わたしの音
桜の花びらが、目の前で踊るように舞い落ちる。ピンクの絨毯が敷かれた遊歩道を、私は歩いていた。
私は散歩が好きだ。
自由に知らない道を選んで、あてもなく歩くのが冒険しているみたいで楽しい。
私は中学生二年生で、土曜日は合唱部の練習があるけれど、日曜日はフリーなので、朝から晩までお出かけして、好きな事をする。
今日は家から少し離れた駅に行ってみた。
駅の構内にあるアクセサリーのお店を見て回ってから、今流行りのサンドイッチのお店で「クリームチーズとハムサンド」を買った。
近くにある小さな公園のベンチに座って、サンドイッチを食べる。美味しい。
やる事もなくなって、私はぶらぶらお散歩をすることにした。
散歩をしていると、いろいろなことが頭に浮かぶ。
合唱で褒められた。嬉しかったけど、顧問の先生に特別なソロパートを振り分けられて、ちょっと嫌だった。
もっと練習しなきゃいけないし、プレッシャーもある。ピアノとバイオリンのコンクールも近いし、毎日レッスン三昧だ。
お父さんは有名な独奏者で、両親は私に才能があると思って一人娘の私に期待している。
昨日は上手く弾けなくて、怒られてしまった。
音楽は好きなはずだけど、最近よく分からなくなる時がある。
私、これで良いのかな。
いつの間にか私は、大きな道から小さな道に入っていた。
閑静な住宅地がある。
私は曲がりくねった、一方通行の道を進んだ。
たぶん行き止まりで引き返すことになるだろうけど、奥に何があるのか、確認したい気持ちが私を急かした。
どうしてか、私は走った。
走っていると、ドキドキして、呼吸が苦しい。今の心のモヤモヤした気持ちを絞り出すように、息を切らせて走り続けた。
ついに行き止まりになった。
最奥には、木造りの、小さなカフェがあった。
近づいて私はよく見てみた。
看板に書いてある、カフェの名前は
「identity」
この英単語、見たことがある。
読み方は確か「アイデンティティ」
どんな意味だったっけ。
でも、すごくオシャレな感じがする。
私はお店の名前も、とても気に入った。
私は思い切って、カフェに入ってみた。
店内に入ると、チリン、と扉に付いた鈴が鳴った。
温かみのある、胡桃色の木の床が小さく軋む。
よもぎ色のエプロンを付けているお爺さんがやって来て、柔らかい笑顔と共に「いらっしゃいませ」と、私を出迎えてくれた。
お爺さんは「お好きな席にお座り下さい」と言ってくれたので、私は迷わず窓際の席に座った。
木目の入った、良い木の香りがするテーブルだった。
窓はカラフルなステンドグラスになっている。小さな天使が描かれている。
机に虹色の陽光が落ちていた。
絵の具のパレットみたいだ。
私はそっと、机に落ちた七色の光に触れる。
温かい。
お爺さんが再びやって来て、メニューを渡してくれた。
私は少し勇気をだして、聞いてみる。
「おすすめはありますか?」
お爺さんはにこやかに答えてくれた。
「そうですね、期間限定で、「桜カプチーノ」というものがあります。桜の仄かな甘みと、香り豊かなカプチーノです」
「じゃあ、それでお願いします」
少しして、桜カプチーノが運ばれて来た。
カプチーノの表面に、綺麗なさくらの花びらが二枚乗っている。
私は一口飲んで、驚いた。
甘くて、良い香りで、後味がほんの少ししょっぱい。
しばらく私は「桜味」を堪能した。
店内はとても静かで、居るのは私一人だと思っていたけれど、よく見ると、もう一人、お客さんがいた。
若い大人の女性だ。
私と反対側の、窓辺の席に座っていた。
窓から差す光の加減で、少し見えにくい。
女性は肩までのボブカットで、とても華奢だった。目鼻立ちのハッキリした美人で、私の目指す、理想的な「大人な女性」だ。
洋服もオシャレで可愛い。
着ているベージュのワンピースは、どこのお店の物だろう。
その女性は飲み物を飲み終えた後、イヤフォンをして、書き物を始めた。
綺麗な女の人は、不思議なことをしていた。
目を閉じて、何もせずに音楽を聴いた後、スマートフォンの音楽を止めて、ペンを走らせる。それが終わると、また音楽のスイッチを入れて、目を閉じて音楽を聴く。
それをずっと繰り返しているので、私は、女性が何を書いているのか気になった。
勉強でもなさそう。お仕事?
