3 暗号読解講義
中盤の暗号を解説する下り、閲覧いただくデバイスによっては、表示がズレてしまうかもしれません。(私もPCで見たらズレてしまいました…)
貢が新伍の元を訪ねてから、ちょうど五日後の昼過ぎのこと。新伍と貢は建物の影に隠れて、周囲を見張っていた。
視線の先には、あの長屋の壁。まだ何も書かれていない、ただの木の壁だ。
さて、うまく捕まえられればいいが…と思案する新伍に、隠れるには向かない長身を心持ち縮めた貢が尋ねた。
「本当に、ここで待っていれば来るのですか? 暗号を作った人間が」
「えぇ。僕の考えが正しければ」
貢が三善邸を訪れると予告していた日の前日、新伍は藤高の家に伝言を頼んだ。この場所に来て欲しいと。
あの暗号は、ほぼ解読ができた。
何のために書かれたのかも、何が書かれていたのかも。
新伍の態度から、貢もそれは察しているだろう。だが、まだ詳しいことは説明していない。
「あの暗号を考えたのは、高輪祐一ではありませんよ」
「そうですか」
短い相槌を打っただけで、それが何者なのかを貢は聞かない。
このまま待っていれば、すぐに判明することだから。そういう無駄な手順を、貢は踏まない。
腕を組んで壁に寄りかかりながら壁を見張る。
すると現れ出たその人物に、新伍はもたげていた身体を起こした。
「どうしました?」
「来ました。おそらく暗号を考えた人間が」
組んだ腕を解いて、その人間を指差す。その先にいた人物の姿に、貢は戸惑っていた。
「あの者……ですか?」
そこには、左手に小さな桶を下げた少年が立っていた。
「あの子で間違いありません。行きましょう」
少年は、警戒するように左右にさっと視線を巡らせ、桶を置いた。背後から近付く新伍と貢には、気づいていないようだ。
桶から刷毛を取り出すと、溶かした炭ので、壁にアルファベットのようなものを書き始めた。
少年が三文字程書いたところで、新伍が声をかけた。
「そこの君」
少年の肩がビクッと跳ねる。おそるおそる新伍の方を振り返った。
「な……なんですか?」
年の頃は8歳か9歳くらいだろうか。
少年はオドオドとして、桶と刷毛を身体の後ろに隠している。
「いつも、ここに暗号を書いているのは、君だね?」
新伍が問うと、少年は慌てて首を振った。
「え?! いえ……あの、僕は……」
「叱るために声をかけたわけではありません。それに、怒ってもいませんよ。僕も、いつも消してくれているお爺さんも」
「お…じいさん?」
「君の書いた秘密の手紙を、いつも消していたのは、ここの長屋に住む徳助というお爺さんです。お爺さんは、君が書いている理由を何となく分かっているようでした」
「えっ?!」
少年は驚いて顔を上げると、思わずといったような動作で左を向いた。
新伍と貢も、同じようにそちらに顔を向ける。その先には広い畑の真ん中に建つ、二階建ての大きな建物。
「あれは、病院ですか?」
緑色の屋根瓦を履いた建物に、貢が尋ねた。
「えぇ、病院です。そして、この壁はあの病院の二階の病室から、よく見える」
「……あぁ、そういうことですか」
貢も事情を察したらしい。 この男の子が、病室にいる誰かに向けて、この暗号を書いていたのだという事情を。
新伍の言葉に、少年言い逃れるのをやめたらしい。
「………ごめんなさい」
「僕に謝っていただくことでは、ありません」
新伍は、壁に書きかけた暗号を改めて眺めた。
「それにしても…この暗号を考えたのは君ですか?」
少年はやや逡巡してから、小さな声で「そうです」と認めた。
「君の名前は?」
「千曲……幸彦です」
「そうか、幸彦くん。なかなか面白い暗号を作りましたね。マザーグースとは」
「マザーグース?」
「え? まざー……ぐうす?」
貢と幸彦が同時に、新伍の言葉を反芻した。しかし、その反応は真逆だ。
