第4話 やだ
――これ! ゼロ! また……! 食事の前にはお祈りを! どうしていつもお前は……! ――
――……へん。だって神様なんていないじゃん。いたら、なんでおれたちには父さんも母さんもいないんだ? ……【いなくなった】んだ? 教えてよ先生。……ほーら教えてくれない。な、みんな……! いないヤツに祈るなんて、おかしいったらないや! ――
――……ゼ、ゼロ! 待ちなさい……! 食事はここで……! どこへ行くの! ――
――神救院以外のどこかだよ! そしたらどこでもいい! 飯だって、こんなとこより、外のほうが、ずっとおいしいんだ! ……さあ、きょうはどこへ行こうかな……先生のパン、もらってくぜ! ――
――……ゼロ……! あっ……、も、森のほうへは、行っては駄目よ……! そこには魔獣が……、聞いているの、ゼロ! 夕方には戻ってくるのよ――……――
◇
◇
「……え。……――ねえ。……おきなよ」
「……。…………」
平たんな声が耳に、ちいさく温かな指が頬を押す感触で、俺は目覚める。真っ暗でほとんど見えなかったが、寝ころんだ俺の頭のそばに、ガキが……。ハーミルが座っているのは分かった。それでなぜ寝ていたのか、こんな状況なのかを思い出して、身を起こそうとしたが、全身の激痛でそれが叶わず、少しだけ持ち上げた頭を、再び落とし床を打つ。
「……洒落にならん。筋肉痛というよりも、全身打撲だろうが、もはや……。……クソ」
舌打ちして、息をはくと視線を感じた。……そういやコイツ、俺より先に目覚めたのなら、なぜ俺を殺さなかったんだ? あれほどブチ切れていたのに。さいしょに入ってきたときのように、落ち着いている。……どういうつもりだ。
「……あんた。かみさまをしんじていないの?」
「……なんだと?」
俺は声のほうに目を向けた。暗闇の中、ぼんやりとハーミルの姿が浮かび上がる。表情は分からなかったが、内股で尻をつき、ひざの上で指をいじっていたのが、なんとなく見えた。
「なにを言っているのかよく分からんが……。信じちゃいないな。教会に通わずに、神従女を平気で口説き、飯の前に祈らない程度には」
「ふーん。あたしはいのるけど、かみさまにいのってる【ふり】をしてる。ほんとうはおじいちゃんとおばあちゃんにありがとうって言ってるの。……だからかみさまをしんじてないのはおんなじ。あんたがさっき、ねたまま言ってたのと」
俺は顔をしかめた。寝言……? まったく記憶に……、いや、当たり前だが。なんでそんなものを……。なんの夢を見てたんだ。……って。
「……いま何時だ。どのくらい時間が経った」
「あたしがはいってきてから、とけいのはりがひとまわりした」
「お前……。見えるのか。あそこの時計が。この暗さで」
「ううん。なんとなく分かるだけ。でもたぶんあってる」
「そうか……」
俺は無理やり、身体を起こす。そして、震える指を一本立てて、詠唱した。
「……高遠なる天地よ。どうか我が手にひとときの力を。……炎人の悲しみよ、来たれ。――涙火」
人差し指が、ちいさな炎に染まる。その灯りによって、映し出されたハーミルの顔は、やはりさいしょに見たときと同じように、無表情だった。なにを考えているか、さっぱり分からんが……。いまは敵意はなさそうだ。
「悪いが、その辺に転がっている燭台……、ろうそくの台のことだ、それを一本……取って来てくれ。いまの俺は、年寄りよりも、動きがのろいんでね……」
「わかった」
即答して、立ち上がったハーミルが動き出そうとしたほうへ、俺は慌てて炎を向ける。幸い、少しばかり離れたところに燭台は転がっていて、俺の炎でちかちか光った。ハーミルはすぐにそれを拾ってきて、俺が言う前に、燭台に刺さったろうそくの先を、炎に近づけて火を移すと、そばに置いた。
「ありがとう。真っ暗では、話のひとつもしにくいんでな……」
