3 女中の隠し事
桜子、新伍、房の3人は、伯母の部屋を出た。
「それでは、次は履物が置いてあった場所に行きましょうか。」
新伍に言われて、房が、
「分かりました。ご案内します。」
履物というから、てっきり玄関に行くのかと思ったが、房が向かったのは、敷地の奥の中庭だった。
中庭と言っても、広くはない。小さな空間に、梅や松を中心に、いくつかの植物が趣味よく整えられて植わっている。
「ここです。」
房は、中庭に面した部屋の掃き出し窓の下の、沓脱石を指差した。
「ここにいつも、庭に出るための旦那様の下駄が置いてあるのです。」
「庭に出るための下駄? ということは、それも、あまり高価なものではない、ということですか?」
「えぇ、履き古しです。」
「ふぅむ。」
新伍は、腰を屈めて石の周囲をくるりと見回した。
「それは、いつ頃、どういう状況でなくなったのですか?」
周囲を検分しながら尋ねる。
「それが……よくわからないのです」
房が申し訳無さそうに、身を縮めた。
「失くなったのは、2週間ほど前ですが、気づいたら失くなっていた……という感じなのです。その頃、旦那様はお忙しくて、帰宅も遅かったので、庭に出ている時間もなくて…」
本来なら、使用人の誰かが気づくべきだったが、「私たち使用人も、手が足りておらず……」と恥じ入るように、言った。
牧家には、家の広さに見あった使用人を雇用するだけの余力がないのだ。
「なるほど。」
しゃがみこんで縁の下にまで頭を突っ込んでいた新伍は、立ち上がると、今度は、庭の向こうから頭を出した黒い屋根瓦の建物を、見上げた。
「あちらは、何ですか?」
「当家の蔵です。と言っても、高価なものはなく、ほとんど物置のようになっていますが……」
「錠はどなたが?」
「旦那様と奥さまです。」
「房さんは、中に入ったことは?」
「勿論あります。年に2回、貯蔵物を虫干ししますので。」
そんな話をしていると、庭の奥を人影が横切った。
「お富ちゃんッ!」
房が驚いて、駆け寄る。
「大丈夫? まだ休んでいなくて……」
新伍と桜子も富乃の側へ。富乃は、まだ少し顔色が悪いが、足取りは、先程よりもしっかりしている。
「大丈夫です。そろそろ、お豆腐屋さんがくる時間でしょう? 裏門に取りに行きますね。」
「えっ?!もうそんな時間だったかしら?」
房は突然慌てだして、
「桜子さま、どうしましょう? 私、そろそろお夕飯の仕込みを始めないと……」
すると新伍が、
「僕たちは、蔵のほうを見て回りたいので、差し支えなければ、僕と桜子さんで行っても構いませんか?」
「え……えぇ、それは…構いませんが…中は見れませんよ?」
「勿論です。」
「蔵を見たいのですか?」
話を聞いていた富乃が、言った。
「裏門に行く途中までなら、ご一緒しましょうか?」
「助かります。」
新伍が礼を言うと「それでは、私はお勝手におりますので、何かあれば、お声がけください」と房が答えた。
房と別れ、今度は、富乃と新伍、桜子の三人で蔵へと向かう。
「富乃さんも、蔵に入ったことはあるんですか?」
歩きながら新伍が尋ねると、富乃が、
「えぇ。虫干しのときは、使用人総出ですから。」
「あの蔵には、どんなものが入っているのでしょう? 興味があります。」
「左様でしたか。旦那様は、古いばかりで高価なものはないと言ってましたが……田舎者の私には、なんだかよくわかない軸や壺ばかりで。」
そんなことを話していたら、新伍がふと足を止めて、
「あれ? 富乃さん、頭に何かついていますよ?」
富乃が、「え?」と、右手を髪に伸ばした。
その時、桜子は、富乃の人差し指の先に、真新しい包帯が巻かれていることに気がついた。
「とれましたか?」
耳の上あたりをパッパッと払う富乃に、
「もうちょっと上ですよ。なんだろう? ちょっと待ってください。」
新伍が富乃の方に近づき、頭頂部付近の髪を伸ばした瞬間、
「あッ!?」
桜子は思わず小さく声を上げた。その光景を見た途端、なぜだか、胃のあたりが猛烈にムカッとしたのだ。
新伍の指先が、富乃の髪に、梳くように触れる。
なんだろう。なんか、これって………ーーー
(すっごく嫌だわ!!)