マザーグースが何であるかを即座に理解したうえで問い返した貢に対し、幸彦の反応はまるで初めてその言葉を聞いたかのようだ。
どうやら幸彦少年は、自分が何を引用したのか知らずに作ったらしい。
「五島さん、マザーグースというのは、どういう意味ですか?」
貢に説明を求められ、新伍は「いいでしょう」と、ニヤリと笑った。
徳助が煙管を吸うときに使っていた木箱を持ってくると、懐から帳面を出す。
帳面には、数枚の紙が挟んである。貢から預かっていた紙だ。
新伍はその紙を取り出して、壁と対比するように2人の前に掲げた。
「まだ時間はある。まずは手始めに、これと、この壁の暗号について解き明かしてみましょうか」
即席の暗号読解講義が始まった。
「あ、それ……」
新伍が見せた紙に、幸彦が戸惑いの表情をみせる。
「この手紙は、君が書いたものかな?」
「そう…です。でも、どうして?」
「こちらの藤高少尉が偶然拾って、僕の手元にやってきました」
簡単に答えて、すぐに暗号の中身に話を戻した。
「先程申し上げたように、この暗号はマザーグースです。マザーグースはイギリスの童謡や詩を集めたもの。日本だと、Twinkle Twinkle Little Star(キラキラ星)が有名ですが、少尉はご存知ですか?」
「えぇ、その詩は存じています。では、この暗号もTwinkle Twinkle Little Starだと?」
「いえ、違います。これは、別の歌です。実際に僕が解いた順に話すのがいいでしょう」
新伍は先ほど出した紙の中から2枚を出して、木箱の上に広げて置いた。
木箱の傍らには新伍と幸彦がしゃがみ込み、上から貢が覗き込む。
・・・・・・・・・・・・・・・・
Omr 10m"
wP"cD『y』m"『S』m"M
(2行目のyとSは鏡文字)
・・・・・・・・・・・・・・・・
B『c』e k"k"3 m"
OoNKK"o
(一行目のcが鏡文字)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「千曲幸彦くん。この暗号は君が友人にあてて書いたもの。そうですよね?」
幸彦がコクリと頷いた。
「子ども同士の手紙であれば、文面は自ずと限られてくるわけです。中身は、友人との遊ぶ約束でしょう?」
「そうです」
「では、遊ぶ約束に必ず書かれるものは何か」
新伍はそれぞれの紙に書かれた数字、「10」と「3」を指で順にコツンと弾いた。
「この数字を、日にちか時間だろうと僕は推察しました」
そうすると、数字の後に続く「m"」は「日」か「時」に対応する言葉の可能性が高い。
「子どもなら、何日も先の約束をするよりは時間のほうが自然でしょう。そこで仮に、これは『時』もしくは平仮名の『じ』だと考える」
新伍は空中に指で字を書いた。その指を紙面にコツンと打った。
「そこで気になるのは、この『"』。英語では、一般的には会話文のときに用いるものですが、子どもならば、単に濁点のつもりで使うかもしれない」
濁点だとすると、これは平仮名の『じ』。濁点を省けば『m』は『し』だ。
そこまで頷きながら聞いていた貢が、口を挟んだ。
「五島さんの言う通り、これが『じ』……つまり、『m』を『し』だとして、他の字はどうなりますか? 『m』はアルファベットの13番目の文字。『し』は、平仮名の12番目の文字。アルファベット順と五十音順が対応しているわけでもなさそうです」
「おっしゃるとおり。続いて注目するのが、ここです」
新伍は、一つ目の暗号の冒頭、『Omr』を丸で囲った。
「約束する時に、時間の前に書くものといえば日にち。数字を使わずに日を表すとすると、今日、明日、明後日あたりになるでしょう」
未来のことだから、当然、『昨日』は入らない。
「『m』が『し』と仮定するなら、『Omr』は……『あした』、だろうか?」
「正解です」
さすが貢だ。理解が早い。
