10 新伍と警部補2
翌日の早朝。半ば強引に韮崎家の客間を借りた新伍が仮眠を終えて事件現場に戻ると、難しい顔をした勝川がいた。
椅子に腰掛けて腕を組んでいる様は、眠っているようにも見える。
新伍が近づくと、ハッと素早く顔を上げた。
「……着替えたのか?」
清潔に洗い上げられた新伍の書生服の上を、勝川の視線が上下する。
「えぇ。三善の家から持ってきていただいたので」
昨夜、勝川から「容疑者の一人だ」と言い渡された新伍は、早速、八重子に電話を借りて、三善家にかけた。電話相手は元胡条の家令で、今は三善家に身を寄せている時津だ。
桜子が一緒に韮崎家に出入りしていたことは、時津も把握している。電話口で事件のことを話すと、時津は新伍の着替えを携え、すっ飛んで来た。
事件のあらましを新伍に確認すると、不便がないように定期的に自分が来るので、何日でも泊まり込んできて良いと、大真面目な顔で言われた。
その真意は、くれぐれも桜子に心身ともに負担をかけるな、さっさと解決してこいということだろう。
どうしたって、直に桜子のところにも警察官が話を聞きに行く。それでも、彼女のところに何度も警察が足を運ぶような事態は起こさせたくないのだ。
時津は胡条の家に寄って、状況を伝えてくれただろう。彼なら、うまいこと胡条の旦那様や桜子に準備をさせるはず。
以前の園枝家での事件のことを考えれば、今回、桜子がこの場に居合わせなくて良かったと心底思う。
「勝川警部補は、ずっとこちらにいたのですか?」
「仮眠はとったがな。客間ほどではないが、多少は休めた」
新伍への当て擦りのように言うものだから、つい反論した。
「別に、僕は警察官の皆さんと一緒に一晩過ごしても良かったんですよ。駄目だと言ったのは、勝川警部補です」
勝川が渋い茶でも煽ったみたいに顔を顰めた。
「当たり前だ。だいたい容疑者だと言ったら、嬉々として着替を寄越させるとは、どういう了見だ?」
「警部補が勝手に帰るなとおっしゃったので、致し方なく」
「……そういうつもりで言ったんじゃない」
新伍の図々しさに、勝川が珍しく分かりやすく呆れている。だが、新伍はそんなことは、いちいち気にしない。気にしていたらキリがない。
「でも実際、僕は容疑者でもありますが、事件に居合わせた重要参考人でもあるんですよ。少しはお役に立てることもあるでしょう。捜査の進捗はいかがですか? 昨日の午後の、韮崎洋品店の関係者の面々の行動は調べ終わったんですか?」
「お前に話すわけがなかろう」
「今更でしょう。どうせ事件に足を突っ込んじゃってるんですから。せめて、全員の行動に裏が取れたかだけでも教えてくださいよ」
前回のこともあって、見知らぬ仲ではない。勝川の態度から、本気で新伍を疑っているわけではないことくらい分かっている。
本気で疑っていたら、この程度の嫌味で済むはずがない。
勝川は陰湿なところはあるが、基本的には職務に忠実だ。裕福な商人が嫌いだが、事件を起こすような不埒な人間は、それ以上に大嫌いだ。自分の目や足を信じ、しつこく丹念に食らいついていく男だ。
「そうですね。教えていただく代わりに、僕が気になったことを少々お伝えする、というのはでいかがでしょうか?」
勝川が「フン」と鼻息荒く、見下すように言った。
「警察でもないお前の、気になったこととやらに何の価値があると?」
「別にいいですよ。警部補が価値がないと切り捨てられるのであれば、僕は何も言いません」
新伍はわざとらしく肩を竦めた。
「警察でもない一介の書生の気づきなど、優秀な警察官の皆さんにかかれば大したことはないのでしょうね。なんせ、これだけの人数がいるわけですから」
今尚、広くもない店内を行き来している警察官たちにチラリと視線をくべて、煽るように言えば、勝川は彼らを忌々しそうに眺め渡した。
新伍が気づいたこととやらに、彼らが気づいているのか。果たして、ここで新伍と取引することが得になるのか、頭の中で算盤を弾いているに違いない。
「……先に話せ」
見えざる誰かに喉元でも絞められているかのような唸り声で言った。
「こちらの話を聞きたいのならば、お前が先に情報を差し出すのが筋だ」
「それ、僕が話したら勝川警部補がちゃんと約束を守ってくれるっていう保証はあるんですか?」