でも、いったいどんな?
私はトイレに行くフリをして、通り過ぎる瞬間に、素早く視線を走らせた。
私はとても驚いた。
なんと、女性は楽譜を書いていたのだ。
全部、手書きだ。
私は気付けば足を止めていた。
女性は不思議に思ったのか、イヤフォンをとって私を見上げる。
目が合う。
女性は私を見て、なぜか私よりも驚いたように目を大きくした。
私は慌てて言った。
「あ、すみません、お邪魔しました」
「待って」
私は引き止められて、女性を見る。
「あなた、目が良いのね」
「目?ですか?」
女性はじっと私を見て、何故か少し意地悪そうに、小首を傾げてたずねてきた。
「楽譜、気になる?」
好奇心に押されて、私はうなずいていた。
「はい、気になります」
女性は嬉しそうに笑って言った。
「じゃあ、相席しましょ。こっち、おいでよ」
私は女性側の、陽だまりの座席に移った。
女性と向かい合って座る。
窓から差し込む光は、思ったほど強くはなくて、眩しくく無かった。それが少し、不思議に思えた。
女性は説明してくれた。
「私は音楽教室の先生をしているの。それで、アンサンブルの発表会に向けて、それぞれの楽譜を書き起こしていたのよ」
「アンサンブルって何ですか?」
「オーケストラの小さい番、って感じかな」
「へぇ!楽譜を書き起こすなんて、凄いですね」
「そんな事ないわよ」
今の時代、けっこうプリントされている気がするけど、自分で書きたいって事なのかな。
そんな疑問を見透かしたように、女性は答えてくれた。
「生徒は20人くらいで、みんなそれぞれ個性があるの。堂々と力強いメロディーを弾ける子や、リズム感の優れた子、縁の下の力持ちで、和音のアルトパートやベースが得意な子もいる。だから、売られている楽譜の通りではなく、バランス良く音を振り分けたいの」
「なるほど。すごいです」
女性は「ありがとう」とニコリと笑む。
「ここはすごく静かだし、私もリラックスして、作りたい音をイメージ出来るのよ」
「良いカフェですよね」
「ええ。あなたは音楽が好きなの?」
「はい」
答えて少し驚いた。
私はやっぱり、音楽が好きなのか。
女性は優しくたずねてきた。
「何かお稽古をしているの?」
「はい。ピアノとバイオリンとフルートを習ってます。部活では合唱部をしています」
「あら、あなたの方が凄いじゃない、三つも出来ちゃうの?」
「父が音楽家なんです。ちゃんと習ってはいませんが、ギターも出来ます」
「凄いわ、あなたの音楽、聞いてみたいな」
女性はマシュマロみたいな白い頬をキュッとして笑う。
「名前はなんていうの?」
「海野凛花です。あの、お名前、教えて下さい」
女性は嬉しそうに微笑んで答えた。
「サナ。サナって呼んで」
「はい、サナさん」
そのあと、たわいない話をした。
どんな音楽が好きなのか、おすすめの曲、何歳なのか、好きな飲み物や食べ物の話‥‥
あっという間に時間は過ぎて、4時になっていた。
「あ!私、門限5時なんです。もう帰らなきゃ」
部活と塾以外で帰りが遅くなると、怒られてしまう。心配してるのは分かるけど、私はもう中学生なのに、過保護過ぎる。
サナさんは、少しさみしそうな顔をして言った。
「もう帰っちゃうの?」
「はい‥‥」
私がどう答えようか困っていると、サナさんは言った。
「また来週、同じ時間に待っているわ。もし良かったら、また会いに来てよ」
ちょっと迷ったが、私はうなずいた。
サナさんと話すのは、とても楽しい時間だった。
また会いたい。
「でも、一応すれ違いになったら迷惑かけちゃうので、チャットを交換してもらっても良いですか?」
女性は眉を下げて言った。
「ごめんね、私携帯を持っていないの」
「え?」
机の上を見ると、音楽を聞いていたのは、昔流行った、ウィークマンの音楽専用の機械だった。懐かしい。
サナさんは言った。
「私は楽譜を書き起こさなきゃいけないから、しばらくカフェにいるわ。凛花ちゃんは自由に来て」
どうしようもないので、私はうなずいた。
「はい」
♪
帰ってきて、私はピアノの椅子に座る。
鍵盤に向き合う。
普段ならすぐに準備運動で指運動の曲を弾くけれど、今日はなんとなく、違う気分だった。
自然と指が、いつもとは違う音楽を紡ぎ出す。
ト長調のメヌエット。
教会で小さな子供が純粋な祈りを捧げているような、優しい純然なメロディー。
とてもシンプルで簡単な曲だけど、だからこそ、素直な気持ちを乗せやすい。
私の本当の気持ちは‥‥
その時、ガチャリと扉が開いて父親がピアノの部屋に入ってきた。
父親は憮然と言った。
「コンクールの曲を聞かせなさい」
「‥‥」
「メヌエットなんて弾いていないで、ちゃんと練習しなさい。昨日の課題は克服したのか」
「‥‥イヤ。弾きたくない」
私は椅子から降りた。
父親が私の腕を掴む。
なにかが私の中で振り切れた。
私は腕を振り払って、怒鳴っていた。
「ほっといて!!」
部屋に引きこもった。
お父さんのこと、嫌いじゃないけど、昔の方が好きだった。一緒に連弾して、歌って、それだけで私、十分なのに。
なんでそんなに必死になる訳?
