14 互いの反省
グイッと引っばられた桜子の身体が右に大きくよろめく。あっ、と思うまもなく、目の前の加代がドタンと尻もちをついた。
背の高い男が加代にぶつかったのだ。
「お嬢さま! お怪我はございませんか?」
桜子の腕を引いたのはイツだった。
加代と話したいからと先に行った桜子を追いかけてきたイツは、桜子たちの話を邪魔しないようにと離れて見守っていた。
そこに、不審な男が近づくのが見えて、慌てて駆け寄り、自分のほうに引き寄せた。
そのせいで、代わりに加代が男にぶつかってしまったようだ。失礼なことに、男は謝りもせずに走り去っていた。
「私は平気よ。加代さん、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ」
腰をあげようとした加代は「ちょっと、驚きましたけど」と胸元に手を当た途端、ハッと動きを止めた。慌てて袂に手を入れ探る。
「ないわ! 財布がない」
加代が蒼白な顔で叫ぶ。
さっきの男だ! 桜子はすぐに男の去った方へと駆け出した。
加代の暮らしぶりは、余裕のあるものではない。女学校には篤志家の援助を受けて通っているし、病気の友人のために寝る間を惜しんで手仕事に励んでいる。
彼女の財布の中にあるのは、ただの金ではない。彼女自身と友人のために身を削って稼いだ努力の結晶だ。それを盗むなんて許せない。
「待ってください、お嬢さま!」
胡条のお仕着せである縦縞模様の着物のイツでは、海老茶袴の桜子には追いつけない。桜子は、後ろへと離れていくイツの声にも足を止めず、男を探した。
男の後ろ姿は覚えている。
膝丈程の灰色の着物。後ろ頭で一つに結んだ髪の毛は、背で犬の尾のように揺れていた。
男は、すぐに見つかった。桜子の視線の先で、角を曲がる。やや遅れて桜子も曲がった。
板壁に挟まれた、少し狭い通路。桜子は足を止めた。
「……あら?」
男は何処にもいなかった。
確かに、ここを曲がったはずなのに。一体、何処に消えたのか。
警戒しながら、辺りを見回す。通りには、桜子の他に誰もいない。
ふいに冷静さを取り戻した。勢いで走って来たけど、これ以上の深追いは止めるべきかしら。イツとも離れてしまったし。
加代のことを思うと、申し訳ないけれど……
そう悩んだのがいけなかった。諦めて引き返そうと踵を返した瞬間、ふいに誰かに手首を掴まれた。
「きゃあっ!」
抵抗する間もなく隘路に引き込まれ、壁際にドンと押しやられる。
「俺に何か御用でも?」
髪を後ろで一つ結びにした灰色の着物の男が、桜子の手首を掴んだまま、ニヤニヤと笑っている。
その瞬間、自分が大きな失敗をしたことに気がついた。引き返す判断が一歩遅かった。
「離してください!」
男を睨みつけて、腕を引く。だが、びくともしない。必死に抵抗するのを、かえって面白がるように、男が掴んだ手に力が込める。手首にズキンと痛みが走った。
新伍と初めて出会った晩、同じように手を掴まれたことがある。やはり掴まれた手は桜子には解けなくて、腕力の差をまざまざと見せつけられた。
でも、新伍はこんなふうに痛くはしなかった。傷つけるためではなく、諭すための拘束だったから。
加代のためにと突っ走った結果、また、やってしまったのだ。自分の甘さを後悔しても、もう遅い。
「アンタ、さっきのお嬢さまか。ちょうどいい。俺はホントは、アンタの財布が欲しかったんだ」
男が「ツイてる」と嬉しそうに言った。
「私は……お金は持っていません」
嘘ではない。荷物は全てイツに預けてある。
男も先程のことを思い出したのか、チッと舌打ちした。「女中か…」と忌々しそうに呟く。これで解放されるかとホッとしたのも束の間、男は「いや、待てよ」と、再び桜子に不躾な視線を投げてきた。
「アンタ、本当に持ってないのか?」
「……どういう意味ですか?」
「せっかくだから、確かめてみようじゃないか。その可愛らしい着物の袂に手を突っ込んで」
ゾッと背筋が粟立つ。桜子は慌てて自分の胸元を隠した。金銭以外の価値を値踏みされているような気持ち悪さ。
