13 顔色の悪い加代
新伍が訪ねて来た日以降も、桜子の周りは、何も変わらぬ静かな日々が続いていた。いつもと同じように、大二かイツが女学校に送ってくれて、どちらかが迎えに来てくれる。
韮崎家の事件について、あれからどうなっているのか、桜子は知らない。父から断片的に聞きかじった範囲では、あまり進展していないみたいだ。まだ当分、新伍が遊びに来てくれるのは難しいのだろう。
幸いにして新伍は、暫定『容疑者』の枠にいながらも、自由に動き回っているようだ。新伍なら、きっとすぐに解決できるばずだと信じて待つしかない。
新伍に止められた諧文堂には、その後も行っていない。宮前悟の名刺は新伍に渡したから、連絡をとることもないだろう。
怪盗41号について熱心に調べていた加代は、「次にどうするか考えます」と言ったきり、何も言ってはこなかった。
申し訳ないと思いながらも、あの記者にはもう関わりたくないということを、桜子は彼女に伝えた。あっさりと「分かりました」と了承してくれけれど、大丈夫だろうか。
加代は毎日、忙しそうで、休み時間はいつも教室にいないし、授業が終わるとすぐに出ていってしまう。
友人のためにと、あれほど熱心に調べていたというのだ。桜子も気がかりではあった。きちんと加代と話をすることが出来ないまま、時だけが過ぎていった。
ある日の女学校の帰り道のことだった。その日は大二がおらず、イツが迎えにきた。桜子は新しい帳面が欲しくて、イツに頼んで、学校帰りに文具店に付き合ってもらった。
「桜子さまが甘味処以外に寄り道だなんて、珍しいですね」
「あら、用事が済んだら甘味屋さんにも寄るつもりよ」
桜子が「勿論、付き合ってくれるわよね?」といたずらっぽく共犯に誘うと、イツがクスリと笑った。
「仕方がない。お付き合いいたします」
口ではそう言いながらも、甘やかすような響きがある。新伍のことで、桜子が気をもんでいるのを分かっているからだ。
「イツは、樹兄さんとは会っているの?」
桜子の暗い気持ちにばかり付き合わせるのも悪い。少しは幸せな話も聞きたいと、イツに話題を振った。
東堂呉服店の次男、樹は、桜子の幼馴染だ。一時は、婚約者候補でもあった。
紆余曲折を経た末に、今では、長年想い合っていたイツと将来を約束した仲となった。樹が東堂呉服店から独立し、経営が軌道に乗ったらイツを娶るということで、桜子の父から許可を得ている。
いつか来る別れは淋しいけれど、イツが幸せなら嬉しい。
「そう……ですね。たまに東堂呉服店にお使いに行かせていただいた折などには」
「お使い? そんなの仕事だわ。もっと二人だけで会ったりしないと」
「あ、いえ……別に仕事ばかりというわけでは…」
イツの頬が赤く染まる。いつもは年齢の割に落ち着いてみえる彼女が、年相応に可愛らしく、心がホカホカと温かくなる。
「たまにお休みをいただいた時には、夕暮れの河原を散歩したり、神社の境内を歩いたり、ですとか」
「う……あまりお休みを差し上げられなくて、ごめんなさい。時津がいなくなって、余計に大変よね」
「いえ! そういうつもりでは」
それにしても、甘味屋ばかり食べ歩いている桜子と新伍に比べて、なんと落ち着いた大人の逢瀬なのか。夕暮れの河原を肩を並べて歩く親しげな二人を想像して、少しドキドキした。
「それに、樹さまも最近はお忙しいようです。あの事件の前にお会いしたのが最後でしょうか」
「あら。それは淋しいわね」
それなら、桜子と新伍よりも、もっと会えていないではないか。
イツは答える代わりに、ふふと微笑みを返した。樹が忙しいのは当たり前のことで、それくらいでは揺るがないと言っているみたいに。
なんだか、会えないと寂しがっている自分は、子どもみたいだ。すると、桜子の心の内を読むのに長けたイツが、すかさず励ました。
「桜子さまは、私とは事情が違いますもの。五島さんがあのような状況では、気を揉むのも当然です」
相変わらず見透かされている。
図星なのが気恥ずかしくて、思わず視線を逸らした。するとイツの向こう、通りを挟んだ先にいる見慣れた海老茶袴の少女が目に留まった。
「……加代さん?」
声をかけようとしたが、一緒にいる男に気がついて思い留まった。
