ以上、貴方が気に病む必要はないのよと、机の上の紅茶を勧めた。


 それで、どこかホッと肩の力を抜いた栄進が、ティーカップに口をつけた。


 場の緊張が解れたのを見計らって、桜子が、ずっと気になっていたことを口にした。


「それにしても、結局、私の根付や櫛がなくなったのは、何だったのかしら?」


 途端、栄進が、ゴボッとむせ返るような咳。


 紅茶がおかしなところにでも入ったのか、カップを置いて、ゴホゴホ苦しそうにしている。


「あら?! 大変?!」


 桜子は、ハンカチを出して栄進の口元を拭う。

 汚れたハンカチをイツに渡すと、また、話をもとに戻した。


「結局、富乃さんが盗ったを返してくれたのか、それとも犬が盗ったのが見つかったのか……ねぇ、新伍さんは、それも分かっているんですか?」


「あぁ、それは……」


 新伍が穏やかに「桜子さんの予想は、どちらも違いますよ。」という。


「どちらも違う? 新伍さんは、犯人が分かっているのですか?」

「えぇ、まぁ………僕の口から言ってもいいのですが……」


 意味ありげに、栄進に視線を送る。


「罪というのは、得てして自白したほうが軽くなるものですよ。」


 すると、栄進はプイッとそっぽを向いて、


「…な……なんのことでしょう……?」


 新伍が軽く肩を竦めた。


 そのやり取りをみていて、流石の桜子もピンときた。


「まぁ?! じゃあ、栄進ちゃんがやったのね?」


 栄進は、視線をグリグリとあちこちに巡らせていたが、やがてガクンと肩を落とす。


「………ごめんなさい。」


「なんで、そんなイタズラをしたの? こんなことをして面白がるなんて、栄進ちゃんらしくないわ。」

「別ッに……面白がっていたわけでは……!!」


 勢いよく反論しかけた言葉は、どんどん自信なさげに小さくなり、終いには呟くように、


「だって……なくしたものが見つかれば、ここに来る理由ができるから……」

「呆れた……それじゃあ、うちにごはんを食べに来る口実で?」


 栄進を伴って牧家に戻ったとき、房は確かに、栄進に向かって、「湖城家(あちら)でごはんを食べてくると思った」と言っていた。

 ということは、栄進が湖城家を訪れれば、晩餐をともにすると思っていたのだ。


「そんな口実なんて作らなくても、うちでごはんを食べたいなら、そう言えばいいじゃない。」


 それにしても、牧男爵家の食卓は、そんなに貧しいのかしら?ーーーそんなことを考えていたら、新伍が堪えきれないとばかりに、クスリと笑った。


「あぁ、すみません。桜子さんがあまりに的はずれなことを言うから。」

「的はずれ?」


 どういうことですかと聞き返すと、新伍は、なぜか困ったように、栄進を見た。


「うーん………」

「栄進ちゃん? どういうこと?」


 しかし栄進は、貝みたいに固く口を閉ざして、俯くばかり。まるで叱られた子供みたいに黙りこくる栄進に、新伍が仕方なくといった様子で、


「桜子さん。栄進さんが、ここに来たいのは、ご飯が目的じゃありませんよ。」

「えっ……と………それって、どういう……?」


 と、突然、桜子の言葉を遮るように栄進が叫んだ。


「だってッ!!」


 栄進の顔が、タコみたいに真っ赤になっている。


「だって、僕が一生懸命勉強をすれば、湖城の後を継ぐ可能性もあると、重三郎叔父様は言いました。だから、僕は湖城の家に入って、桜子姉さんをお嫁さんに貰えると思って……なのに……」