交渉に応じてくれるのは良い。だけど、こちらが先出ししてから、後で渋られたのでは損じゃないか。
勝川の口の端が、嘲笑を浮かべるように薄く持ち上がる。新伍の問いに答える気がなさそうなところが、なかなかに老獪で、小狡い。
「分かりましたよ。それでは、全部で3つ……のうち、2つを先にお話ししましょう」
新伍は3本の指を立ててから、その内1本、薬指を折って、2本を示して見せた。
「2つはお話ししますが、最後の1つは警部補が僕の聞きたいことに答えてくれたら、話すことにします」
こちら主導の提案が気に食わないのか、勝川はやや不機嫌そうに鼻息を吐いたが、結局は、その案で話がまととまった。
勝川の「話せ」と命じる視線に、新伍は昨晩の出来事ーーー八重子と小間物店の店内に踏み込んだ時のことを思い出す。
異変を感じた新伍は八重子を残し、一人で店内に入った。
机に突っ伏す藤助の不自然な様子に気づくと、首筋に触れ、脈拍を確かめた。同時に、胸と青白い口元に顔を寄せた。藤助からは心音も呼吸音もしなかった。
警察を呼んでくれという新伍の言葉で、事態を理解した八重子は、すぐに女中のタツ江を呼んだ。
タツ江を警察に走らせると、八重子になくなっている物がないか確認してもらった。
棚などは、特に念入りに調べた。強引にこじ開けたケースがないか。鍵はどうなっているか。
扉の開きっぱなしになった棚を覗いていた八重子が、「宝石が見当たらない」と言った。新伍も一緒になって覗くと、確かに宝石をしまってあったであろう小箱は、蓋が開いたままになっていて、中には何も入っていない。
そういう箱が幾つかあった。
だが、いずれも棚も鍵が壊された形成はない。ごく自然に開いていた。
藤助の机の上に丸い金具で留めた鍵束があったから、それを使ったのだろう。元はどこにしまってあるのか。随分と不用心だ。
棚の横には花台があった。台には陶器製の花瓶が乗っていて、赤や黄色の花が活けてある。
そういえば玄関にも大きな花瓶があった。花が好きなのは八重子だろうか。
不安げに両手を握りしめている八重子の横で、新伍は何気なく花瓶を眺めた。
花瓶から花台の天板へと視線を移したところで、おや、と目を凝らした。焦げ茶色の板に水が一滴落ちて乾いたような後がある。水分は蒸発しているが、よく見ると、うっすらと丸い楕円形の跡が見えた。
と、ここまで話を聞いていた勝川が疑わしそうに問うた。
「水滴の乾いた跡? 女中の拭き忘れじゃないのか?」
「かもしれませんね」
新伍があっさり答えると、勝川の口がムッとへの字に曲がった。
花の水を変えた時に落ちたものだろうと、新伍も思った。三善の家の女中なら拭き忘れなどしないだろうが、タツ江ならありそうだと。
「でも不思議なことに、さっき僕が見た時には、跡はもうありませんでしたよ」
「……あとで部下に確認させる」
跡が落ちていたのは不思議でない。だが、それが消えたというのは、どう考えても不自然だ。誰かが拭いたのだろう。
誰が、何のためにーーー?
「1つ目は花台の水跡だな。次は何だ?」
勝川に約束の2つ目を促され、新伍は藤助が突っ伏した机の上に散らばっていた、銀色に染めた毛のことを話した。
「あの中に、よく見ると銀色の獣の毛とは違うものが混じっていたかと」
銀色の毛よりも細くて白い物だった。
しかし、それについては、すでに勝川の方でも気づいていたらしい。
「あれが何かは、すでに判明している」
「ほう。ちなみに何ですか?」
「何かの繊維……おそらく糸くずだな」
「やはりそうですか」
思ったとおりだ。
糸くずと聞けば、すぐに連想するのはレース編みをしていた八重子だが、さすがに短絡的すぎるだろう。糸くずなんて、ありふれたものだ。
「ちなみに藤助氏の口内にも同じ物が付着していた」
「口……の中ですか?」
勝川が自分の口を指差した。
「内側だ。それも、いくつか」
それは想定外の新事実だ。
外ならば袖口で口元を拭った拍子にでも付いたのだろうと推察されるが、内側となると……
「うーん……」
「どうした? お得意の探偵気取りは、早速お手上げか?」
嫌味な言い方だが、何故か嬉しそうだ。
「……いえ、僕の気づいたことを2つお話するとお約束しましたが、そのうち1つは勝川警部補にとっては、新しい知見ではなかったようなので」
花台の水滴跡と銀の毛に混ざる謎の繊維。
後者についは、むしろ勝川に教えられた形だ。