「女学校のご友人ですか? あの一緒にいる男性は……?」
「宮前さんです。諧文堂の」
「あぁ、あの方が?」
新伍や時津から、関わらないようにと釘を刺されている。
加代が何故、こんなところで宮前と二人で会っているのか。いや、それより加代の顔色がどことなく悪いのも気にかかる。追い詰められているようにさえ見えた。
もしかして、宮前から何か酷いことでも言われているのかも…ーー
「桜子さま!」
今にも駆け寄りそうに見えたのだろう。イツが「行っては駄目だ」と桜子の腕を押さえた。
「分かっています。でも、このまま放っておくわけにはいきません」
じれるような想いで動向を見守っていると、やがて加代が頭を下げ、二人は別れた。
「ちょっと加代さんと話してくるわ」
宮前の背中が遠のくのを見届けた桜子は、すぐに加代を追いかけた。
加代は随分と早足で歩いているようで、小走りをしているにも関わらず、なかなか追いつかない。
「加代さん!」
名を呼ぶと、加代が振り返った。気づいて足を止めてくれるのだろうと期待したが、桜子と目が合った途端、加代の表情が、みるみる驚きへと変わる。それどころか、恐れさえ浮かぶ。
足を止めるどころか、加代は無視するように前を見て、加速した。まるで逃げていくみたいに。
「待って!」
桜子も足を速めた。小柄な加代は、運動があまり得意ではない。
隘路に逃げ行こんだ加代に、なんとか追いついた桜子は、逃さぬように腕を掴んだ。
「加代さん、どうして逃げていくの? それにさっきいたのは、諧文堂の宮前さんよね?」
ハァハァと荒い息を抑えて尋ねる。
加代は桜子よりも苦しそうで、ゼエゼエと肩が激しく上下している。たっぷり休憩を挟んでから、袖で汗を拭い、ゆっくりと顔を上げた加代は、絞り出すように「ごめんなさい」と呟いた。
桜子は面食らった。
いきなり謝られたことに、ではない。顔をあげた加代があまりに窶れていたことに驚いたのだ。
遠くで見たときは、ここまでとは気が付かなかった。この顔色の悪さは、昨日、今日のものではないだろう。目の下の濃い隈に、きちんと眠っているのか、今にも倒れてしまわないかとハラハラする。
近頃は加代とすれ違いが続いていたから、正面から顔をみるのは久しぶりだった。いつの間に、こんなに窶れていたのか。
「加代さん、もしかして宮前さんに何か弱みでも握られているんじゃありませんよね?」
これは普通じゃない。もし宮前に脅され、付きまとわれているのだのしたら、放っておくわけにはいかない。
加代は、ぶんぶんと首を横に振った。
「違います! そんなことは、ありません」
「じゃあ、どうして宮前さんと一緒に?」
「宮前さんには、私から会いに行ったんです。聞きたいことがあって……」
「聞きたいこと? それに、さっきの『ごめんなさい』というのは…?」
加代はどう話していいか考えているのか、やや口籠った。辛抱強く待っていると、ゆっくりと重い口を開いた。
「実は、宮前さんに会いに行ったのは、今日が初めてではありません。以前も宮前さんにお願いをして、怪盗41号に関連するような場所……実際に盗みに入られた家などにも話を聞きに行きました」
「何故そこまでして、あの泥棒のことを?」
勿論、入院している友人のためだと分かっている。けれど、そうだとしても随分と危ない橋ではないか。桜子が断ったから、一人で宮前に会いに行ったのだろう。
せめて、相談してくれていたら。いえ、もっとちゃんと加代のことを気にかけていたら……ーー
「事情を教えてくれないかしら? 加代さんがそこまで必死になって41号を探している理由を」
桜子は俯く彼女をじっと見つめた。
案じる想いが通じたのか、加代がふっと肩の力を抜いた。
「……知っている人かもしれないの」
「え?」
「41号は、私の知っている人かもしれないの」
呟くように告げた一度目の言葉と違い、二度目は強く、きっぱりとしていた。
桜子は思わず息を飲んだ。41号といえば、評価は好悪あれど、目下、世間を騒がせている泥棒だ。もしかして、とんでもない告白なのではないか。
次々に問い詰めたくなる気持ちを抑え、努めて冷静に聞いた。