別に新伍に下心などないことは、わかっている。親切で取ってやったのだと。
(でも、あんなに近づいて、髪に触る必要なんて、あるかしら?)
桜子のヤキモキした心の内など、全く気づいていないらしい新伍は、いつもの飄々とした様子で、
「よかった、取れましたよ。糸くずかな…?」
何かを摘んだ指をパッパッと払った。
「ありがとうございます。」
富乃が丁寧に頭を下げる。桜子は、「いえいえ」とにこやかに応じる新伍の、着物の袖口を軽く摘んだ。
「……新伍さん、行きましょう。」
桜子が二人を引き離すように声をかけた。
「蔵は、あちらですから。」
そもそも蔵の場所なら、桜子だって知っている。
桜子は、新伍の腕をとって右の道へ誘った。すると富乃も、反対の方を指さして、
「そうですね。裏門は向こうなので、私はここで失礼します。」
「そうでしたか。」
新伍が「案内ありがとうございます。」と、頭を下げ、二人は富乃と逆の道に足を向けた。
「早く行きましょう。」
それと意識したつもりはないのだが、桜子は自分の放つ言葉が、少しだけツンと尖っていること気づいていた。それが、しっかり、新伍にも伝わったらしい。
「桜子さん、何か怒っていますか?」
いつもより早足で歩きだした桜子に、追いついた新伍が尋ねた。
「怒ってませんよ、別に。」
どうして、こんな可愛げのない言い方をしてしまうのだろう。
なんて、考えるまでもなく、答えがわかっているからこそ、情けなさに、気落ちしてしまう。
「僕が何かしましたかね?」
「何にもしてません……ケド……」
桜子は足を止めて俯いた。
「………本当にゴミなんて、ついていたんですか?」
聞いてからすぐ、その質問のみっともなさに嫌気が差した。多分、自分の顔は今、フグみたいに膨れているにちがいない。
「……いえ……すみません。富乃さんの髪に触れたのが嫌で、その………少し嫉妬を………」
新伍は一瞬、キョトンとして顔をしたが、やがて、「ははは」と笑い出した。
「桜子さん、いいところに気が付きましまね?」
「え? いいところ……?」
戸惑う桜子とは対象的に、新伍はどこか愉しそうに言った。
「ゴミなんて、ついていませんよ。」
「………え? ゴミ、ついてないんですか?」
「ついてませんね。あれは、嘘です。」
「じゃあ、どうして………あんなこと?」
新伍は、くるりと踵を返した。
「続きは、歩きながら話しましょう。」
スタスタと、もと来た道を戻り始める。
「あ、あの…歩きながらって……?」
桜子が、慌てて後を追う。
新伍は富乃と別れた場所まで来ると、今度は、富乃が向かった方角ーーー屋敷の裏門へと歩き出した。
「あの……なぜゴミがついていた、だなんて嘘を?」
新伍が、顎の下に手を添え、「あの人……」と話しだす。
「この暑さなのに、妙に着物の襟を詰めて着ていませんでしたか?」
「そう……いえば……」
富乃の着物の襟は首の付け根ギリギリで締めていて、前も後ろも、ほとんど抜きがなかった。
今日は、この時期にしては、かなり気温が高い。この暑さで、しかも体調が悪いのなら、あんなふうに襟を締めて着たら、相当苦しいはずなのに。
「でも、それがゴミと、どんな関係が?」
「さっき、房さんが言っていたことを覚えていますか? 富乃さんが、たちの悪い男と付き合っているようだ、と。」
「え…えぇ、そういえば、そんなこと言っていましたね。」
「以前、話した通り、僕は昔、貧民窟にいたのですが、そこの男たちの中には、酔って暴力を振るう者が一定数います。しかも、得てして、その手の暴力の被害者は、女性や子どもだ。」
「まぁ!? なんて酷い。」
新伍が、「本当に」と、やや曇った顔で頷く。
「見境なく暴力を振るう者もいるが、中には抜け目のない人間もいましてね。」
「抜け目がない……というのは?」
「他の人間に見えない位置だけを殴るのです。」
「どういうことですか?」
何か、とても嫌な話を聞かされるような気がした。新伍は、桜子の反応を気にしながら、
「あからさまに殴られた跡があれば、皆、心配するでしょう? 当人も助けを求めやすい。だが、傷が見えないとなると……」
「傷が見えなくても……助けを求めることはできるのでは?」
