2 洋品店の展示会
桜子と新伍が、焼き立ての煎餅に合う香りの良い緑茶を飲み終わる頃、父が応接間に顔を出した。
父は葉書くらいの大きさの紙を取り出して、桜子に渡した。紙には洒落た装飾の文字が書いてある。
「韮崎洋品店、ですか?」
その紙に書かれた店の名前を、桜子が読み上げる。
「今度、新しく銀座通りに店を構えるらしくてね。正式な開店前に得意客だけを対象にして、商品の事前展示会をするそうだ」
「得意客? 韮崎洋品店の?」
我が家は懇意にしていたかしら。少なくとも桜子は初めて聞く名前だ。
「最近、急速に業績を伸ばして急成長している店だ。うちはこれまで特別な付き合いはしていないが、これから懇意にしていきたいということなのだろう。実際、ある程度の規模や家格のところに片っ端から招待状を渡しているようだから」
「あぁ、そういうことなのですね」
つまり、今回の招待は、新しい店の宣伝ということらしい。
「洋品店の展示会というのは、どういうものなのでしょう?」
「選りすぐりの商品をたくさん並べて展示しているようだ。気に入ったら、その場で購入したり、似た商品を注文できるそうだよ」
「普通にお店を訪れることは、どう違うのですか?」
「正式な開店後はどんな客でも入店できるが、今回の事前展示会は招待客に限るようだ。新店の展示会と銘を打ち、対象の顧客を絞ることで、目新しさと特別感を演出しているのだろう。なかなか面白い試みじゃないか」
父の口調は、新興店の戦略をどこか褒めるようでもある。
「お父様は行かれるのですか?」
「三日後の夕刻なのだが、残念ながら私はすでに別件で会食の予定が入っていてね。それで、桜子と五島くんで行ってはどうかなと思ったのだ」
新伍と桜子が顔を見合わせる。
桜子の手許の招待状を、新伍が横から覗き込んだ。
「僕も夕方は予定がありますが、終わりかけの頃なら行けそうです……が」
新伍が困ったように父を見た。
「流石に、この格好ではマズイですよね?」
新伍は今日も、丸首シャツの上から着物と袴の書生服だ。書生服でない姿を見たのは、以前、大帝都ホテルの夜会で着ていた燕尾服くらいだが、あれも借り物だと言っていた。
「君は先日、スーツを仕立てたんじゃなかったのか? 時津がそう言っていたが」
途端に、新伍が渋い顔をする。
「やっぱり、スーツですか……」
スーツを新調したなんて初耳だ。いつも書生服の新伍は、どんなスーツを仕立てたのだろう。
「ねぇ、新伍さん。終わりがけでもいいわ。一緒に行きましょう」
楽しみが増して浮かれる桜子に、新伍はため息で返した。
* * *
三日後の晩、桜子と新伍は大二の人力車で、銀座通りの韮崎洋品店、新店舗前に降り立った。
正式な開店は明後日の正午だというが、すでに外観も看板も完璧に仕上がっている。
来客の気配を察知したようで、明かりの灯った店舗の扉が内側から開いた。
洋品店らしく黒いズボンに白いシャツ、黒のベストを着た、若い従業員の男性が桜子たちを出迎える。
桜子は、胸元に白いフリルをあしらった、落ち着いた色味の赤いワンピース。新伍は、新しく仕立てたというスーツを着ていた。
新伍のスーツは濃紺色で、よく見ると同色のチェックの柄が織り込まれている。スーツの内側には同じ柄のベスト、そして頭にも紺色の鳥打帽を被っていた。
姿勢の綺麗な新伍は、一見すると、良い家柄の子息に見える。
本人は堅苦しくて着慣れないと嫌がっているが、想像していたよりも、ずっと似合っている。
「行きましょうか?」
新伍に続いて、扉をくぐる。
入ってすぐのところに受付のような机があって、そこには、男性の先客が二人いた。
一人は何やら台帳らしきものを捲っては眺めている。もう一人は従業員の男と話をして、木札のようなものを受け取っていた。
すると、台帳を見ていた男がもう一人に声をかけ、二人して二階へと続く階段を上がっていく。
「展示会の会場は二階のようですね」
新伍の言う通り、一階は明かりがついてるものの、見学客は誰もいない。
