1 銀の毛
★書籍化前のWEB版のみお読みの方へ★
本作品は書籍化にあたり、当初掲載していたものから、話の展開やキャラクターについて大きく変えた部分があります。
書籍化前のウェブ掲載版のみお読みの方については、続編において、キャラクターの取り扱いや話の筋に齟齬を感じる可能性がありますので、ご注意ください。
「あれ?」と思う部分があるかもしれませんが、(改稿したからかな〜)と思っていただければ結構です。
書籍版は大きく改稿した分、とても読みやすくなっておりますので、未読の方におかれましても、この機会に是非お読みいただければ幸いです。
日が出る前に寝床を出て、習慣どおりに寝間着の上からショールを羽織る。
いつもと同じ朝だった。
人の気配のない家の階段を、慣れた調子で降りていく。
ここを建てるときに、一階の一部は店舗にした。
その店舗に通じる入り口を開け、店の中に昨晩と変化のないこと事を確かめる。
番台、机、鍵のついた戸棚。ここに店を構えてからずっと使っている物たちが、今日も変わらぬことに安堵する。
そして客が出入りする扉へと順に視線を移す。すると、扉のすき間から白い何かがのぞいているのに気がついた。
あれは何かしら。
近づいて触れると、折り畳まれた紙だった。外から挟み込まれたものだろうか。
その紙を手前に引くと、何がハラリとこぼれ落ちた。
屈んで拾い上げると、落下物は銀色に染められた、太くて短い毛だった。小指の爪ほどの長さの毛が数本、地面に散らばっている。
不審に思いながら、二つ折りの紙を開くと、そこに書かれた文字にギョッと目を剥いた。
『予告状』
新聞を切り貼りしたような文字が、不気味に躍っていた。
◇ ◇ ◇
「銀色の狐……ですか?」
女学校のお昼休みのことだった。胡条財閥の一人娘、胡条桜子は、卵焼きを掴んだ箸を宙で止めて、学友たちの顔を眺めた。
「泥棒にしては洒落た通り名よね。おかしいわ」
一緒にお昼を食べていた女学校の同級生3人のうち1人が、呆れるように笑った。
すると別の1人、戸田加代が塩むすびを食べる手を止めた。
「あら、泥棒じゃなくて『義賊』よ」
丸顔を不満げに歪めて、小さな唇を尖らせる。
「でも、義賊って、結局は泥棒でしょう?」
「人の物を盗むんだもの、一緒よね」
他の2人が加代の主張をあしらうように言いうと、「ねぇ、桜子さん?」と桜子に同意を求めた。
いつものように、みんなで集まって、中庭でお弁当を食べていた、女学校の昼休み。
誰が持ち出したのか、いつのまにやら話題に登ったのは、昨今、世間をちょっとだけ騒がせているという『泥棒』の噂話だ。
政府高官や商家を相次いで狙っているという、その泥棒は、ある時、盗んだ宝石の一つを貧乏長屋の入り口に置いていった。
以来、「貧民を救う義賊だ」と、一部の者たちから大変な支持を得ているという。
「……泥棒と義賊は違うわよ」
加代は悔し紛れに呟くと、塩むすびに齧り付いた。
お漬物や卵焼きを入れたお弁当を持ってくる他の学友たちとは違い、彼女のお昼ご飯は、いつも質素な塩むすび2個だけだ。
小柄で童顔な加代は、年より幼くみられがちだが、実は学年で一、二を争う成績優秀者だ。
帝都の中心地からやや離れた田舎の出身で、兄弟姉妹も多いという。本来なら女学校に進学するのは難しかったところを、さる篤志家の支援を得て、ここに通うことになったらしい。
今は、その篤志家から紹介された人の家に住んでいる。
加代が噂の義賊とやらに殊更、肩入れするのは、そういう彼女の事情によるものかもしれない。
「それで、その……義賊というのは、何者なの?」
桜子が話題を本筋に戻してやると、他の二人が加代に話を譲るように視線を送る。
「正体は、今のところ全く不明なのよ」
加代が何冊かの雑誌に書いてあったという話を教えてくれた。
それによると、件の義賊は大豪邸から次々と大量の現金や宝石を盗んでは逃げ、盗んでは逃げ、その数ついに十数軒にものぼるのだとか。
しかし、ある時、盗みに入られた家の主が、ついに尻尾を掴んだ。この好機に主は、いざ盗人を捕まえんと、塀の際まで追い詰めた。ところが、なんと! 行き止まりのはずの塀から、男は奇術みたいにパッと姿を消したそうのだそうだ。
「銀の衣を纏って消えた、その様に、『狐が化かしたに違いない』なんて言われるようになったの」
「なるほど。それで通り名が『銀狐』なのね」
まるで、どこぞの八犬士が活躍する壮大な物語の一端でも聞いているような心地でいると、他の二人が加代の熱のこもった語りぶりに、苦笑いを浮かべて水を差した。
「加代さん、人間が急に消えるわけないわ」