男は猫でも嬲るように、歪んだ笑みを浮かべた。
「自分で財布を出すのと、俺が取るのと、どっちがいい?」
青ざめた桜子に、男が掴んだ腕をグイッと引いた。男の腕力の前では桜子の僅かな抵抗なんて、何の意味もない。身体が男に向かって引き寄せられる。
「どちらにしろ、アンタが叫べば女中は駆けつけてくるんだろう?」
言いながら、桜子目掛けて空いてる方の手が伸びてきた。
「叫べ!!」
「いやッ! 新伍さん!!」
その瞬間、桜子の身体がグイッと後ろに仰け反った。男から引き剥がされる。勢いのままに、背後の壁にどんとぶつかった。背がズキズキと痛む。
「はい。そこまでー」
桜子と男の間に、背の高い誰かが立っている。痛みを堪えて見上げれば、諧文堂の記者、宮前悟だ。
「知り合いの子なんだ。悪いけど、これで勘弁してくれない?」
宮前は柄の悪そうな男相手にも、全く怯む様子はない。気楽な調子で謝って、ヨレヨレのズボンのポケットから財布を取り出すと、幾枚かの金を抜いて差し出した。
男が奪うようにそれを取った。札を数え、「フン」と鼻を鳴らす。
「悪くない」
思った以上の金が手に入ったからだろうか。桜子への興味が、急速に失せていくのが分かった。
「まぁ、いいだろう」
機嫌を直した男が、その場を去ろうと背を向ける。だが、まだ大事な用が済んでいない。
「あっ、財布…んぐ……!」
大きな手に口を塞がれた。一つ結びの男の背中が、あっという間に遠ざかる。
完全に姿が見えなくなると、宮前は桜子の口から手を離した。
「とんっだ箱入り娘だな」
呆れと苛立ち混じりの苦言が飛んできた。先日の軽薄に擦り寄るような態度は微塵もない。
「宮前さん! 加代さんの財布を擦られたんです。彼女は苦学生で、生活も……」
「知ってる。だが、諦めろ」
桜子の訴えをピシャリと遮る。
「元々は、お嬢さまが狙われていたんだ。向こうにとっちゃ、逃した鴨が尻を振ってホイホイやってきたようなもんだろ。危機感がなさすぎる」
「それは、反省しています。でも……」
「でも…じゃねぇ。お嬢さまに何かあったら、責められるのはアンタじゃない。一緒にいた人間なんだろう?」
返された正論に、熱くなった頭が冷えた。宮前の言うとおりだ。イツや加代を困らせたくはない。
「……申し訳ありません。助けていただき、ありがとうございます」
「不服そうな顔だが、まだ何か反論でもあるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
正論には違いない。なのに桜子は、なぜだか釈然としない。何かが引っかかる。
ちょうど、そこにイツと加代が駆けつけてきた。
「お嬢さま! お探ししました」
「桜子さん、今の悲鳴は?!」
イツは、桜子の手首を見るなり青ざめた。そこには、強く掴まれた跡がくっきりと残っている。
「ごめんなさい、加代さん。財布は取り戻せませんでした」
「桜子さんのせいでは、ありません。私がボンヤリしていたから…」
「それは、違います」
あの男は、もともと桜子を狙っていた。イツが咄嗟に守ってくれたから、代わりに加代が被害に遭ったのだ。
桜子は二人に、男を追いかけてから宮前に助けてもらうまでの話をした。
「イツ。宮前さんにお金を返さないといけないわ。お父様には…叱られるでしょうけど」
「かしこまりました。ご用意いたします」
「それから、加代さんの分のお金もお返しできないかしら? 私のせいでもありますし」
しかし、それは即座に却下された。
「必要ないかと存じます」
イツが懐から、がま口を取り出した。桜子のものではない。イツのものでも。
「私のものです!」
加代がイツから受け取って、中を確認する。
「中身もちゃんと入っています。これを、どこで?」
「桜子さまを追いかけていたら、通りすがり男性に話しかけられたのです。近くに落ちていたが心当たりはないか、と」
イツがキョロキョロと何かを探しているように見えたて、声をかけられたらしい。
「中身も丸っと返してくれるとは、親切な御仁に拾われたものだな」