俺は顔をしかめたまま、なんとかあぐらをかくと、ようやく落ち着いて息をはく。ハーミルはそんな俺の正面に、内股で座り、今度は指をいじらずに、ひざの上に手を置いていた。
目はまっすぐにこちらを見ている。神剣は……そばに置いていたが、柄をとおくにして、切っ先を自分に向けていた。それは、剣士においては、【戦う意思はない】ことを示すものだ。誰かに教わったのか、それとも本能か。しかし、これで話をする気があることは、分かった。
「……まずさいしょに。なぜ俺を殺さなかった。なにか言いたいことでもあったのか?」
「べつにない。ただ、あんたは【あくにん】じゃないっておもったから。それだけ」
「……なぜそんなことが分かる。俺はお前を殺そうとしたんだぞ」
「それはうそ。だってあのとき、あんたは、あたしをころせたのにころさなかった。なぐるときも、すごく手をぬいてた。それに、あたしをひざの上でねかせた。【あくにん】はそんなことしない」
淡々と返す。俺はわずかに目を泳がせたあと、言った。
「……俺がお前に話したかったのは。お前が【勇者】になりたくないように、俺もお前を【勇者】として引き取り、育てるつもりはないってことだ。それが【大賢者】の【使命】らしいがな。そんなのは俺が望んだものじゃない。……で、お前も【勇者】になりたくないのなら、いっしょに【とんずらこく】のはどうだって話さ」
「とんずらこく? ……なにそれ 王様とけんかをするってこと?」
「……違う。恐ろしいことを言うな。冗談じゃねえ」
「なんで? あたしとあんたなら、たぶんできるよ。【ちょっといたい】かもしれないけど……。だって、かてるわけないもん。王様のけらいの人たちなんかじゃ、【勇者】に。あんたはあたしにかったし……だからふたりだったらぜったいにかてるよ」
相変わらず、無表情で言う。……いくら馬鹿強いとはいえ、その自信はなんなんだ? いままでの話を聞く分には、おそらくもう、いくらか実践はこなしてはいるんだろうが……。せいぜいが村に来るっていうゴロツキどもだろ? それと俺。その程度の場数で、王国騎士団や魔術士団といった【極めつきの戦闘集団】のレベルが分かっているとは思えん。そもそも、国と敵対するという意味が。……今後のために言い含めておくか。
「自信があるのはけっこうだが。それは無理だ。王様自体はお前よりも弱いかもしれないが、そして騎士団や、魔術士団も……もしかしたら、お前よりも弱いかもしれないが。【国】がお前よりも弱いということは絶対にない。喧嘩が強いだけじゃ、国っていうのは倒せないんだよ」
「……じゃあ、【魔王】は? どうして【国】をほろぼせるの? 世界じゅうがほろぶんでしょ? このままじゃ、七ねんごにふっかつする【魔王】の力で。……【魔王】はけんかがつよいだけじゃないの? それになぜ、【勇者】ならなんとかできるの? あたしは【国】よりもよわいんでしょ? ……ねえ、おしえてよ」
気がつけば、身を乗り出して……どころか。ハーミルは俺のひざに手を置いて、俺に息がかかる距離で見上げて迫る。無表情で。……っとにガキってのは……。どうして? なぜ? じゃねえんだよ! 世の中ってのは、そういうものになってるんだよ! それに大人なんざ、なにも知らん、ただの【でかいガキ】でしかないことも、まるで分かっちゃいない。いつかの俺みたいに。……クソ。
「いいから下がれ! ……こっちにもまだ聞きたいことはある! お前、【魔王】の復活が七年後だといつ、どこで知った。それにその剣、どこで手に入れたんだ。なにより、自分が【勇者】だと知ったのは、いつのことだ。……きょうの儀式のことも」
「たぶん、生まれたときからしってた。【気づいたときには、もうぜんぶ分かってた】から。剣は、あたしが赤ちゃんのときに、いっしょに、村のちかくの山にすてられてたんだって。それをおじいちゃんが、あたしといっしょにひろってくれたの。あたしがにぎってはなさなかったから、しかたなく。……それから、おばあちゃんとそだててくれた」