「事前展示会は、二階部分なんですよ」
新伍が渡した招待状を確認していた従業員が、顔を上げた。柔らかな笑顔の青年は、黒いベストの胸元に『辻本』と書かれた名札を付けている。
「正式に開店した後も、基本的に一階は誰でも入れるような気軽な設えにしてありますが、二階は招待状や紹介状のある方のみが入れるのです」
つまり一見さんお断りということだろう。一階と二階で相手にする顧客を分ける仕様のようだ。
「今日は展示会なので、二階には、たくさんの商品が並んでいますが、開店後はもっと落ち着いた雰囲気になりますよ」
「正式な開店前に事前の展示会というのは、面白い試みですね」
「ありがとうございます。是非、お楽しみください」
招待状の確認を終えた辻本に頼まれ、新伍が自分と桜子の名を、訪問台帳に記帳する。
その間に、辻本が桜子に声をかけた。
「お荷物をお預かりします」
「え? 荷物をここで、ですか?」
「えぇ、二階はあまり広くありませんし、他のお客様もみえますから」
辻本は、展示物を傷つけないようにするためだと説明した。
桜子は手に提げた小さな鞄を、新伍は帽子を店員に預けた。
「荷物預かりなんて、劇場みたいですね」
「僕は、あまりこういった店には来ないので、この手の店の常識をよく知りませんが……」
新伍と話していると、すぐに辻本が木札を持って戻ってきた。桜子と新伍、それぞれに渡された木札には、「弐」と「伍」の番号が書いてある。
なるほど、先客が受け取っていた木札も、この荷物札だったようだ。
店員がすぐ脇の階段を指して、「あちらへどうぞ」と案内した。
階段を登ると、1階より狭いフロアの壁際と真ん中にショーケースが並んでいる。
見たところ、客は全部で6人。先程、前に並んでいた男性2人組以外に、男女の2人組、それから1人客の男性と女性がそれぞれいた。
展示会場はさらに奥があるのか、男性2人組が突き当たりを右に曲がっていくのが見えた。
「意外と広いわ。でも、そんなに混んでいませんね」
「終わりかけの時間だからでしょう」
桜子は新伍と話しながら、近くのショーケースに向かった。
透明のケースの中は、女性用の装飾品らしい。洋風の髪飾りや、レースで編んだ襟飾りが展示されている。
中でも、大きな赤いリボンに白色とピンクの小さな宝石をあしらった髪飾りが、目を惹いた。桜子好みのリボンで、和装にも合いそうだ。
「桜子さんに似合いそうですね」
思わず見惚れていると、隣の新伍が言った。
「値段を聞いてみますか?」
商品には値札はない。価格は尋ねなければ分からない。最初に渡した招待状があるから、桜子1人でもツケにすることは出来るだろう。でも、桜子だけで購入を決めることは出来ない。
「気に入ったものがあれば、後日、改めて父と来ることになっていますから。値段をお尋ねするのは、その時にします」
そう答えて、隣の襟飾りを眺める。
白く細い糸で精緻に編んだレースの飾りは、花や鳥が複雑に絡み合いながら描かれていて、編み目は歪み一つなく美しい。裁縫の授業はあまり得意でない桜子からすると、こんなものを編める人間がこの世にいるとはと、思わず嘆息してしまう。
桜子たちは装飾品のショーケースから離れて、次の展示に向かった。
こちらは懐中時計がいくつも並んでいる。
2人が順に見ていると、背後から耳馴染みのある声に話しかけられた。
「こんばんは」
振り返ると、東堂呉服店の次男、東堂樹が立っていた。
樹は落ち着いた水色の着物の上に紺の羽織を着ている。一目で分かる上等で品の良い仕立ての着物は、老舗呉服店の若旦那風だ。
「今日は2人だけですか? 旦那様は?」
「胡条さんは予定があるようで、代わりに僕が」
「樹兄さんも、招待状をいただいたの?」
「えぇ。最近は和風と洋風を取り混ぜたような格好をする人が多いでしょう? 装飾品でも和服にも洋服にも合うような物も、たくさんあるんですよ。中でも、韮崎洋品店は気軽に普段使いできるような小物をたくさん取り扱っていると、最近、評判なんです」