新伍は、「桜子さんなら、そう思うでしょうね。」と、やや説明に困ったように言う。
「だけど、その手の被害者はたいてい、自分が殴られたことを言い出しにくい立場や性格の者たちです。」
桜子は、自分の発言が、まるでとても恵まれている立場の者の言葉だ、と指摘されたようで、少し気まずく感じて、俯いた。
新伍は構わず話を続ける。
「だから殴られた者は、その痕を隠そうとするのです。」
「痕を隠すということは、つまり……」
「そうです。着衣で覆い隠すんです。」
例えば、胸元が見えないように、襟をキッチリ締めてね、と新伍がいった。
「じゃあ、ゴミがついているといったのは……?」
「富乃さんが、頭に手を伸ばす時、少し袖口を気にしていたのを覚えていますか?」
「そう……いえば、確かに……」
新伍が、上の方を指していたのに、富乃は耳のあたりばかりを触っていた。
「あのとき、着物の袖口が少しだけずり下がって、一瞬、肘の近くに痣があるのが見えました。」
「本当ですか?」
「だから僕は、近寄って頭のゴミを取るふりをして、袖口と後ろ首を覗き込んだんです。そうしたら、案の定、ありましたよ。青く腫れた痕が。」
ということは、富乃が何者かに殴られていて、しかもそれを、言い出せずに隠している、ということ。
「おそらく、あの着物の下には、もっと……」
新伍の言葉で、全身が赤黒く腫れ上がった富乃の姿を想像してしまい、桜子は気持ち悪くなった。
ひょっとしたら、さっき見た指先の包帯も、そういうことなのかもしれない。
(私の馬鹿。ヤキモチなんて妬いている場合じゃないじゃない……)
「新伍さん、お富さんに話を聞くつもりなんですね? お富さんを追いかけて。」
「それもありますが………」
新伍が何か言おうとした瞬間、怒鳴る男の声が聞こえた。
「てめぇ! このヤロォ!!俺に何しゃがッ……何しや……何しやがった!!」
男は、呂律が回っていない。
「てめぇがッ俺を殺す……俺を殺す気で………何を……………何を仕込みやがって………あいつら……アイツらも、お前………」
それに応える女の声。だが、そちらは、何を言っているのかまでは分からない。
宥めるように何かを話す声は、どことなく富乃のもののように聞こえる。
「まずいッ! 富乃さん!!」
最初の怒鳴り声とともに駆け出していた新伍が、バンッと裏門の木戸を開けた。
桜子も慌てて追いかけ、扉の向こうを覗くと、そこには真っ青な顔の富乃と、眉を釣り上げた新伍。
遠くに、よろけながら走っていく男の後ろ姿が見える。
「………どう…なったんですか?」
桜子が息も切れ切れ、声をかけると、富乃が、
「何でもありません。」
やや震える声で応えた。
「ちょっと……ちょっと酔っ払いに絡まれただけですから。」
「えっ……でも、殺す気がどうとか…」
「何でもありませんッ!! あの男が、おかしなことを言って来たんです。」
それだけいうと富乃は、踵を返して屋敷の中へ足早に入って言った。
「ちょッ……ちょっと……」
慌てて追いかけようとした桜子。その背後から、
「あのぉ……」
振り向くと、桶を抱えた、痩せた年嵩の男。
「これを、お届けにあがったのですが……」
男は出入りの豆腐屋らしい。いつものように豆腐を持ってきたが、渡すはずの女中は、あの男に絡まれている。
「助けてあげなと思ったんだが、足が竦んで……このあたりは人通りもないし、助けを呼びに行こうとしたら、あんたが出てきたから……」
新伍は「お豆腐は僕が預かりましょう」と、豆腐桶を受け取りながら、
「無理もありませんよ。あんな乱暴な男、何をするか分かりませんからね。」
理解を示したことが嬉しかったのだろう。豆腐屋の爺は、ブンブンと頭を縦にふった。
「ほんに。俺を殺す気かとか、何をしたとか、えらい物騒なことを話していたもんですから……」
「当家の女中は何と? どうも、その男に付き纏われているようで、心配なのです。」
豆腐屋は、「あぁ、そうだろうね」と頷いた。
「男は初め、『俺に何の毒を盛りやがった?』とか、『他の連中も、お前がヤッたのは分かっている』とか脅しつけていたんだが、女中のほうは首を振って怯えるばかりで……」