宮前によると、財布は手許に返ってきても、中の金銭は抜かれているのが普通だそうだ。運が良かったと言い合うイツや加代をみているうちに、先程、釈然としなかった理由が分かった。
「宮前さん。ずっと私たちのことを見ていましたよね?」
宮前は、初めから加代が財布を掏られたのを知っていた。桜子が狙われていたことも、誰と一緒にいたのかも。だから桜子に何かあった時、加代やイツが責めを負うと言ったのだ。
宮前は「バレたか」とわざと戯けるように肩を竦めた。
「どこからですか?」
加代はかなり重要な秘密ーー41号の正体について打ち明けていた。宮前に聞かれていては困る。
「戸田加代が何らかの事情を抱えていることは分かっていた。本当は胡条のお嬢さまに黙って俺に会いに来ていたことも。今日、ようやく、その理由が分かってスッキリした」
つまり、宮前は加代の話を丸っと頭から聞いていたということだ。加代が嘘をついていたことも承知で彼女に付き合い、その理由を暴く機会をうかがっていた。
「お願いです。加代さんのこと、記事にしないでください」
顔面蒼白な加代に代わって、桜子が頼んだ。
「さて、どうしようかな」
宮前は、加代の深刻な事情など無関係とばかりに、軽い調子で首を捻って思案する。
「聞いていたなら、おわかりになるでしょう? サチさんや与一さんは、加代さんにとって大切な方です」
「お嬢さまは、記者に真実を書くな、と?」
「宮前さんは今までだって、真実かどうかなんて、お構いなしに書いてきたのでしょう?」
宮前は「うーん」と一つ唸ってから、ズイッと桜子の方に顔を寄せる。その目は獰猛で、少しも引く気はないようだ。
どうすれば良いのか。新伍なら、どうやって切り抜けるだろう? 必死で考えを巡らせていると、宮前が例の軽口で言った。
「そんなあからさまに警戒しないでください。俺だってお嬢さま方の願いに聞く耳を持っないわけじゃない。場合によっては、俺を利用することだってできますよ」
「利用?」
真意の分からぬ言葉に警戒を強めた桜子の目の前で、ひらひらとおちょくるように手を振った。
「41号を捕まえたいんだろう? 俺が協力しよう。少なくともお嬢さん方二人よりは、いろんなところに顔が利く。その代わり……」
宮前の視線は、完全に加代ではなく桜子一人に注がれていた。
「韮崎洋品店の事件。あれについて知りたい。ついでに俺が満足したら、さっき掏摸野郎に渡した金も返さなくていい」
韮崎家のことなど知らない、という逃げ口上は使わせてもらえなさそうだ。その嘘を今日の宮前は見逃してはくれないだろう。
「どうする、お嬢さま? 大切な友人を追い込むことになるのか、手助けできるか。先程の金が貸しになるのか、取材料になるのか。全ては君次第だ」
「……どうして、あの事件に拘るんですか?」
宮前は軽く微笑んだ。無言のまま首を傾げる。答える気はないようだ。ただ、宮前の提案に乗るか、反るかを桜子が決めるしかない。
「分かりました」
長考の末、了承した桜子に加代とイツが「桜子さん?」、「お嬢さま!!」と、咎めるように声をあた。
加代は、韮崎洋品店の事件と桜子の関わりはしらない。だが、自分のために何らかの条件を呑んだことはわかったのだろう。
「駄目です、桜子さん!これは私の問題です」
「そうです。まずは五島さんや時津さんに……」
桜子は片手を軽くあげて、イツと加代を制した。
「宮前さん。韮崎洋品店の事件のことは、私は本当によく知らないのです。事件の直前に、たまたま八重子さんのところにお邪魔していただけで。ですが、私よりもずっと詳しい方がいますので、宮前さんにその方をご紹介します」
「その方、とは? まさか刑事じゃないでしょうね? 困りますよ、そんなのを紹介されても。あいつらは簡単には口を割りませんから」
「違います。刑事ではありません。探偵です」
探偵、という言葉が宮前の興味を惹いたようだ。軽く見開かれた目は、明らかに面白がっている。
「いいでしょう。それで手を打ちます」
「そのかわり、41号と呼ばれる方は、加代さんにとって大切な方です。面白おかしく記事にしないと約束してください」