私は気付けば、ペンを取り、五線譜に今の気持ちを綴っていた。
ロ短調のメヌエット。
メヌエットとは本来、宮廷舞曲だ。
お姫様は、嫌いな王子とダンスを踊らされる。
可哀想なお姫様。
頭の中でメロディーが浮かぶ。
音符に想いをぶつけるように、白い五線譜に書きなぐる。
感情を吐き出すと、少しだけ楽になれた。
♪
日曜日になり、私は約束通り、カフェに向かった。
この前と同じように、お爺さんは私を迎えてくれた。
よく見ると、胸ポケットの所に「店長」というバッチが付いていた。
お爺さんは店長らしい。
窓際の奥の席に、サナさんが座っていた。
今日はチョコレート色のワンピースを着ている。
サナさんは私に気がつき、ニコニコ笑って手を振った。
私も嬉しくなって手を振り返し、サナさんの向かいの席に座った。
「こんにちは!」
「こんにちは、来てくれたのね、嬉しいわ」
「私も嬉しいです」
私はサナさんの空のカップを見てたずねた。
「今日は何を飲んでいたんですか?」
「抹茶ラテ。このお店では、採れたての茶葉を石臼で挽いてあるから、すごく香りと風味が良いの。とっても美味しかったわ」
「じゃあ、私もそれにしようかな」
抹茶ラテを飲みながら、少し話をした。
「今日はとても良い天気ね」
「はい。歩いてくると、風が温かくて、春を感じました。だから思い切って、七分丈のシャツにしました」
サナさんは私のシャツを見て言う。
「あ、音符の柄じゃない。カワイイ」
「えへへ、そうなんです」
何だか素直に自分の気持ちを聞いてもらいたくなった。
「サナさん、あの、相談乗ってもらっても良いですか?」
「私で良ければ力になるわ」
私は少しずつ説明した。
サナさんは聞き上手で、じっくり私の話を聞いてくれた。
「そうなんだ」
「はい。パパもママも、私に期待するんです。でも私、プロにはなれないって心の何処かで思ってて、実際、いざ想像すると、そんなになりたい訳でもない気がして、分からないっていうか」
「なるほどね」
「はい」
私はカップの底に残っていた抹茶を飲み干した。
サナさんは言った。
「私もね、昔は凛花ちゃんと同じように、プロを目指して音楽大学まで行ったんだ。でも色々上手くいかなくて、この道を試しに行ってみたら、割と性に合ってたんだ。きっと自分の道は、自分で探していくしかないのよ」
「自分の道ですか」
「そう。凛花ちゃんはどうなりたいと思う?やりたいことはどんな事かな?」
問われて、私は考える。
「コンクールとかは嫌です。でも、音楽は好きで、歌うのも好きで‥‥」
私は口を閉ざした。
サナさんは首を傾げて優しく言う。
「言いたくないことは、言わなくてもいいのよ?」
私は勇気を出して言ってみた。
「あの、私、たまに音楽を作っていて、でも、すごくしょぼいやつなんですけど‥‥それはやりたいっていうか‥」
私の言葉はどんどん尻すぼみになる。
サナさんは目を輝かせて言った。
「作曲なんて、すごいじゃない!」
凛花は顔の前で手を振った。
「全然です!全然なんです!作曲って言えるほどじゃないし、誰にもそんな事言ってないし」
「秘密なんだ」
私はうなずいた。
「自信がなくて。恥ずかしくて‥」
「そうなんだ」
「はい」
「でも、私は凛花ちゃんの曲、聴きたいな」
「そうですか?そんなに良いものじゃないっていうか‥」
「誰にも聞いてもらった事ないんでしょう?凛花ちゃんにとってはそう思えても、私が聞いたら違うかもしれないし、私は凛花ちゃんの曲を聞いてみたい。凛花ちゃんの事、もっと知りたいな」
真っ直ぐに言われて、気持ちが揺らいだ。
「‥‥そんなに言ってくれるなら、考えます」
「うん、いつか聴かせて」
「はい」
サナさんはにこやかに微笑んで、言った。
「私の夢はね、みんなを笑顔にすることなの。音楽の楽しさを、もっといろんな人に知ってほしいし、音楽で人の心を動かしたい。震わせたい」