「そうなると、最後の塊、wP"cD『y』m"『S』m"M (2行目のyとSは鏡文字)、OoNKK"oは、場所でしょう」
新伍は、壁の文字を消していた長屋の爺、徳助にこの辺りで、子どもの遊びそうな場所はどこかと尋ねた話をした。
「このあたりで、子どもの遊びそうな場所といえば、お化け森神社、ひょうたん池、赤松塚だそうです」
文字数から当たりをつけて土地名をはめていくと、さらにいくつかの平仮名との対応が見えてくる。
「こうして、順に判明した仮名に対応するアルファベットを、五十音順に並べると……」
O□e□w oB□c□
あいうえお かきくけこ
「もう少し先まで書いてもいいですけど、とりあえず『か』行まで」
「なるほど……しかし、これでは何とも意味をなしていません。ただの不規則な羅列にみえます」
いつもの仏頂面を少しだけ歪ませて、貢が呟く。
新伍が、小文字のoと大文字のBの間に、スッと線を引いた。
「Bが大文字なので、ここで区切って、『O□e□wo』が、一つの塊だろうと考えると……こうではないか、と」
新伍は、まだ判明していない二箇所に、文字を書き入れた。
『One Two』
「英語で、1と2……ですね。きれいにはまります」
貢は感心したように頷いたが、すぐにoの後のBを指す。
「しかし続く単語が3なら英語では、Three。頭文字はTでは?」
だが、実際に書かれているのは『B』だ。
「そうですね。だから僕も、そこで一旦、行き詰まったんです」
『One Two』ではないのか。他に当てはまる単語があるか。いや、そもそも、この考え方自体が間違っているのかもしれない。
「ここが一番の難所でした」
しばらくの間、判明した限りの文字たちと睨み合いをしていた新伍は、ふいに閃いた。
「マザーグースに、One Two Buckle my shoeという歌があります」
「歌?」
「数え歌です」
新伍は歌を紙に書いた。
One Two Buckle my shoe
Three, Four, Knock at the door
Five, Six, Pick up stick
Seven, Eight, Lay them straight
Nine, Ten, A big fat hen ……
「歌は二十まで続くのですが、ともかく、今回の暗号は、この歌に出てくるアルファベットの順に五十音順を当てはめていったものではないかと思ったのです」
試しに歌に従って順番にアルファベットと仮名を対応させていくと、他の手紙に書かれている内容もピタリとはまった。
Buckleの『e』のように、一度出てきたアルファベットは、飛ばしてあるようだ。
「鏡文字になっているのは、五十音の後半の文字。出てくるアルファベットの数が足りなくなって、苦肉の策で文字を反転させたのでしょう?」
新伍が確認すると、幸彦が目をまん丸にしたまま頷いた。
「そうです。僕は父の部屋の絵本で見つけて、それを使ったんです。意味はよく分からなかったけど……」
アルファベットの種類がたくさんあったから、暗号が作れないかと考えたらしい。
そして作った暗号を、親友と二人だけの秘密の言葉として、遊ぶ約束をするときに使っていた。
「あの長屋の板塀に書いたのは、入院している友人への励ましの言葉ですか?」
新伍が帳面に控えておいた壁の暗号を読解すると、『はやく いっしょに あそぼうね』になった。
最初の暗号も、似たような内容なのだろう。
「友人の名前は?」
「田之上完二。僕は完二に会いたかったけど、病院に行ってはいけないと父に言われたので……退屈をしているだろうなと思い、励ますつもりで書きました」
幸彦が「本当にごめんなさい」と殊勝に頭を下げる。
「書いた文字を消してくれていたのは、あの長屋に住む徳助さんというお爺さんです。後で、僕と一緒に徳助さんと差配人さんに謝りに行きましょう」