「分かりました。約束しましょう」
◇ ◇ ◇
東堂呉服店の前で樹と別れた新伍は、自らが居候している三善邸へと足早に向かった。
暗くなる前に遊郭街を出られて良かった。日が傾くにつれ綺羅びやかになる街は、新伍にとって居心地の良いものではない。
今日で何日、通っただろう。思うような成果が得られないせいで、余計に疲労が増して感じる。
家に着くと、時津が玄関の前で待ち構えていた。あ、桜子が来ているな、と表情だけですぐに分かった。
案の定、忠実な胡条家元家令が告げる。
「応接室で、桜子さまがお待ちです」
「こんな時間に、ですか?」
「五島さんに何か話があるようです。イツも一緒に来ています」
時津に連れられ部屋に入ると、桜子が椅子に腰掛けて待っていた。イツは隣に立っている。
桜子の明らかに表情が固い。何か心配事があるようだ。
ひょっとして遊郭通いが耳に入ったのでは、と嫌な疑念が頭をかすめたが、一先ず、いつもと同じように「何かありましたか?」と桜子の顔を覗き込んだ。
「……新伍さんに謝らなければならないことと、お伝えしたいこと、お願いしたいことがごさいます」
「それは随分と盛りだくさんですね。何があったんですか?」
「今日、諧文堂の宮前さんに会いました」
宮前記者には一人で会わないようにと注意していた。関わってしまったことを気に病んで、謝らなければと思ったらしい。
桜子が、学校帰りに偶然、加代を見かけてから、宮前と交換条件を交わすに至るまで、イツの助けを借りながら順を追って話した。
「お嬢さまは、女学校の友人を助けようと思ったんです」
イツが庇うまでもなく、分かっている。桜子らしいというしかない。途中、危なかっかしくて聞いていてもヒヤリとしたが、ともかく無事で良かった。
新伍に伝えたいこと、というのは『怪盗41号』の正体だった。驚くことに、世間を騒がす件の怪盗は、桜子の学友の友人の兄だという。
ただ、韮崎洋品店にだされた予告状は、勝川警部補とも、模倣犯に間違いないという意見で一致している。田村与一が関わっている可能性は限りなく低い。
それでも新伍にとって、興味を惹く話ではあったが。
「では、僕にお願いしたい事というのは、宮前記者への対応ですね?」
「勝手に約束して、申し訳ありません」
宮前は、韮崎洋品店の事件について知りたがっている。友人の加代を助けるためには、その要求に応えなくてはならない。
「いえ。むしろ、いい判断でした」
桜子の対応は、最良だ。実際、事件について、桜子はほとんど知らない。宮前が何を、何のために知りたいのか。新伍が直接相対して、伝える内容を吟味したほうが手っ取り早い。
新伍が二つ返事に引き受けたことに、桜子の表情がホッと緩んだ。助力を期待して、勝手に取引条件にしたことが心苦しかったのだろう。
「お嬢さま、私も同席いたしましょうか?」
それまで黙って話を聞いていた時津が、堪えきれなくなったようで、ついに口を挟んだ。
「お嬢さまやご学友に仇をなすようなことをしないよう、私がしっかりと釘を刺しますので」
桜子が脅迫まがいに取引をさせられたのが気に入らないらしい。
時津が釘を刺すといえば、釘を刺すのだ。それも五寸釘をガンと打ちつける勢いで。桜子のためなら毛の先ほども躊躇わない。頼りになるというべき、やりすぎて困るというべきか。
それはともかく、宮前記者については、意外と災い転じて福となすかもしれない。駆け引き次第では思った以上に大きな魚を釣れる可能性もある。
あれこれ思案している新伍に「あの、もう一つ聞きたいことがあるのですが……」と、桜子が遠慮がちに切り出した。
妙に言いにくそうに、そわそわとして口籠る。
「他にも、何か心配なことが?」
「……あの、新伍さん。最近、頻繁に遊郭に行かれているというのは、本当ですか?」
意を決したように、尋ねた桜子。その瞬間、背筋がぶるりと震えた。
「……遊郭?」
背後の時津の殺気のせいだ。
「失礼ですが、お嬢さま。その話は、どちらから?」
桜子が隣のイツを見る。引き取って、イツが答えた。