俺のひざと自分のひざをくっつけて、こちらを見上げたまま言った。俺はその目を見たまま返す。
「お前の村の名は? ここまではどうやってきた」
「ビンデル。はしってきた。あさから。……おやしきには、くろいふくの人が、剣をみせたらいれてくれた」
「……。ちょっと、待て。話を整理する……」
俺は眉間を押さえて目を閉じる。クルスの記憶によれば、ビンデルというのは、ギペアから、ポメア(※馬のような動物)の引き車でも四時間くらいかかる場所にあるちいさな村だ。……そこから走って? 裸足で? 抜き身の重い剣を持って? 朝というのが日の出ごろだとすると、それからずっと、真昼間まで、子供の足で……。力だけでなく体力まで尋常じゃないのか。これはさぞかし、じいさんは畑仕事で楽をさせてもらってるのだろうな……。
それと黒い服の人、とは執事のヴィロー・シュクラのことか。おそらくアイツが、先代の執事からきょうの儀式のことをすべて任されていたのだろう。俺が聞いてもなにも答えんのだろうが。
ヴィロー・シュクラ。歳は三十。十年前、クルスが【大賢者】を襲名したのとほぼ同時期に、執事見習いとして従事し、五年前、先代執事ハス・デラスの引退を期に仕事を引き継ぐ。それからは屋敷の使用人を取りまとめ、【大賢者】の右腕として、屋敷のいっさいの仕事を任された男だ。
ここロウズ大陸の東の小国、アマラ出身の貴族であり、そこのメイシュン地方に伝わる伝統剣【ボル・ダクトス】の免許皆伝で、屋敷の使用人の中にふたりいる、達人クラスのうちのひとりだ。クルスの警護も、主にコイツが担っていた。まさに文武両道、冷静で頭の切れる男だが……。俺が【とんずらこく】際に、最も危険視している男でもあった。
俺はハーミルの裸足を、いま一度見やる。「走ってきた」という言葉を裏づけるように、土まみれの、汚れたままだ。あの細かいヴィローが、このまま屋敷に、大広間へも通したというのは……。ともかく【勇者】が来たらなにもせず通せ、と先代執事のハスから命じられていたのか、……【勇者】の得体が知れないから恐怖してか、あるいは儀式に差し障りがあると判断して、口出しできなかったのか。……どれにせよ、儀式まで接見、見聞を禁じられた【大賢者】の知りえない、【勇者】のことを知っているとみるのが妥当だろう。
「……『くろいふくの人』は、なにか言ってたか? 儀式についてお前にどうしろとか、終わったあとどうしろとか」
「ううん。ただこのへやのまえにつれてきてくれただけ。……ねえ、それで【とんずらこく】って、なんなの? ほんとうのいみは。おしえてよ」
気づくと、また俺のひざに両手を乗せて、身を乗り出していた。じっと目を見て。やはり無表情で。……俺はもうそれを押し返すのはやめて、しずかに言った。
「つまり……。逃げる、ってことだよ。なにもかもを捨てて。俺は【大賢者】を、お前は【勇者】を、そんな立場を放り投げて、逃げる。もちろんリスクはおおきいが、自由になるってのはそういうことだ。……が、しかし。【いっしょに】とは言ったが、じっさいに逃げるのは俺ひとりだ」
「なんで? あたしはにげなくていいの?」
「ああ。お前はただ、『【大賢者】様が逃げた!』と。いまから時計の針がもう一周するころに、外に出て……。さっきの『くろいふくの人』に言えばいい。俺は話がまとまり次第、すぐ床をぶち抜いて穴の道を作り、屋敷から脱出する。窓の結界を破れば、おそらく気づかれるからな。……床にはかかっていないから、窓際の床から、すぐそばの外までの穴を術式で作るくらいなら、なんとかなる。その後、俺は町から逃げ出すって寸法さ。要はお前には、時間稼ぎを頼みたいってことだよ。そうすれば、この【罪】は俺だけのものとなり、お前はなにも問われない。いままで通り、じいさんとばあさんといっしょに暮らしていける。……なにせ育てる男がいなくなったんだからな」
俺の言葉に、ハーミルは、ほんのわずか、眉をひそめた。俺はそれに構わず、続ける。