「知り合いというのは一体、どういう方なのかしら? 加代さんは、どうして、そう思ったの?」
「……4銭、1厘です」
盗んだあとに残していったという痕跡。盗んだものの代わりに4銭と1厘の硬貨が置いてあったのは、世間には知られていない。警察で使われている『41号』という隠語の由来となった。
「宮前さんからその話を聞いた時、昔、幼馴染のお兄さんが同じようなことをやっていたのを思い出したんです。当時はお金ではなくて、木のみでしたが……」
その人は、幼い加代の前に大きい木の実を4つ、小さい木の実を一つ置いた。そして、教えてくれた。
「四つと一つ。俺の名前は、よんといちで『よいち』だ、と」
「よいち?」
加代が空中に「与」える、と漢数字の「一」を書いた。
「与一。これが、その人の名です」
自分の名を表すために数字を使う。そこが、与一と似ているだという。
「でも、それだけでは加代さんが知っている与一さんがその人とは限らないんじゃないかしら? 木の実とお金は違うわ。4銭1厘が名を表したつもりとも限らないし」
「いいえ。名を表していると思います」
加代は確信に満ちた様子で、きっぱりと言った。
「与一兄さんは多分、最初に現れた泥棒で、自分の模倣犯が次々と出てきたことが気に入らないんです。兄さんのやっていることは犯罪で、褒められることでも崇められることでもない。でも、その犯罪を、他者の罪に乗っかって善行のように真似する者が気に食わないんです。兄さんは、そういう人です」
彼女の推察では、4銭1厘は、「自分を真似ている人間どもと一緒にするな」という意思表示だという。
「与一兄さん? その人は、加代さんのお兄さんなの?」
桜子の指摘に、加代がハッと気まずそうに口元に手を当てた。弁論に熱くなるあまり、無意識に口にしていたようだ。
「いいえ、私の兄ではなくて……与一兄さんの名前は田村与一。田村……サチのお兄さんなんです」
これで合点がいった。
サチといえば、加代の尋常小学校時代の友人だ。持病の結核が悪化して、入院している。貧困のなかで病にあえぐ彼女は、雑誌に取り上げられた『銀の狐』のことを英雄だと憧れ、会いたいと熱望していた。
加代が「絶対にあの泥棒を探さなければ」などと言い出したのも、サチの見舞いの直後だった。
「サチさんは41号が自分のお兄さんだと知っていたのね? だから最初から贔屓にしていた」
しかし、加代はすぐに「違います」と否定した。
「初めは、サチも雑誌を見て、単純に心惹かれたんです。他の貧しい人たちと同じように『義賊だ』、『いつか自分のことも救ってほしい』という叶うことのない夢、無邪気な希望でした」
サチの様子が明らかに変わったのは、桜子が加代を病院に送った、あの日だったという。
「病室でのサチは、あまり具合が良さそうではありませんでした。身体は痩せていて、なのに目が……目だけが妙に爛々としていて…」
サチは見舞いに来た加代の着物の両袖を、ぐっと掴んだ。痩せた彼女の力とは思いないほど、きつく。
「サチは、『絶対に会わないといけない』と言いました。『何としても捕まえて連れてきてほしい。お願いだから』と懇願されたんです。それが、とても切実で……」
人力車に並んで座っているときに、自らを追い詰めるようにぎゅっと腕を抱き込んでいた加代の姿を思い出す。案じてはいたが、まさか病室での面会がそのようなことになっていたとは。
「でも、その時は与一兄さんのことなんて、考えもしませんでした。私が気がついたのは、諧文堂で宮前さんから話を聞いたたときです。『4銭1厘』の話を聞いて、サチの切実さに合点がいったんです」
4銭1厘は公にされていない。どうしてサチが正体に気がついたのか、加代も分からないという。
「お見舞いに行くときに、私がお金を持っていたのを覚えていますか? サチの入院費用の足しに、と」
「えぇ、覚えているわ」
そのお金は、加代が学業の合間を縫って内職で貯めたお金だ。歩いて持ち運ぶのは怖かったから、桜子の人力車に乗せてもらえて助かると感謝していた。
「あの日、私が病院で支払いをしようとしたら、『お金は足りている』と言われたんです。詳しく聞きたら、彼女の兄がやってきて、全額払ったというじゃありませんか」
