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5 事件の日・桜子

ブクマありがとうございます!

 桜子は、昨日と同じ韮崎家の小間物店の前で、人力車を降りた。

 昨日よりも少し時間が遅いせいか、小間物店の方は、すでに閉まっている。


 今日は、店の前で八重子が待っていて、出迎えてくれた。


「申し訳ありません。五島さんは、別の用事があって後から来るそうです」

「社長とのお約束でしょう? 確か、夕方のはずよ。藤助さんも、まだ銀座通りのお店から戻っていませんし」


 八重子の案内で、昨日と同じように邸宅の玄関の方へと回り込む。


「ごめんなさいね。宅の玄関前は、人力車を着けていただくには狭くて」


 最初に建てた店舗兼自宅に、後で建て増ししたら、そうなってしまったのよと世間話のように教えてくれた。


 玄関先に着くと、ちょうど外に出て行く斎藤と会った。

 相変わらずの《《くたびれた》》書生服だ。


「斎藤さん。もう、お帰り?」

「これから銀座通りの店に行きます」


 銀座通りの新店は、今日の正午から正式に開店した。

 その売上の確認と集計をするのだと、斎藤がいつもの朴訥な口調で言った。


「辻本だけでは…心配ですから」

「そう。よろしく頼むわね」


 八重子の言葉に頷くように頭を下げたると、のそのそと身体を揺らして去っていく。


「あの…今日、お邪魔してよろしかったのですか? お忙しいのではないですか?」

「以前も言った通り、私は商売のほうは、あまり関知していないのよ。品の良し悪しをみる程度はするけれど、経営は全て藤助さんに任せっきり」


 八重子は寂しげな表情を浮かべ、遠い目をしてポツリと呟いた。


「本当に……主人が亡くなったときは、この先どうしていけばよいのかと途方にくれたけど、藤助さんがいてくれて、どれだけ助かったことか」


 桜子も幼い頃に母を亡くした。大切な人を偲ぶ八重子の表情に、胸がキュッと切なくなった。


 八重子は、すぐに「ごめんなさい。湿っぽくなっちゃったわね」と苦笑いした。



 桜子は、昨日と同じ部屋に通された。

 レース編みの道具や糸、作りかけのコースターは、すでに準備されてる。

 昨日と同じように教えてもらいながら、しばらく編んでいると、タツ江がやって来た。


「旦那さまが戻られたようです」

「えっ?! もう?」


 八重子が「こんなに早く戻ってきて、新しいお店の方は、大丈夫なのかしら?」と心配そうに呟いた。 


「社長は今は、どちらに?」

「1階のお店のほうです。大切な物の整理をするので自分が出てくるまで誰も店の方に入らないように、とのことでした」

「分かったわ。ありがとう」


 タツ江は、必要最低限のことだけを淡々と伝えると、すぐに部屋を出ていった。


 タツ江が完全にいなくなるのを確認してから、八重子が少しだけ声を落として言った。


「大切な物の整理というと、多分、アレの件ね」

「あの、予告状のことですか?」

「えぇ、そうよ。昨夜、盗まれそうな物を片っ端から集めておかないと…と言っていたもの」


 新伍から聞いていた通りだ。


 八重子が、「せっかく新店舗も完成したばかりの目出度い折だというのに、こんな時に…本当に困ったものだわ」と、ため息混じりに小さく首を振った。


 それから、気分を変えるように桜子に微笑んでみせる。


「でも、そちらは社長と五島さんにお任せして、私たちは楽しいことをいたしましょう」


 桜子の女学校の話などをしながら、和気あいあいとレースを編んでいく。

 初めのうちは編み目が乱れそうで、おしゃべりなどする余裕のなかった桜子だが、今では少しずつ慣れてきた。


 八重子も何かを編んでいるらしい。桜子よりもずっと滑らかに指と鈎針で糸を繰る。なんて美しい動きだろうと、思わず見惚れてしまう。

 一度、何を作っているのかと尋ねたが、八重子は指先を口元に宛てて、「内緒よ」と悪戯っぽく笑った。


 桜子のコースターが1つ完成し、2つ目の途中まで編みかけたところで、道具箱の中を探っていた八重子が「あら?」と首を傾げた。