「古来からの言い伝えでは、親たる【大賢者】を失った【勇者】は、翼を生やすことなく雛のまま地に落ちる。つまりは【ふつうの人間になる】、ってことらしい。大昔に一度、そういうことがあったんだとさ。そのときは、【大賢者】が【勇者】を育てる途中で死んで、やむなくそうなったらしいんだが。その結果、世界は一度、魔王によって滅びたが……そんなことは、いまは絵本の話として流しておけばいい。今度も同じようになるとは限らんし。そもそもさいしょから、俺は、世界がどうなろうと知ったことじゃないからな。【ほんとうになってみてから】考えるさ。……まあそういう計画だよ。俺の話したかったのは。どうだ? 悪い話じゃないだろう」
「やだ」
即、言い放ってハーミルは横を向いた。ひそめた眉の度合いが、いよいよ強くなっている。俺は訝しげに言った。
「なにが不満なんだよ。もしかして疑ってるのか? 自分も罰せられると。片棒担いだと。……その心配は要らん。いかにお前にすごい才能があろうとも、現時点では、まだ雛どころか卵に過ぎないんだから。クエ~、ホゲ~とやかましくしたり悪知恵を働かせるのは親のファサ(※鳥の一種)のほうだからな。卵などなにもできん石ころに過ぎん。……ファサの小屋から親ファサが脱走したのを見たことないか? それで卵が逃がした! なんて言う阿呆がいるか? いたらソイツは、速攻で有名人になれるだろうよ。村どころか国中で。もちろん悪い意味でな。……分かったか?」
「分からない。やだ。だってそれじゃあ、あたしが、あんたにぜんぶおしつける【あくにん】になる。それはやだ。おじいちゃんにもおばあちゃんにもしかられる。あと世界がほろびるのもやだ。そしたら【国】もぜんぶなくなって、ビンデル村もなくなって、そこに住んでるみんなも、おじいちゃんとおばあちゃんもしんじゃうんでしょ? あたしも。……あたしは【勇者】になりたくないだけ。世界はほろんでほしくない」
と、口を曲げて、俺をにらみつけた。俺は頭を押さえてから、おおきくため息をついて言った。
「お・ま・え・なあ……。お前が【勇者】にならないってことは、そのまま世界の命運を放り出すってことなの! さっき自分で、このままだと七年後に【魔王】が世界を滅ぼすって言ってたろーがっ! もしかしてよく分かってなかったのか!? よもや【勇者】の代わりがいるとでも!? ……ったく、これだからガキは……! なーにが『やだ!』『やだ!』『やだ!』だ! なんでもかんでもテメーに都合よく物事がまわると思うなバーカっ! 世の中に、そんなうまい話はないんだよ!」
「あんたこそ、【大賢者】のくせにばか! ぜんぜんかしこくない! そんなの村にいる、おさけばっかりのんでるぺプラおじいだって言ってる! いつもあかいかおでふらふらして、『いいかぁ? 世の中、うまい話ってのはなあ、ねえんだぞぉ~。ハーミル、……聞いてるか? げふぅ』って! くさいいきはいて! ……あんたはぺプラおじいといっしょ! おおばか!」
「……なん・だとぉ……!?」
俺は頬をひくひくさせてハーミルを見返した。その【ぺプラじじい】、どう考えてもろくでなしじゃねーか! 確かに俺は【大賢者】なんかじゃねえが、そこまでひどくはねえんだよ! ……っとにこのガキだけは……! マジでなにも言うことを聞きやしねえ! てめえが納得しないことは、なにも……。……ちくしょうが。やっぱり【こっちの手】しかないのかよ……。
俺は、こちらをにらみつけるハーミルを見て、舌打ちした。まったくいつもいつも……。悪い意味じゃあ、【神】ってのは存在るって思わされるぜ。……――ほんとうにな。
「……おい、お前。ハーミル。お前は世界が滅んで欲しくはないんだよな? あと、じいさんとばあさんにもしかられたくないと」
「ほしくない。しかられたくない。でもこわいからじゃない。ふたりをがっかりさせたくないだけ。【あくにん】になったって」