「素敵な夢ですね」
「まだ夢の途中なの。やりたい事がいっぱいあるんだ。生徒にもレッスンを通してみんなでアンサンブルする楽しさを知ってほしいし、発表会で聴きに来た人も、楽しくなって欲しい」
夢を語るサナさんは、とても生き生きとして見えた。
♪
練習が終わってから、私は楽譜を片手に、鍵盤で音を試しながら曲を作り出した。
誰かに聞かせる音楽と、自分の感情を吐き出す音楽は全く違う。
サナさんには、私の丁寧な音を届けたい。
そんな一心で毎日少しずつ作った。
とても短い曲だけど、起伏のハッキリした短編小説みたいな歌になった。
日曜日。
私は、少し緊張しながら、楽譜をサナさんに見せた。
サナさんは驚きに目を大きくした。
「すごいわ!作ってきてくれたの?」
「はい。スマホで録音したものがあるので、聴きますか?」
「うん!聴きたいな!」
スマートフォンにイヤフォンを繋ぎ、そのイヤフォンをサナさんに渡す。サナさんは耳にイヤフォンをさして、目を閉じて音楽を聴いてくれた。
少しして、サナさんはパッと顔を上げた。イヤフォンを耳から抜くと、花が咲いたような笑顔で褒めてくれた。
「すごく素敵な曲。凛花ちゃんらしいわ。自由で力強くて、でも可愛い部分もあって、まるで一冊の本を読んでいるみたい。緩急があって、面白い。凛花ちゃん、センスあると思う。私、音楽学校で作曲もしたけど、同じものは作れないわ」
その瞬間、胸の底から、湧き上がるように嬉しさが溢れてきた。
自分の作ったものが評価されて、褒められると、こんなに嬉しくなるなんて!
サナさんは続けて言う。
「作曲って、どうしても似通ったりする事が多いけど、凛花ちゃんのものは個性がある。本当に、少しやってみたら?」
「はい!」
作ろう、と思った瞬間、身体に絡まっていた重い鎖が断ち切れた気がした。
ポンポン音が浮かんでくる。
自信がなくて、そんなの出来るはず無いって思っていて、無理に決まっているし、何より皆んなに笑われるんじゃないかって、自分はずっと恥ずかしがっていた。
サナさんは言った。
「本当にやりたい事は一番自分が知ってる。凛花ちゃんはまだ若いし、周りからどう思われるかなんて気にしないで、音楽を作れば良いのよ。それに、作曲は凄いことよ。恥ずかしくなんてないわ。自信を持って」
私はなぜか、涙が出そうになった。
サナさんは隣に来て、私を抱きしめてくれた。
「頑張ってきたのね」
サナさんはそっとたずねてきた。
「ご両親とは、その後どう?」
私は首を振った。
思わず言った。
「昔みたいに、パパとママと楽しく音楽がしたいだけなのに」
「それ、ちゃんと言葉で伝えたことある?」
「‥‥伝えてないです」
「やってみたら?もしかしたらお父さんも同じ気持ちかもよ?」
「お父さんも?」
「うん」
「‥‥話してみます」
「うん。偉いね」
♪
夕食が終わって、父親が仕事部屋に戻る前に、私は声をかけた。
「パパ」
父親が振り返る。
私は脳内でサナさんの声を再生し、自分を励ましながら、言った。
「パパ、この前はごめんなさい。私ピアノが嫌いになったわけじゃなくて、最近いろんな事が大変で、いっぱいいっぱいだっただけなの。だから‥‥コンクールはちゃんとやるから安心して」
父親は一歩近づき、口を開いた。
「凛花に、私と同じ道を歩ませたかった。凛花には才能があるし、私は今とても楽しい。凛花にもプロの道は合っていると思ったし、凛花と一緒に仕事が出来るなら、それほど楽しい事はないと、思っていたりした」
予想外の答えに、私は呆然としてしまった。
「え?」
「ママに怒られたよ。それは俺のエゴだって。凛花のやりたいことをやらせてあげるのが親の役目だ。ママとそれを再確認した。俺も反省した」
父親は続けて言った。
「それに、ト長調のメヌエット、とても良かった。凛花は私よりも、純真に音楽を愛しているようだ」
父親は難しい顔をして、黙り込んだ。