「どうかなさいましたか?」

「糸が足りないわ。準備するときに色を間違えたみたい」


 桜子も覗いてみると、確かに今使っているのと同じ色の糸がないようだ。面白いもので、似たような白色の糸は何種類かあるが、比べてみると同じ白でも僅かに違う。


「少し待っていてちょうだい。すぐに取ってきますから」


 言うが早いか、八重子は立ち上がって部屋を出て行った。


 桜子も手を止めて、休憩がてら伸びをした。

 どんどん編み上がっていくのは楽しいけれど、俯いた姿勢は肩が凝る。


 窓の外に目を向けると、昨日よりも厚い雲が空を覆っていた。

  雨でも降り始めたら、帰りが困る。案じながら窓下へと視線を滑らせると、昨日と似たような背格好の夫人が風呂敷を背負って、歩いていくのが見えた。今のところ、大丈夫みたいだ。


 すぐに八重子が、糸を持って戻ってきた。

 しばらく作業をしていると、タツ江が再びやって来て、八重子に尋ねた。


「奥様。そろそろ、お夕食の支度の時間ですが……」

「えっ?! もう、そんな時間だったかしら?」


「何時ですか?」


 曇っているせいで、空の様子では時間がよく分からない。桜子が尋ねると、八重子が時計を見て、17時を少し過ぎた頃だと教えてくれた。

 思ったより遅い。


「あの……五島さんは、いらしていますか?」


 行きは大二の人力車だったが、帰りは新伍に送ってもらう予定になっている。もう用事は済んだだろうか。


「いらしていますが、旦那さまが、まだお店から出てみえないので、30分程応接間でお待ちです」


「なんですって?!」


 タツ江の言葉に、驚いた八重子が跳ねるように立ち上がった。


「タツ江。貴女、お客様をお一人でお待たせしているの?」

「本を読んで待っているから構わない、とご本人がおっしゃったので……」

「だからといって、本当に一人で放っておく人がありますか! すぐに挨拶にうかがいます」


 八重子は慌てて片付け、桜子とともに応接間に向かう。


 途中で、昨日のおさげ髪の女の子と出会した。

 八重子が少女に「晶子」と呼びかける。やはり彼女が娘の晶子だ。


「胡条財閥のご令嬢、胡条桜子さんですよ。ご挨拶なさい」


 晶子が立ち止まって、「韮崎晶子(にれさき あきこ)です」と名前だけの自己紹介を告げた。

 どこか固い表情に、八重子が「ごめんなさいね。この子、引っ込み思案なものだから」と代わって謝った。


 そのまま3人で応援間に入ると、タツ江から聞いていた通り、大きな机に新伍が一人で腰掛けていた。


「お待たせしており、申し訳ありません」


 八重子が頭を下げると、新伍が「大丈夫ですよ」と答えた。


「社長は、こちらに帰ってきてはいるのですが、まだ店の方でその……例の整理をしているようで。随分とお待たせしておりますし、この時間なので、よろしければ夕食をご一緒にいかがでしょうか? すぐに用意させますから」


 八重子から、「勿論、桜子さんもご一緒に」と声をかけられ、どうしようかと新伍を見た。父の了承なしに、勝手にお夕飯をいただくことは出来ないのだけれど……


「僕は出来たら、そうさせていただけるとありがたいです。予告の期限まで日がありませんし」


 新伍が「桜子さんは先に帰って構いませんよ。胡条さんが心配なさるでしょう」と言ってくれたので、結局、桜子だけが帰ることにした。


「それなら、胡条の家にお迎えをお願いしましょう。タツ江に行かせますので、少しお待ちください」


 タツ江が三善家への連絡と胡条家への迎えの依頼に行っている間、新伍と八重子、晶子とともに4人でお茶を飲んだ。


 給仕をしてくれたのは、タツ江とは違う女中だ。背が低くて、ふくよかな中年女性で、八重子からは「おマツさん」と呼ばれていた。


 マツは明るくて世話焼きな性格なようで、黙ったままの晶子に「お砂糖いれますか?」、「お嬢さんは、ミルクも要りますよね?」と次々に尋ねては、晶子が頷くが早いか、砂糖やらミルクやらを入れて、かき混ぜてやる。