「そうか。ならやっぱり【勇者】をやれ。んでもって七年後、【魔王】を倒して世界を救え。そうすりゃだれも死なないし、じいさんもばあさんも、しかるどころか誉めてくれらあ。涙ながらに喜んで。『……我が子の誉れ、きょうここに極まれり!』……ってな」
ハーミルは口を開け、目をおおきくし、無表情を崩した。俺は鼻で笑うと、続ける。
「いままで聞いた話から推察すると、お前、ふたりにはずっと、自分が【勇者】であることも、きょうここへ来ることも言ってないんだろ? もしじいさんやばあさんが、お前を山で拾ったとき、もしくはその後のある日に、【神】だなんだのお告げとやらを聞いて、お前が【勇者】の卵だってことや、将来の儀式のことを知ってたら、いかに家が貧しかろうとも、どんなことをしても――。きょうこの日のために、きちんとした身なりをさせて、路銀くらいためてお前に持たせるはずだ。ちょっと聞いた話だけでも、よくできた【親】のようだからな。……だが、お前は着の身着のまま走ってきた。朝というのは、日の出ごろと思ったが、正しくは、日の出前……ふたりがまだ起きる前のことだろう」
ハーミルはうつむいた。俺はその様子を見つめてから、言った。
「だいたいが、俺を殺して万事解決! ってな感じで『ご帰宅』するつもりだったようだからな。それで【勇者】のことはおしまいにして、ふたりの知ってる【ただのハーミル】として、お前は新しい日々を迎えるつもりだったはずだ。……そんなぶっそうな計画を、伝えてるわけがないし、そもそも心配かけたくないなら、【勇者】だなんて【使命】を背負ってることは……、なにも知らない【親】には、おくびにも出すはずがねえ。……ともかく、俺を殺す気がもうないんなら、じいさんばあさんをがっかりさせたくないのなら、そして世界が滅びるのが嫌ならば、……やれ。それしかお前の進む道はない。それにより、お前の【自由】は【ひとまず】失われるが、完全に消えるわけでもない」
ハーミルは顔を上げた。そして、自分を見据える俺を、まっすぐ見返すと、ちいさな口を開く。
「どういうこと? だって【勇者】になったら、もうこれから、あたしはずっと、七年ごにふっかつする【魔王】を倒すために、まいにち生きないといけないんでしょ? そんなの、いままでのせいかつじゃないし、たぶん、どうにもならないよ……」
「ああ。そうだな。【そういう話にはなってる】。だがまだ【じっさいにやったわけじゃない】。現実に、この手でやってなけりゃ、それはただの、頭の中だけの空想ごとだ。どんなに偉いヤツがほざこうがな。……やれば、抜け穴も見えてくるかもしれん。とにかくやらなきゃ、空想の世界に生きたまま、ずっと、その穴すら見つけられんってことさ」
「……。でも……。そしたらあんたはどうするの? にげたい、あたしをそだてたくないって言ってたのに」
「気が変わったんだよ。石頭のお前を口説くなら、【とりあえず】そっちのカードを示したほうが、なんとかなる可能性が高いと判断した。つまりは、【俺の自由】を得る方法を、思いつくまでの時間稼ぎだ。長期的計画のな。……だれも【魔王】を倒すまで付き合うとは言ってねえ。【俺の自由】を得られる抜け穴を見つけたら、即、【とんずらこく】。【お前の自由】は、それにつながる抜け穴は……お前自身が見つけ出せ。その時間の中でな」
俺は大時計がかかっているだろう高い壁を見る。果たして時計は、こんなわずかばかりの灯りじゃ見えなかったが……。俺が時を認識してようがいまいが、針は動いている。迷っているヒマなどない。広間の外では、ヴィローをはじめとして、すべての使用人たちが、この儀式の終わりと、新たな【勇者】の誕生を、いまかいまかと待ち続けている。世界のために。自分たちのために。……俺たちが犠牲になることを。おきれいな気持ちと言葉と態度で。だがソイツらを責める気にはならん。俺だって立場が同じならそうするさ。