「約束どおり捜査の進捗状況をお伺いしても良いものかと、悩んでいました」
「ふん。たまには殊勝なことも言うじゃないか」
勝川は新伍の態度に満足したらしい。
「一応は約束だからな。話はしてやろう」
この程度の約束を反故にすることなど、本来、勝川にとっては気にも留めないことだろう。以前なら、おそらくそうした。
いろいろあった甲斐があり、多少は信頼されているらしい。
「韮崎家および洋品店の関係者について、裏取りが全て済んでいわけではない。だが基本的に、ほとんどの人間の動向は確認できている」
「動向というのは、どの時間帯のですか?」
「お前は、どの時間帯だと思って尋ねている?」
なかなか一筋縄では教えくれない。
「胡条邸から帰って来たタツ江さんが、1階の店舗に明かりがついているのを見た、と言っていましたね? それが、韮崎藤助さんがつけた明かりだとすると、桜子さんを見送りに出たタツ江さんが屋敷に戻ってから僕たちが発見する18時半頃までのおおよそ1時間……といったところですか?」
勝川は黙ってこちらを睨んだままだ。本当にそう思っているのか、と問い詰めるように。
新伍は仕方なく言い直した。
「明かりが藤助さんではなく、犯人のものだったとしたら、17時半か……そのもう少し前の時間帯でしょうか」
より慎重に判断するなら、藤助氏が韮崎邸に到着した16時以降だろうか。かなり時間の幅が広い。
「今日の午後、韮崎洋品店の従業員は、ほとんど銀座通りの新店舗にいたそうだ。今日は開店初日で忙しく、総動員らしい。それ以外の従業員は、こちらの小間物店の店舗の店番をしている翁だけだが、確認したところ、この店から真っ直ぐ帰った後は、自宅で家族と過ごしていた」
この辺りから銀座通りの新店舗までは、大人が早足で歩いて15分くらい。犯行のための時刻も合わせれば、往復で最低でも30分以上が必要だ。
開店で忙しい最中だが、そう多くもない従業員がそれだけの時間抜ければ、気がつくという。
「銀座の洋品店の従業員の中では、斎藤小平太という、主に経理を担当している者だけは15時半頃までこちらの韮崎邸にいたそうだ。ここを出ていく際に八重子氏と挨拶を交わししている」
「斎藤?…あぁ、あの人ですね」
「知っているのか?」
洋品店の展示会で会った、眼鏡をかけた恰幅の良い男を思い出す。洒落た洋品店の店員としては不似合いなヨレヨレの書生服を身に纏っていた。
「15時半というと、16時に帰宅した藤助氏が洋品店を出たのとちょうど同じ頃ですね」
時間的には、完全にすれ違いだ。勝川によると、斎藤がここを出てから店舗に到着するまでの時間に不自然な点はなく、また、道中、藤助とも出会っていないという。
「従業員以外の方はどうですか?」
「韮崎八重子は、本人によると、ずっと胡条のお嬢様と一緒だったそうだ。それから女中の報告を聞き、応接間に移った。勿論、お嬢様への裏取りは必要だが」
八重子は取り乱していた昨夜に比べ、だいぶ落ち着いていたようで、聞かれたことに静かに答えたようだ。
「女中のタツ江さんは?」
「タツ江と、もう一人の女中のマツは、掃除や片付け、夕飯の支度をしていたので、一緒にいたり、いなかったりしている。マツの方はほとんどお勝手にいたと言っているが、タツ江は出たり入ったりしていたようで、ずっと見ていたわけではない。タツ江は、17時過ぎからしばらくの間は胡条家に行っているだろう?」
新伍への確認も込めた報告だ。
「えぇ、三善にも。桜子さんの迎えを頼みに行っているので、両家に確認すれば時刻は割り出せるでしょう」
一方のマツは、夕食の支度が出来るまでの間、応接間に出入りしてはいたが、ずっと姿を見ていたわけではない。
店舗はこの家の1階だから、行こうと思えば、いつでも行ける。
「ちなみに、晶子さんにも話を聞いたんですか?」
「晶子?……あぁ、娘か」
勝川が嫌なことでも思い出したのか、表情を歪めた。
「何かありましたか?」
「一切何も話さなかった。ずっと下を向いて、ダンマリだ」
無愛想な顔で厭味ったらしく問い詰める勝川の姿が浮かんで、「警部補、それはいけません」と思わず口を挟んだ。
「晶子さんは、引っ込み思案で、特に男性は苦手なんですよ」
「らしいな。俯いてばかりで話にならん。結局、最後は横にいた母親が代わりに答えたよ。自室で家庭教師の授業を受けていたそうだ」