近しい業界だからか、樹は韮崎洋品店のことを桜子たちよりもよく知っている。
「私は、あまり馴染みがなかったのだけれど…」
「この店は、3年ほど前に当時の社長が亡くなって、弟さんが後を継ぎました。そこから急成長を遂げて、あっという間に銀座の一等地に店を建ててしまったのだから、後を継いだ弟社長というのは、相当な経営手腕ですよ」
新しい社長は面白いことや話題性の高いことをいろいろと考える人で、今日の展示会もその人が仕掛けたのだろうと樹は言った。
三人で話をしながら展示品を見ていると、突然、近くの扉がパタンと開いた。
扉の奥は、展示会場と違って薄暗い。店舗ではなく事務室だろうか。
そこに眼鏡をかけた恰幅のよい男性が一人立っている。格好は、新伍が普段着ているのと同じような書生服だ。
男性は手に書類を抱えたまま、暗がりから首だけを伸ばして、きょろきょろと展示室を眺めている。
目が悪いのだろうか。ニキビ面にかけた眼鏡の位置を、片手でしきりに調整している。
この店の従業員からしら、と思って何気なく見ていたら、男性の手に抱えた書類が数枚、ひらりと落ちた。
ちょうど桜子たちの前に1枚落ちてきたので、それを新伍が拾うと、書生服の男性に渡しながら告げた。
「お探しなのは社長さんですか? 多分、お客さんと一緒に、あちらの奥に歩いて行きましたよ。良かったら、声をかけてきましょうか?」
新伍は先程、男性2人組が曲がっていった方を指した。
飄々と世間話のように言う新伍に、桜子と書生服の男性、そして樹は、揃って目を丸くした。
「どうして、新伍さんはこの方が探している人のことが分かったのですか?」
「どうして、私が社長を探していると思ったのですか?」
「何故、五島さんはここの社長さんのことが分かったのですか?」
三人から同時に聞かれ、新伍がいつものように、軽く肩を竦めた。
「あ、やっぱり探しているのは社長なんですね」
書生服姿の男性が怪訝な顔で首を傾げた。
「貴方は多分、ここの従業員ですよね。その扉から先に出てこないで、気まずそうに顔だけを覗かせていたのは、その格好では展示室の中を出歩きにくいから、でしょうか? だから、上司に何か用事があっても探しに行けずに困っている」
それ程重要な要件ならば、その上司は社長だろうかと思い、お探しなのは社長かと、新伍は尋ねた。
確かにヨレヨレの書生服は、このお店の雰囲気にはそぐわない。男性は恥ずかしそうに、「僕は奥の事務室で仕事をしているので、普段からこのような格好を…」と、新伍の指摘を認めた。
「社長からは店舗の方には出歩かないように言われているのですが、先程、どうしても急ぎ目を通していただきたい書類があることに気づきまして」
社長は少し前に、知り合いが来るからと店舗に出ていった。それで呼びに来たが、この扉の内側からみえる範囲には、見当たらない。
「新伍さんは、どうして先程、あちらの奥に歩いて行った方が社長だと分かったのですか? 私はお客さんかと思ったのですが」
「ここから見える範囲で、店内にいるのは僕たちを除いて4人。それと先程、角を曲がって奥に入っていった男性の2人組です。ここにいる4人のうち、パッと見たところ、2人は手に荷物札を持っているから、客でしょう。荷物札を持っていないのは、女性が1人と男性が1人。それと奥に歩いて行った2人組のうちの1人です」
「あれ? でも、あの方たちは受付で荷物札を受け取っていましたよ」
桜子はその時の様子を思い出して答えたが、新伍がすぐに否定した。
「1人は受け取っていましたが、もう1人は台帳を見ているだけでした」
新伍は、その台帳を見ていた方の男性が韮崎洋品店の社長ではないかと言う。
「台帳を見ていたから、社長だと思ったのですか? 来場者の確認をしていた、と?」
樹の質問に、新伍は「それもありますが……」と、今しがた書生服の従業員に渡した書類を再度取り上げて、皆に見せた。