 キッと新伍を睨みつけて、


「いつの間にか、桜子姉さんは婚約してるし、時津さんもいなくなってるし……」

「時津? なんで今、時津?」

「時津さんは、前に、僕が湖城家の跡をついで、桜子姉さんと結婚したいと打ち明けたら、賛成してくれたんです! すごく…すごく応援してくれて……!!」


 そういえば、時津は桜子が婿を貰うことに、やたら執心していたのだった。栄進が婿に入りたいといえば、大歓迎だったろう。


「だから、僕、凄く頑張っていたのに!! 桜子お姉さんが大好きだから……だから、頑張っていたのに……!!!」


 悔しそうに震える栄進は、手をギュッと膝の上で握りしめ、ポロポロと涙を零す。

 あの長屋の板の間で頭を下げたのとは違う。そこには、紛れもなく、10歳の男の子の栄進がいた。


 桜子は初め、呆気に取られた。

 しかし、泣いている栄進を見ているうちに、いたたまれなくなり、思わず背を擦ろうと手を伸ばすと、その手を新伍に止められた。


 無言で、新伍が首を左右に振る。

 余計なことするな、ということなのだろう。


 それで、なす術なく見守っていると、栄進は、ひとしきりワンワン泣いて、ようやく落ち着いたのか、やや恥ずかしげに「帰ります。」と言った。


 車夫の大二にお願いして、門前に人力車をつけてもらう。

 新伍と桜子は、栄進を人力車の前まで見送った。


 その別れ際、新伍が言った。


「栄進さん。勉強は、ちゃんと続けてくださいね。」

「……え?」

「キミはいずれ、湖城家の跡を継ぐとこになるかもしれないのだから。」


 栄進は驚いたように目を見開いて、それから、「でも……」と、やや困惑気味に目を伏せた。


「仮に僕が跡を継いでも、桜子さんは、五島さんと結婚するんでしょう?」

「えぇ、勿論。()()()ですから。」


 即答する新伍に、桜子は驚いて横を振り向いた。しかし、新伍は涼しい顔で話を続ける。


「努力家で負けん気の強いキミは、きっと良い後継ぎになりますよ。それに、桜子さんの良い影響も受けているようです。」

「良い影響?」

「周りの人を大事にするところ、です。」


 栄進は、ハッと目を見開いてから、なぜか嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。五島さん。」


 ペコリと頭を下げてから、人力車に乗り込む。


 大二が踏み台を片付け、人力車を持ち上げた。車が出る瞬間、


「桜子お姉さん!!」


 栄進が、無邪気な笑顔で叫んだ。


「婚約、おめでとうございます! それでは、また今度!!」


 そして、人力車は力強く出発する。


 姿が見えなくなるまで、二人で見送ると、新伍がいつもと寸分変わらぬ調子で、


「さて、せっかくだから、僕らも出かけますか?」


 そう言って、歩き出しだから、桜子は、慌てて新伍の後を追った。


「ちょっ……ちょっと!! 待ってください。」


 新伍に追いつくと、歩きながら、斜め上の顔を覗き込む。


「ねぇ、新伍さん。さっき、私のこと婚約者って言いました?」


 新伍は軽く首をかしげた。切りっぱなしの黒い髪がフワフワ揺れる。


「ねぇ、言いましたよね? ()()()()()、じゃなくて、()()()って、言いましたよね?」


「聞き間違いでしょう?」


 どこか、面白がるような口調。


「いいえ、確かに言いました。これで、私、婚約者に昇格ですよね? ね?」


 しかし、新伍はそれには答えず、


「さて、僕は中将への土産に、団子でも買っていこうかと思いますが、桜子さんはどうしますか?」

「え?! お団子屋さん?」


 一瞬、流されかけて、慌てて、


「今、誤魔化してます?」

「誤魔化してないですよ。」


 桜子は足を止めて、


「じゃあ誂ってます? それとも弄ばれているのかしら?」


 すると新伍も足を止めて、振り向いた。


「人聞きの悪い言い方は止して下さい。」


 珍しく、やや困ったような苦笑い。

 その顔に桜子は、なんだか、とても満足してしまった。


 この人には敵わない。

 でも、別に誂われていてもいい。この、飄々とした人が好きなのだから。


 堪えきれず「フフフ」と笑う桜子に、つられて新伍が笑い出した。


「……団子、食べに行きましょうか?」

「はい。」

 

 オメデトウと告げた栄進の笑顔のように、スッキリと晴れ渡る空の下、桜子は、新伍の隣で肩を並べて歩き出した。


 番外編をお読みいただき、ありがとうございました。

 時期は未定ですが、続き(長編)を書く予定です。気長にお待ちください。


 また、しばらくは、同じく推理ジャンルの『御簾の向こうの事件帖』に注力するので、よろしければ是非そちらをお読みいただきつつ、お待ちいただければと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 番外編もとても面白かったです!!栄進ちゃん…切ない…健気で良い子… 桜子さんと新伍さんの関係もちょっぴり進展して良かったです(*^^*)そしてやっぱり藤高さんも素敵です笑 [一言] 続…
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