それが17時前に終わって、部屋を出た。そこで八重子や桜子と会い、応接間へと移動した。そこからは新伍も一緒だった。
そうすると、明確に行動が補足できないのは、女中二人か。
まだ他に聞いておくことはないかと思案していると、勝川が尋ねた。
「それで、最後の一つは何だ?」
「……はい?」
「約束だろう? 質問に答えたら気付いたことを教える、と」
問われたことに答えたのだからと促され、新伍は最後の一つを勝川に明かした。
「あぁ。倒れた藤助さんに駆け寄ったときのことですが、甘い匂いがしました」
「甘い匂い? どんなだ?」
「僕が思うに、蜂蜜ではないかと。駆け寄った時に、僅かですが口のあたりから香ったんです」
呼吸を確認しようと藤助の口元に顔を近づけたとき、嘔吐する時のような、すえた胃液の匂いに混じって、微かな蜂蜜の匂いが確かにしたのだ。
「直前に甘い物でも食っていたのか? さすが洋品店の若社長だな」
「藤助さんはかなりの甘党で、ただの水にさえ、砂糖や蜂蜜のような甘味を出すそうですよ」
「なんちゅう贅沢な……だが、蜂蜜水か。そんなもの、どこにもなかったが」
言いながら、勝川だって分かっているはずだ。
「蜂蜜水をここに来る前に飲んでいたか、ひょっとしたら、ここで飲んだあと、そのコップが片付けられたのかも」
状況から見て、韮崎藤助は毒殺だ。
外傷がないのと、口元に胃液のような匂いに混じって、泡を吹いたような跡があったことからも、警察はそう判断しているはず。
直前に口にしたものは、毒の混入経路である可能性が高い。仮にそれが水だとすると、蜂蜜に混ぜれば、多少の風味や色を誤魔化せるだろう。
警察は韮崎邸内および関係者の周辺で、蜂蜜とともに混入できそうな毒を探すはずだ。
「毒物の種類が分かったら、教えてくださいね」
勝川は「チッ」と聞こえよがしに舌打ちをした。
新伍から情報を引き出すつもりでした取引が、結局、同じくらいの情報を新伍に与えることになってしまったからだろう。
「ちなみに韮崎藤助氏はどんな方なんですか? 誰かに恨まれるようなことは?」
新伍が気にせず質問を重ねると、勝川が目つきの悪い視線をこちらに向けた。
「それの対価には何を教えてくれるんだ?」
新伍は誤魔化すような笑顔とともに大げさに肩を竦めて、さっさと話題を変えた。
「警察は藤助さん殺害の犯人について調べますよね? それなら、僕はこれを調べてもいいですか?」
新伍は、勝川の隣に無造作に置かれた例の予告状と犯行声明を指して尋ねた。
「どうせ警察では、偽物だと判断しているのでしょう?」
「金品が盗まれている以上、真贋は関係ないと、昨日、自分で言ったじゃないか」
「そうですが……じゃあ盗難事件について、警察は本腰を入れて調査する気があるんですか?」
新伍に詰められた勝川が、正直に答える。
「調べはする。が、あくまで藤助氏殺害の犯人をが優先とはなるだろう」
殺人犯を捕らえるための一つの道筋、あるいは付随的な事件として調べるが、盗難事件の犯人を捕まえることを優先はしない。
「なら、僕が泥棒について調べても問題ありませんよね? 僕はもともとそういう依頼で韮崎家に呼ばれたのですから」
予告状を辿れば、藤助氏殺害の事件とどこかで交差する可能性は高い。それを、新伍も勝川も分かっている。
勝川は「詭弁を弄するのがうまいな」と言うだけで、止めはしなかった。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて立ち去ろうとする新伍に、勝川がぶっきらぼうに告げた。
「お前はまだ容疑者だ。独断で動きすぎるな。何かあったら直ぐに報告しろ。それと……」
勝川は一瞬、言おうか迷っているような素振りみせたが、結局、口髭を一つしごいてから続けた。
「これはあくまで一般論だが、身に覚えもないのに容疑者だと断じられれば、当然、自分の容疑を晴らそうと奮迅することだって、あるのだろうな」
視線は全く新伍の方を見ていない。ただ感想を呟いただけ。
だが、その真意は十分に伝わった。新伍が勝手に動いても、目を瞑れる範囲でもあれば黙認する、という真意が。
分かりにくい援護だ。
相変わらずへの字に結ばれた口元と整った髭の無愛想な横顔に、新伍は思わず微笑んだ。