ともあれ、すぐ背後には皆の期待いっぱい夢いっぱい、状況に余裕はないってことで、……ひとつの目の策が駄目ならば、ふたつ目の策をというだけのことだ。
第一策とは別の角度から、なんてのは生き残るための常套手段だからな。ここはあえて、俺がいちばん避けていた方向から【現実化る】。いまハーミルへ話したとおり、クルスの、【大賢者】の【使命】に乗って、それから逃れられないかどうかは……やってみなけりゃ分からない。博打といっしょだ。ただしこの場合、賭けはほぼ強制的で、負けて取り上げられるのは、財布じゃなくて人生だがな。……二度目の。
俺は息をはくと、ひざの上で拳をにぎる。気づけばハーミルは、そんな俺の手をじっと見ていた。そして、ぺち、ぺちと俺の拳を叩き始めると、俺を見上げた。
「……おもったより、気がながいんだね。ぺプラおじいは、すぐつくえをひっくりかえすのに。……がまんしてる手だ」
「……そのじじいと俺をいっしょにするのはや・め・ろ! 頭が痛くなる……!」
思い切り顔をしかめ、舌打ちして横を向く。だがハーミルは、そむけた俺の顔を、首をのばしてのぞき込んできた。また俺のヒザに手をついて、無表情で。だから……、そうやって森で見つけた面白動物みたいな目で見るな! クソ……! 確かにガキは苦手だったが、きょうほどそれを感じたことはないぜ!
「……うそは言ってない。ことばのまま。あたしをだまそうとしてない目だ。ごろつきとはちがう。……分かった。【勇者】になる」
その言葉が耳に入ったと同時に、ハーミルは俺のひざからどいた。俺はゆっくり振り返り、瞬く。
「即決だな。……いいのか? いちおう聞いておくが、俺の話をちゃんと理解してるんだろうな……」
「してる。【とりあえず】【勇者】になって、それからかんがえる、ってことでしょ? やってみないとわからないって。それは言われるまできづかなかった。畑しごとといっしょなんだなって。さくもつも、たねをまいてしばらくたつまで、どうなるかわからない。……だからよくわかった」
「……そうか。それはよかったが……。選択肢の公平を期すために言っておく。いまの俺はぼろぼろだ。さいしょみたく、まだぶっ殺して逃げる手もあるぞ」
「……あたしはごろつきでも【あくにん】でもない! そんなことはしない!」
と、脚を殴ってきた。――痛ぇ! ガ、ガキの力じゃねえだろうが……! 手加減も教えなきゃならんのかよ!
「お前、さいしょはぶっ殺しに来たんだろーがっ! だから言ったんだよ! お前も気が変わったってヤツか? ま、俺的には、それのほうが助かるんだがな……」
「さいしょのは、そうしないといけないって! それしかないとおもったから! ほんとうは、そんなことしたくなかったの! ふつうにかんがえたらわかるでしょ、ばか! ……【大賢者】なのにそんなこともわからないなんてやっぱりおおばか! こんどからあんたのこと、【ぺプラおじい2号】って呼ぶから!」
「……ふざけんな絶対にやめろっ!! 俺の名前はゼ……じゃなくてクルスだっ! ク・ル・スっ! ついでにもう【大賢者】と呼ぶのもやめろっ! 賢いだ馬鹿だと胸クソ悪ぃ! だから、ただのクルス・だ! ……分かったな!?」
思い切り指差して怒鳴る。するとハーミルは、しばらくそのちいさな口を閉じたあと、言った。「やだ」と。……こ、このガキ……。
「お・ま・え・な・ぁ~……。だったらなんだ? 【ぺプラおじい3号】か? ……ふざけんじゃねえぞ絶っっ対に拒否するからなっ! いーから黙ってクルスと呼べっ!!」
「だからやだ。よくかんがえたら、あんたは、けいやくしたら『おとうさん』になるんだった。おとうさんのことをなまえでよんでる子はいない。そんなのはなまいきで、おこられるから。……村の子はみんな、『おとうさん』とか『とうさん』とか、『おやじ』とか『おっとう』とか『ぱぱ』とかよんでる。……たまにくるえらそうなひとの子は、『ちちうえ』とか言ってるのもきいた。……だからそのどれかにする」