「……はい」
これで暗号の読解は完了だ。
「少尉、いかがでしょうか?」
視線を向けると、貢は険しい表情のまま頷いた。
「暗号については、分かりました。一つ気になる点は、五島さんは、どうして最初にこの暗号を子どもが書いたものだとわかったのかということです」
顎の下に指を添え、木箱の上に広げた手紙を睨んでいる。
「英語を書き慣れている大人は少ない。字にガタつきや拙さがあっても不自然ではありません。にも関わらず、貴方は手紙を一目見たときから、子どもが書いたものだと疑っていた。高輪祐一の弟妹について聞いたのも、そのせいでしょう? 貴方の口ぶりからすると、この少年に会ったのも書いているのを見たのも、今日が初めてのようなのに、どうして子どもが書いたのだと見抜いたのですか?」
「書かれた場所です」
新伍が壁を指差す。三文字だけ書かれたアルファベット。
「見てください、あの位置を。僕が散歩の途中で見つけた暗号も、同じ場所に書いてありました。この壁を消していた徳助さんは僕と同じくらいの身長です。その徳助さんが中腰で消していたのだから、間違いありません」
新伍は偶然、この暗号を見つけたときから、これを書いたのは子どもだと気づいていた。新伍の腰程の高さの位置に大人が文字を書こうとすると、身体を屈めないといけない。それならば子供が書いたと考えた方が自然だ。
だから、むしろ新伍は、貢が「国防に関わる事案だ」とこの暗号を持ち込んできたことに驚いた。
「僕は子どもの遊びだという前提を持っていたから、そこを出発点に仮定を積み上げたわけです」
「なるほど。よく分かりました」
新伍の説明に頷いた貢の眉間の皺が、「分かった」という言葉とは裏腹に一層深くなる。
「確かに、私のお願いした通り、五島さんは暗号を解いてくださった。ありがとうございました。ですが……どうやら私は貴方に、お手数だけをおかけしてしまったようだ。大変申し訳ない」
「なぜ少尉が謝るのですか?」
「国防に関わることだと騒ぎたて、五島さんのお力をお借りしたが、結局のところ、子どもの遊びだったわけでしょう? 高輪祐一がこれを持っていた理由は分かりかねますが、五島さんの時間を無用に割き、徒に労力をおかけしたことに変わりありません」
真っ直ぐに身体を起こした貢が、首を曲げて謝罪する。
「いいえ、謝る必要は何もありませんよ」
貢の謝罪を新伍が遮った。
「この暗号、僕は結構、楽しませていただきました。それに、お礼を言うのもまだ早いです。少尉から受けたご依頼は、終わっていません」
新伍も立ち上がって、袴の膝についま砂埃を払う。ポンポンと弾んだ軽い音がする。
「まだ、終わっていない……とは?」
「少尉のご要望は、高輪祐一たちを引きずりだすことだ、と仰ったでしょう? だから、高輪さんのお仲間は難しいですが、本人は呼び出しましたよ」
「呼び出した? どうやって?」
少尉の細い三白眼が少しだけ大きくなる。多分、驚愕している。
桜子が貢と初めて出会った頃、貢の無表情で仏頂面が怖いと言っていたのを思い出す。確かに新伍も、感情を読ませない人だと思っていた。
だが、こうして親しくなってみると、僅かな表情の変化を感じ取れるようになって、なかなかに面白い。
「それはですね……」
新伍は木箱の上から手紙の一つを取り上げ、貢の前で掲げてみせる。そして、イタズラが成功したときのように、あえて不敵に笑ってみせた。
「僕も、この暗号を使わせていただきました」
ショートストーリーはあと1話で終わりますが、少し休憩してから続編の長編を書くので、ステータスは「連載中」にしておきます。
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暗号読解講義のシーン、木箱の横に新伍と少年が座って、それを上から覗き込む少尉…という光景が結構お気に入りです。