なんて酷い。日頃から男に暴力をふるわれているのだとしたら、相当怖かっただろう。
「それで、女中が黙っているもんだから、痺れを切らした男が女の手首を掴んで……『全部、ここの家の者にバラしてやる。新聞にも載っているから、お前はもう終わりだ』って言った途端、女中が、『それだけはヤメてくれ』と取り乱していましたな……。」
「そうでしたか。男は、どんな様子でしたか? あまり呂律が回ってはいないようでしたが。」
「相当、酩酊していたようで。口が回らんせいで、涎もダラダラ垂らしていたし………。」
「涎を?」
「足元もふらついていて、ありゃあ飲み過ぎですな。」
酒を飲み続けていると、酒が抜けず、常に酔ったような状態になると聞いたことがある。きっと、そんな状態だったんだろう。
「何があったか知らんが、あちこち恨みを買うような碌でもない男だから、大方どこかの誰かに仕返しされたんでしょう。あの娘が何かしたようには、見えんかったし、天罰さね。」
その言い方に、新伍がピクリと反応した。
「おや、あの男をご存知で?」
すると、豆腐屋は、
「ここいらじゃ有名ですよ。」
正確な場所までは知らないがと、男が住んでいる家のあるあたりの場所を教えてくれた。貧民窟ほどではないが、あまり裕福ではない者たちが軒を連ねている一帯だった。
「ほぉ…あの辺りですか………」
新伍は、何か思いあたることでもあったのか、軽く頷いた。
「本来、こんな良家の女中が付き合うような連中じゃあるまいし……書生さんも、いくら世話になっているとはいえ、おかしな争いに巻き込まれんように気をつけなされ。」
新伍を牧家の書生だと判断したらしい豆腐屋は、挨拶をして去っていった。
豆腐桶を抱えた新伍が、裏門を潜って、中に戻る。後ろから続いた桜子が、門を閉めようとした瞬間、
「………あら?」
豆腐屋が去ったほうの遠くに、見覚えのある影。独特の陰鬱な雰囲気を身に纏った、あの人は………ーーーー
「勝川警部補?」
あの、園枝有朋殺害の事件の時の担当刑事。わざと卑屈で嫌味な徴発をしてくることがあり、桜子はやや苦手だった。
でも、その人が、なぜこんなところに?
遠目だから、本当に勝川だったのかと問われれば、自信はない。
だけど、門扉を閉める一瞬、桜子は警部補の探るような目と合ったような気がする。
「ねぇ、新伍さ……」
新伍に報告をしようとしたが、すでに随分先を歩いている。慌てて追いかければ、
「……毒を盛った………? 酒に酔って……涎……?」
何か考えことをしているようで、隣の桜子など眼中にないのか、一人でブツブツ呟きながら歩いている。
こういうときの新伍は、話しかけても無駄だろう。
(まぁ、後でいいわね。)
桜子は、新伍の思考を邪魔しないように、黙って傍らを歩いた。
お勝手に戻ってくると、ちょうど房が顔を出した。
「あら、豆腐。五島さんたちが受け取ってくれたのね。」
新伍の手の中の桶を見て礼を言う。
「あの…お富さんは……?」
「気分が悪みたいで、部屋に戻って眠ってしまったの。『豆腐は?』って聞いても、謝るばっかりで……」
房が桶を受けとって、
「桜子さまと五島さんも、お夕食を食べて行くのかしら?」
「いえ、私たちは……」
断りかけた桜子に、
「今日は失くなっている食材がないから、十分ご用意できると思いますよ。」
「失くなっている食材がない? というと、そんなに頻繁に食材がなくなるんですか?」
「いつも……というわけじゃありまけんけど……」
房は少し困った顔をした。
「お豆だったり、柔らかく煮た人参だったり……二〜三日に一回くらい、ちょっとしたものがなくなるんです。目を離したほんの僅かな隙だから、多分……猫かなと思っているのですが……」
何回か、富乃と捕まえようと二人がかりで見張ってみたものの、いつもこちらの隙をついて持って行く。
「最近は、もういいかなって諦めてしまって……大した量がなくなるわけではないし。」
帯留めとは違いますから、と肩を竦める房。
「猫……ですか?」
おかしいな、と新伍が小声で呟いた。
「いくら猫でも、そんなこと……」
言いかけてから、何かを思っいたようで、ハッとした顔で言った。
「房さんっ!! 富乃さんは、今、部屋ですか?」