と、ちいさな指を折り始めた。どれにしようかな……とつぶやいて。……やっぱりガキだ。っていうか、じいさんが父親みたいなもんだろうに。そのじいさんを差し置いて、とつぜん現れた赤の他人の俺をそう呼ぶのに抵抗はないのかよ。俺だったら呼ばないがな。いくら世話になっても。……を、母さん、なんて呼びもしなかったしな……。
「……決めた。【おとうさん】にする。これならおじいちゃんやおばあちゃんにもしかられない。『お』がついてて、じょうひんだから」
「あっそう。まあ好きにしろよ……」
俺は疲れ切った声で、返した。するとハーミルは、「おとうさんも、おじいちゃんとおばあちゃんのまえではじょうひんにして。げひんなのはおこられるから」とぱんぱんひざを叩いてくる。今度は痛くないが、なんてうっとうしい。この物怖じしない性格は、たぶん強さに頼んでるわけじゃねえな、コイツの場合……。どんなふうに生まれても、こんな感じだったように思える。
しかし、じいさんとばあさんね。果たして子供のこの事態を、どう受け止めるのやら。さっきの感じじゃ、ハーミルは俺と引き合わせるつもり満々だったしな。なら説明をヴィローに丸投げするわけにもいかんだろう。はあ……。
俺は深くため息をついたあと、頭をかいて気持ちを切り替える。……先のことは先任せ。いまはいまのことだ。――……やるべきことをさっさとやるか。
「……はい、離れろ! 話は無事にまとまった! なら次にしなきゃならんことは、なにか分かってるんだろう? そのやり方も、【ぜんぶわかってる】と助かるんだが」
「うん。わかってる。あそこにたてばいいんでしょ?」
ハーミルは、こちらの灯りでぼんやりとだけ見える、青い円絨毯の北端に置かれた、四角の赤布を指し示す。……ま、納得したことに関しては、のみ込みや行動は早いからな、コイツは。そうじゃなきゃ、いままでみたくさんざんな苦労を強いられることになるが。……それも祈っておくか【神】に。
俺はハーミルの肩を叩くと、赤布へ行くように促した。それからあぐらを解き、生まれたてのヴァーク(※鹿のような動物)のように、震える脚でゆっくりと立ち上がると、動かすたびに痛みで顔をゆがめながら、一歩、また一歩と円絨毯へと近づく。そして――。
「……高遠なる天地よ。どうか我が手にひとときの力を。……炎人の悲しみよ、来たれ。――涙火」
と唱えて、指先に再び炎を宿すと、消えたろうそくへ、一本、また一本と灯りをともしてゆく。そうしてまた、元のように円絨毯を囲む灯りが戻る。一本は、ハーミルが叩き斬り、俺が術式剣をこしらえたため、駄目になっていたので、足りないが……。【しょせんはただの飾りだよ。気分を盛り上げるための――】……というのは。クルスの、生前の儀式に対する見解だ。【根っこが同じ人間】ね……。少なくとも、じっさい主義なのは、そうなのかもしれないな……。
ハーミルは、俺に言われたとおり、黙って赤布の上に立っていた。俺は円絨毯に足を踏み入れ、ゆっくりとヤツのそばへ近づいてゆく。そして、引きずり歩きで、ところどころ絨毯にシワをつけながらも、なんとかその眼前へ立つことが叶う。
それで、おおきく息をはくと、――ハーミルにひざまずいた。
「……これから俺が、言うことは、やることは。この、【勇者】と【大賢者】の契約儀式のための文句と行為に過ぎない。つまりは建前ってヤツだ。……そのことをよく覚えておけよ」
「【たてまえ】ってなに? うそってこと?」
「……うそだがうそじゃない。ほんとうでもないが……。要は術式を唱える言葉と同じで、物事を円滑に進めるための……、クソ。……もういい。言葉じゃなくて、俺の目だけを見ろ。それでなにがうそで、なにがほんとうなのか……。お前の心で感じ取れ。……分かったな?」
「うん。よくわかった」