「ほら、この紙。ここの左下が縒れてシミのようなものがついているでしょう? おそらく、書類を捲る時に、指を舐める癖がある方が見たのかな、と。先程、台帳を見ていた男性も、捲る時に親指を舐めて頁の左下から捲りあげていましたから」
確かに、桜子が父の会社に顔を出したとき、書類やお札を数えるときに指を舐めている人を見たことがある。
あまり品が良くないわねと、内心、眉を顰めたのだけれど、舐めないと指が乾いて上手く捲れないのからだと時津が言っていた。
「それに、樹さんから聞く限り、社長さんはかなり商売熱心な方のようです。何人も客がいるのに、1人で展示を眺めはしないでしょう。今の話だと、実際に友人を出迎えに出てきたようですしね」
確かに、荷物札を持っていない人たちは、いずれも1人で、のんびり展示を眺めているだけだ。
3人が新伍の推理に関心していると、突如、後ろから拍手の音がした。
驚いて振り返ると、1人で見ていたはずの女性客がいつの間にか、直ぐ側にいて、「お見事です!」と感嘆した。
それから、書生服の従業員に指示を出した。
「斎藤さん。社長には私から声を掛けておくから、貴方は事務所の中で待っていてちょうだい」
斎藤が「分かりました」とモゴモゴとした声で頭を下げ、恰幅のよい身体をゆらゆら揺らしながら中へと引っ込んでいった。
それを見送った女は、改めて3人に向かって自己紹介をした。
「初めまして。私は韮崎八重子。亡き先代社長の妻で、現社長の義理の姉です」
八重子と名乗った中年の女性は、豪華な飾り襟のついた華やかなワンピースを着ている。顔立ちは面長だが整っていて、落ち着いた雰囲気の美人だった。
「貴方の推察力は本当にお見事でしたね。貴方のおっしゃるとおり、あちらの奥に歩いていったのが当社の社長です」
八重子は、社長に声を掛けてくるから、このまま少し待っていて欲しいと桜子たちに告げて、一旦、離れていった。
すぐに戻ってきて、社長が事務所の奥に入っていくのを見届けると、再び、新伍たちに話しかけた。
「失礼ですが、お名前を伺っても? ごめんなさいね、私は商売相手のお客様はあまり存じ上げなくて…」
八重子の質問に、年長の樹が代表して応える。
「私は東堂呉服店の東堂樹です。こちらは、胡条財閥の御息女、胡条桜子さんと、その婚約者の五島新伍さんです」
本当は婚約者ではなく、婚約者候補なのだけれど、ここで訂正するのは野暮たろう。ややこしいことになるだけだ。
桜子は樹の紹介に合わせて、軽く会釈をした。
「まぁ、東堂呉服店に、胡条財閥のお嬢様でしたの。お噂はかねがね伺っております。それにしても、胡条財閥のお嬢様は、こんなに可愛らしい方でしたのね。お会いできて嬉しいわ」
八重子が品良く微笑んだ。
「桜子さんの婚約者の五島新伍さんも、どちらかの商家の方なのかしら?」
「いえ、僕はただの書生です」
新伍は謙遜したが、代わりに樹が答えた。
「五島さんは帝国大学の学生さんですが、優れた洞察力をお持ちで、胡条さんからも一目置かれているのですよ。先日なぞ、殺人事件まで解決してしまったのですから」
八重子が驚いて、目を見張った。
「まぁ! 殺人事件まで? それは凄い探偵さんなのね」
すると、ふいに表情を曇らせ、呟いた。
「それなら、あの事件のことも、お願いできるのかしら……」
「あの、事件?」
桜子と樹が顔を見合わせる。
新伍が尋ねた。
「あの事件とは、どういった事件ですか?」
すると八重子の面長の顔が少し俯く。影が差して表情が憂いを帯びた。
「皆さんは昨今、話題の泥棒について、ご存知ですか?」
「話題の泥棒というと、あの、商家に忍び込んで、貧乏長屋に施しをする義賊のことですか?」
確認するように尋ねたのは、樹だ。彼もあの泥棒について、知っているらしい。
八重子が、周囲を憚るように小声で言った。
「えぇ、そうです。実は先日……その義賊から当店に、『予告状』が届いたのです」
予想だにしない八重子の告白に、その場にいた全員が驚きのあまり言葉を失った。