箱入り娘の桜子には、入院費用がどれくらいなのか、それを稼ぐのがどれくらい大変なのかを知らない。ただ、加代の様子からすると、与一がそれを稼ぐのは、簡単ではないのだろう。自分の世間知らずが歯痒い。けれど、憂いてばかりいる場合ではない。
「でも、お金を払っていったのなら、サチさんはお兄さんに会っているのでしょう? わざわざ加代さんが調べたり、捕まえたりする必要はないんじゃないかしら?」
「サチが入院してから、与一兄さんは一度も見舞いに来ていないそうです。サチはお金が支払われていることすら知りませんでした」
「与一さんは普段、どんなお仕事を?」
「兄さんが村を出た後のことは、私もあまり知らないのですが、鳶職人になったと聞きました。優秀な鳶職人という噂でしたが……それでもサチには、それまでのツケもあったはずですし、入院費用を全て賄うには、かなり無理をしたのではないかと」
話を聞いた加代は、与一の身体は大丈夫かと、むしろ不安になったらしい。しかし、宮前の話でそれまで抱いていた疑問が一つに繋がり、答となった。
だから、加代は必死だったのだ。多少の危険を冒してでも宮前に近付いた。自分の心も身体も顧みず、41号を追い求めている。
「ごめんなさい。私、何も知らなくて……」
知っていたら力になれたこともあっただろう。もっとしっかり加代の様子を気にかけていれば、顔色の悪さに気がついたはずだ。
「桜子さんが、宮前さんに関わることを周りの方から止められているというのは、当たり前のことです。宮前さんは、明らかに桜子さんに関心を持っていました。私の事情に桜子さんを付き合わせるわけには参りません」
だから、加代は一人で宮前相手に飛び込んだのだ。
「事情は分かったわ。でも、それなら私に謝るようなことでは……」
「違います!」
加代は大きく頭を振った。
「与一兄さんの話は、宮前さんにはしていないんです。だって、もし記事にされたりしたら……」
加代の言いたいことは、すぐに分かった。宮前の書いた記事の影響力の大きさは、加代自身が身を以て知っている。それに影響されて、義賊だの、英雄だのと乗せられていたのだから。
加代は、サチや与一のことを守りたいのだ。
「宮前さんは、単に私からのお願いだけでは付き合ってくれなかったでしょう。だから私は、あの人の桜子さんへの関心を利用しました」
今日は来られないが、桜子も都合がつけば来てくれるはず。そう約束していますと誤魔化しながら、桜子で宮前を釣った。桜子には、何一つ言わぬままに。
身勝手に利用したことが申し訳なく、心苦しかったから、加代は学校で桜子を避けていたらしい。
「そんな、危ない真似を……もし、私が来ることなどないと宮前さんが知ったら、どんなことになるか!」
「分かっています」
どんなことになっても受け止める。そういう覚悟をしている顔だった。
「他人の援助を受けてでも女学校に行くべきか、行ってもいいのかと迷っていた私の背中を押してくれたのは、サチでした。小さい頃からサチはいつだって、私の心の中を見抜いて後押ししてくれた。サチにとって、与一兄さんはたった一人の家族なんです」
そして与一もまた、長女である加代にとっては頼れる存在だったという。
働く両親の代わりに小さな弟妹たちの面倒を一人で見ている加代を、まるで兄のように助けてくれた。背中に負った一番下の弟の重みに歯を食いしばっていた加代の背から、ひょいと弟を抱き上げてくれた。「可愛い弟じゃないか」と言って、一緒に遊んでくれた。
「与一兄さんのやっていることは正しくありません。けれど兄さんは、正しくなくとも、罪であっても、サチを助けるためなら何でもするでしょう。でもサチは、そうやって生かされていることを心苦しく感じている。兄が自分のために捕まることに、心を痛めている。だから私は、二人を助けたいんです」
自分の身勝手に桜子を利用したことに「申し訳ありません」と、再度頭を下げた。
「加代さん……」
加代の覚悟が痛いほどに伝わってくる。責めることなんて出来ない。もういいから、頭を下げないで。そう言おうとした瞬間、桜子は誰かに右腕を強く引っ張られた。