ハーミルがそう言って、俺は安堵の息をつく。……うそ、だなんて気軽に言って、どうも【うそ嫌い】だろうヤツに、またへそを曲げられたら困ると思って、こうは言ったが……。まあなるようになれだ。もはや契約すること自体に異議申し立てはない。つまり、そういう意味では俺の気持ちにうそはないってことだからな。……腹を立てられることもないだろう。
俺は目を閉じる。そして、身体を流れる魔力に意識を集中した。するとほどなく全身が発光し、その光は……、最終的に俺の両手のひらに集まって、神々しい輝きを放つ。その手で、俺はハーミルのちいさな両手の指をつかんだ。……光が、ハーミルの体に伝わって、包んでゆく――。
「……我が魔力は、すべてあなたのため。我が身と心は、すべてあなたのもの。これを口にするはすべて、あなたと、六人の【天徒】とともに、皆で【魔王】を滅する日のため。きょうこのときをもって、私の生は、そのために捧ぐことを宣言する。天地に誓って。【勇者】よ――」
俺は、ハーミルの目を見つめる。ハーミルも俺を見つめ返した。相変わらずの無表情だったが、やがて、その全身が戦いのときのように虹光を帯び、それが虹炎へと変化して、俺の光と交わったとき。ハーミルは、はじめて俺に向けて、笑い……、ふたつの光が四方へ弾け、大広間全体を包んでなにも見えなくなった次の瞬間――、身体中を無数のなにかが通り抜けてゆき、俺はハーミルと、最も深いところで――……【混じった】。
「…………。……」
気がつくと、光は消えて、元のように、ろうそくの炎は揺れている。しずかでほの暗い広間へと戻っていた。だが、目の前に立つハーミルの額には――。ちいさな、赤い円が描かれており、俺は顔をしかめてなんとか立ち上がると、無表情で立つハーミルに言った。
「お前、その額……。赤い、丸いヤツ。元からそんなもの、なかったよな……?」
「ない。そんなのあるの? ……おとうさんのおでこにも、できてる」
自分の額に触れながら、俺を指さして答える。俺は思わず額に触れた。……出っ張っているわけじゃないから、インクで描かれたような、手製のアザのような感じか。これはクルスの知識にないが……どういうことだ。儀式完了の証だよな、ただの……。
「ほかに、とくに変わったことはないか? 体とか、気持ちとか」
「とくにない。だけど、なんだか、まえよりもいいかんじ」
ぴょん、ぴょんとその場で跳ねて、自身の体を確かめる。だがそれをやめたとたん、ぐぅぅ……と、ハーミルの腹が鳴る。俺が見やると、ほんのわずかに赤くなってうつむいた。そりゃ、減るよな……。朝からここまで走って来たんじゃ。ま、こういう素直な反応は、ガキらしくていいか。
「さて。どうやら儀式は無事に終わったようだから、ここを出て飯にするか。……儀式がいつ終わるか、はっきり分かってなかった以上、いまはなにも用意されてないだろうが。大仰な飯じゃなきゃ、すぐにだれかが作って出してくれるだろ。……なにか食いたいものでもあるか?」
「なんでも食べる。畑にしつれいだから。でもヴォーミヤット(※卵雑炊のようなもの)がいちばんすき。……できる?」
「できるだろうな。できるだろうが……。果たしてそれを食わしてくれるかどうか。【勇者】様に。アイツらが。……くれなきゃ俺が作ってやるよ」
「おとうさん、つくれるの? どうみても、りょうりなんてしたことないかおなのに。すごい!」
「ほめられても、いろんな意味で、ぜんっぜん嬉しくねえ……。……ほら行くぞ!」
俺は舌打ちして、ハーミルの肩を叩いたあと、踵を返して歩き出す。が、全身の痛みにより、やはり老人のごとく歩みで、「はやく! はやく! つくって! やくそくした! ……はやく!」と、信じられない力でハーミルに引っ張られるハメとなり、いよいよ激烈な痛みとともに、強制的に絨毯から連れ出される。そして、半泣きでまた、ハーミルに促されるようにして、俺はドアに手をつくと、ふたりで重いドアを押し開け……ようやく。
……俺たちは薄暗い大広間から出て、並んで光の中へ一歩、踏み出した。