「東堂呉服店のお使いの方が……本当は私に話をしたのですが、たまたま帰宅した桜子さまが聞いてしまったのです」
イツによると、東堂呉服店の使いでやってきた女が親切にも、近頃の樹の遊郭通いを憂いて告げ口したらしい。新伍も一緒になって遊び歩いているのだから、胡条の旦那様の耳にでも入ったらどうするのかと、大きな声で愚痴を言った。
それが、ちょうど帰宅した桜子の耳に入った。実に余計なお世話だ。
「五島さん、これは一体どういうことでしょう? 私も聞いておりませんが?」
時津の冷たい声が新伍を詰る。胡条の元家令は、桜子を悲しませるようなことは絶対に許さない。
彼女を巻き込まないように黙っていたつもりが、完全に裏目に出た。
「まず明言しておきますが、僕は決して遊ぶために行ったわけではありません」
「行ったことは否定しないんですね?」
「時津」と、桜子が嗜めた。
「新伍さんは、何か調べることがあって遊郭に出入りしているのですよね? 新伍さんは勿論ですが、樹兄さんだって、そういう人でないことは、よく知っています」
着物が商売道具の樹は、仕事柄、遊郭と縁がある。必要であれば、座敷に入ることもあるだろう。それでも自ら進んで遊び歩くわけがない、と桜子はきっぱり言い張る。
「樹兄さんですもの。イツを悲しませることなどあり得ません」
「おっしゃる通りです。樹さんには置屋を紹介してもらうために、僕からお願いしました」
樹の名誉のためにも、明言しておかなくては。手を煩わせた上に、あらぬ誤解で迷惑をかけるわけにはいかない。
「新伍さんは、韮崎洋品店の事件を調べているのですか?」
正直に全て伝えるべきか、やや悩んでから、結局は「堤さんからの依頼を調べています」と答えた。
「堤……車夫の大二のことですか?」
「韮崎洋品店の事件があった日、僕が途中で人力車を降りたのを覚えていますか? 実は、堤さんからの依頼で人探しをしていたのです」
大二とオクノの関係性には深く触れず、彼の知り合いが生き別れた娘を探していることを掻い摘んで話した。
桜子はピンときていないようだが、時津はすぐに、『オクノ』が大二と一緒に暮らしている女性だと気付いたらしい。
「そういうことでしたか。では、遊郭にもオクノさんのことを調べに?」
「そうです。彼女がいた置屋に話を聞こうと思ったのですが、僕は当然、そういうところへの伝手はありません。それで樹さんに無理言って、仲介を頼んだのです」
自分に伝手がないことと、樹に無理に頼んだことをしっかり強調しておく。
「オクノさんのお子様のことは何か分かったのですか? 大二の依頼は解決しそうなのでしょうか?」
さっきまでの不安は消えたのか、桜子はすっかり大二やオクノのことを案じている。
彼女の期待に満ちた視線に、新伍は思わず渋い顔をした。正直、あまり首尾は良くない。いくら顔の利く樹とはいえ、何年も前に止めた女郎の過去の聞き込みは難しい。遊女のことも客のことも、皆、簡単には教えてくれない。
「五島さん、もっと早く言ってください」
背後の大きなため息がした。時津が呆れたような顔で新伍を眺め下ろしている。
「私に一言相談してくだされば、一両日中に東京中の置屋を調べることだって致しましたよ」
「しかし胡条の力をお借りするのは……」
「胡条が嫌なら、私の個人的な諜報網を使います。いずれにしたって、お嬢さまを不安にさせるくらいなら、貴方はそうするべきでした」
時津は新伍の反論を一刀両断に切って捨てた。だが改めて指摘されれば、効率面を考えても、そのとおりかもしれない。新伍の判断のほうが悪かった。
「女性の名はオクノ、ですね? 確か遊女の時の源氏名は……あぁ、いいです。あとはこちらで調べます」
口ぶりからすると、オクノのことを知っているのだろう。それなら話が早い。
「それでは時津さん。併せて調べていただきたいことがあるので、後で詳しくお話いたします」
時津がしっかりと請け負った。「任せてください」と言い切った以上、新伍の知りたいことを暴いてくれるたろう。
上手くいかなかった聞き込みから、ようやく解放されそうなことに、新伍は内心、安堵していた。