 きっと、いつも大人しい晶子を気にかけているのだ。


「長いこと、お一人でお待たせして申し訳ありませんでした。話し相手もおらず、退屈でしたでしょう?」

「構いませんよ。本を読んでいましたから」


 八重子と新伍がそんなやり取りをしている間も、晶子は、ただ黙って座っている。


 八重子に似た面長な顔立ちのせいだろうか。11歳という年齢のわりに、大人びて見える。 

 桜子は晶子に、学校のことなどを話しかけてみた。


 八重子からは、晶子は引っ込み思案な人見知りといわれたが、桜子が話しかければ、算術が苦手なことや、裁縫が好きなことなどをポツリポツリと教えてくれた。


「へぇ。晶子さんは高等小学校を卒業したら、桜子さんと同じ女学校に進学したいんですか?」


 そうできたら嬉しい、と希望を口にした晶子に、話を聞いていた新伍が尋ねると、彼女は途端に口を噤んだ。


 八重子が取りなすように謝った。


「申し訳ありません、五島さん。晶子は特に、男性があまり得意ではなくて……早くに父を亡くしたせいかしら?」


 無言で俯く晶子に、桜子が励ますように声かける。


「大丈夫よ、晶子さん。女学校の学友たちは、皆女の子ばかりだもの。私の後輩になるかもしれないなんて、楽しみだわ」


 しばらく話をしているうちに、やや頬を上気させたタツ江が戻ってきた。


「胡条家からのお迎えの方がいらっしゃいました」


 桜子は、新伍と晶子に別れの挨拶をして、応接間を出る。玄関口まで見送ってくれた八重子に礼を告げ、2日後の訪問を約束すると、外へ出た。


 やはり天気が悪いせいか、この時間にしては薄暗い。

 表で待っている人力車まで、タツ江が送ってくれた。


 行灯を持って前を歩くタツ江の足元がフワフワと頼りないのが、桜子は気にかかった。


「あの、タツ江さん?」


 思わず桜子が呼び止めると、「はい?」と足を止めて振り返る。その一重瞼の下の目が、どこか夢見がちに、トロン下がっている。


「胡条の家で何かありましたか? その……失礼なことなど」


 タツ江が「とでもない!」と頭が取れそうなほど大きく、首を左右に振った。


「だってアタシ、人力車に乗ったのなど、初めてで……」


 どうやら胡条の家に迎えを頼みに行き、こちらに引き返して来る際に、人力車に乗るように言われたらしい。確かにそのほうが速いし、安心だろう。


 タツ江にとって、人力車に乗るのは初めての経験だったそうで、まるでお姫さまになった気分だったそうだ。


 無口で物静かな印象のタツ江が、まるで別人のように浮かれて言うのだから、余程嬉しかったのだろう。何にせよ、粗相があったのではないようで、安心した。


 いつも乗り降りしている韮崎家の店舗の前で、大二が待っていた。


「お嬢様。早く帰りましょう。遅くなると、雨が降り出すかもしれません」


 空を見て言う大二に同意し、タツ江に礼をしようと振り返れば、店舗の中には薄ぼんやりと灯った明かりが動いているのが見えた。

 韮崎藤助社長が、作業をしているという話だから、その明かりだろう。


 随分と時間がかかっているようだけど、新伍は大丈夫だろうか。あまり遅くならないといいけど……


 父から、予告状の件には関わるなと言われている。桜子にできるのは、健闘を祈ることくらいだ。


 桜子はタツ江に視線を戻すと、礼を告げて、人力車に乗り込んだ。

 すぐに車が走り出す。


 前で車を引く大二が尋ねた。


「夜風が寒くありませんか?」

「いえ、大丈夫よ」


 答えてから、桜子は韮崎洋品店の方を振り向いた。大二の足は速いから、店はもう随分と後方にある。店の中で動いていた明かりは遠く離れたせいか、もう見えない。

 その暗さに、なぜだか胸がざわついた。

 多分、気の所為。そう。気の所為だ……



 空を見て案じていた通り、桜子が家に着くと、すぐに雨が降り出した。



 そして、その日ーーー韮崎洋品店の若き社長、韮崎藤助は自宅兼となっている小間物店の店内で亡くなった。



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