「そうよ。縁日の見世物小屋も種や仕掛けがあるものなのよ」
小さな子どもを諭すように言われ、流石に少し恥ずかしくなったのか、加代の言葉が弱々しくなる。
「……そりゃあ、私だって、雑誌が多少誇張して書いてるってことくらい分かっています」
落ち込んだ様子で言うと、そのままフイッと黙ってしまった。
「皆さんは、その義賊の話、知っていたの?」
桜子が加代以外の二人に尋ねると、二人は顔を見合わせ、「えぇ、勿論」と頷いた。
「と言っても、最近、連続泥棒犯が相次いでいるから注意するように、って家で話している程度だけれど」
「うちもよ。それで使用人たちが、いつもより念入りに戸締まりを確認しているわ」
二人は口々に言ってから「胡条家なら何も心配いりませんわね」と話を振られたが、桜子は軽く首を傾げるだけに留めた。
* * *
その日の女学校からの帰り、胡条家お抱えの人力車が桜子を迎えに来た。
早速、人力車の車夫、堤大二に、お昼に話題になった義賊について尋ねてみると、彼は当たり前に答えた。
「例の泥棒ですか? もちろん、警戒していますよ」
桜子が人力車に乗りやすいように、荷物を受け取り、手を支える。
「そんなに有名なの?」
「『銀狐』だなんて、そんな珍妙な通り名は知りませんがね。随分と巧妙な手口の盗人があちこちの家に立て続けに入っているから気をつけるようにって、使用人同士で警戒しています」
桜子が人力車に乗り込むのを見届け、前に回り込んだ大二がポツリと呟いた。
「こういうとき、時津さんがいれば、と思いますがね…」
その言葉が桜子の耳に入るのと同時に、人力車がゆっくりと動き出す。
秋というには、まだ暑い。
初秋の乾いた風が、頬を撫でる。
桜子は、後方に流れていく景色を眺めながら、時津に思いを馳せた。
家令の時津は、少し前まで胡条家の使用人を束ねる立場にあった。仕事が早く、抜け目ない筆頭家令たったが、ある事件がきっかけで、今は胡条家と親しい三善家で暮らしている。
未だに、こういう時に真っ先に名前が出る時津のことを想うと、少し切なくなる。
そんなことをしんみりと考えながら大二の人力車に揺られているうちに、あっという間に、胡条の門が見えた。
玄関の前で降りると、いつもならすぐに車庫に帰る大二が、何か言いたそうに動きを止めた。
「どうかしたの?」
「あの……確か今日って、五島さんが見えるんですよね?」
「新伍さん? えぇ、みえると思うわ。どうして?」
五島新伍は、桜子の脅迫状事件のときに父の紹介で知り合った、帝国大学の学生だ。時津のいるのと同じ三善家の書生で、桜子の唯一の婚約者候補だった。
「実は……五島さんに相談したいことがありまして」
「相談事? 大二が?」
「えぇ。私の、というより知人のことですが…ともかく私だけでは困ってしまって、五島さんにお知恵をお借りできればと……」
新伍は、以前、桜子に届いた脅迫状事件を調査する傍ら、同時に起こった殺人事件まで解明したことがある。
最近では、少し前に陸軍の藤高貢少尉に頼まれて、暗号を読解していた。
頭の回転がよく、変わったことによく気がつくところを、桜子の父も買っている。
大柄で、いつも堂々と人力車を引く大二が、自信なさげに身体を縮めている。何か、よほど困ったことがあったに違いない。
「わかったわ。私から、新伍さんに話してみますね」
桜子が請け負うが早いか、背後から耳慣れた声がした。
「僕に、何を話すんですか?」
丸首シャツの上から着物という、いつもの書生服姿の新伍が、軽く首を傾げて立っていた。
「新伍さん!? いつの間に?」
「こんにちは、桜子さん。お久しぶりです、堤さん」
以前、桜子の手紙の調べるために、新伍は胡条家に住んでいたことがある。大二とは、その時に顔見知りになったようだ。
「僕に何か相談事があるように聞こえましたが?」
「えぇ、実は人を探してほしいのです」
「ほう。人探しですか。大二さんのお知り合いの?」
「私の知り合いの娘ですが、随分と前の話でして……」
大二が歯切れ悪く言葉を切る。何か言いたそうな顔で、桜子のほうに視線を向けた。
その様子を察した新伍が言った。
「桜子さん。焼き立ての煎餅を買ってきたので、先にイツさんに渡していただけますか? 今日は紅茶より緑茶が合うと思いますよ」
新伍が右手に下げていた包みを桜子に渡す。確かに、どことなく醤油のいい香りが漏れている。
「僕は堤さんと少し話をしてからいきます」
多分、桜子に席を外せということなのだろう。
「分かりました。では、お先に」
桜子は物分りよく返事をすると、焼き立ての煎餅を持って、屋敷のほうへと向かった。