凛花は苦笑して言った。
「お父さん、考えすぎじゃない?」
「‥‥」
「私、昔みたいにお父さんと連弾したり、歌ったりしたいだけだったの。コンクールが嫌っていうか、それでお父さんが厳しくなるのが、辛かったの」
「そうか」
「うん」
「無理を強いてすまなかった。お前のペースでやれば良い。歌や連弾は‥‥また、今度やろう」
「うん!!」
お父さんは恥ずかしくなったのか、それだけ言うと部屋を出て行った。
♪
日曜日。
私は心の中でスキップしながら、カフェに向かった。
サナさんはいつも通り、奥の窓際の席にいる。
私は父親と仲直りできたことを開口一番、サナさんに伝えた。
「良かったじゃない」
「はい!サナさんのおかげです」
「凛花ちゃんが頑張ったからよ」
「サナさんの言葉を思い出して頑張れました」
サナさんと笑い合う。
飲み物を飲んで、おしゃべりをして、私は言った。
「ふふ、なんか、サナさんといると、気持ちがト長調になるみたい」
「どういうこと?」
サナさんは笑う。
私は手を広げて表現した。
「ソの音が中心の、自由な、羽を伸ばしたみたいな気持ちです!ト長調の曲は、ぜんぶしなやかで、元気でしょう?」
「なるほどね、なら私も、ト長調の気持ちよ」
「サナさんも?」
「ええ。凛花ちゃんといると、楽しいもの」
私は嬉しくなって、思い出を残したくなった。
スマートフォンを取り出して言った。
「ね、サナさん、写真撮ろ」
「だめ。私が凛花ちゃんを撮ってあげる」
「えー!何でですか」
頑なに拒むので、私は諦めて、サナさんに私の写真のアルバムを見せてあげることにした。
「これはね、私が幼稚園の頃の写真なんです。入園式のやつ」
「あら!可愛いわねぇ。今は昔の写真も携帯に移せるんだ」
「そうですよ!サナさん、いつの時代の人ですか!」
「えー、私、機械音痴なんだもの」
「私が教えてあげます。スマホ、買った方が良いですよ、紙とペンが無くてもメモ出来るし、サナさんの仕事なら尚更、携帯は便利だと思いますよ」
「そうかしら?」
「間違いないです。断言できます」
お喋りをしているうちに、もう4時を過ぎてしまった。
「あ、もう時間だ」
サナさんはシンプルな白いクリアファイルに楽譜を入れて、私に差し出した。
「今日は素敵な曲をくれたから、お返しにこの楽譜をあげる。アンサンブルの中でも主旋律で、私が気に入ってる部分よ」
「いいんですか?」
「うん」
「やったー!ありがとうございます」
家に帰ってその楽譜を見ると、真っ白で何も書いていなかった。
やだ、私もサナさんも、おっちょこちょいね。
私はその綺麗な五線譜にメロディーを書くことにした。
鼻歌で歌いながら、音符を線に乗せていく。
今の気分はドが中心の、ハ長調。
ちょっと落ち着いた、元気でおだやかで、明るい気持ち。
♪
その日は雨が降っていた。
私はお気に入りの音符が散ったデザインの傘を広げて家を出た。
カフェに着くと、いつものお爺さんは出てこなかった。
私は不思議に思いながら、店内を覗く。
薄暗い。電気がついていない。
まさか休み?
でも鍵開いてるのはおかしいよね。
もしかして、お爺さんに何かあったとか?
私は急いで店内を見回し、驚いた。
いつもの場所にサナさんはいた。
俯いて、全身ずぶ濡れだ。
私は急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
サナさんはこちらを見ると、弱々しく笑った。
萎れてしまった花みたいで、急に不安になる。
「大丈夫、驚かせちゃって、ごめんね」
「いえ」
私は鞄からハンカチを出して、サナさんに差し出した。
サナさんは何故か首を振る。
私はハンカチでサナさんの頬を拭った。
「風邪、引いちゃいますよ」
カップのソーサーに掛かった細い指先から、赤く血が出ているのに気がついた。ほんの少しだけど、音楽の先生だったら指の怪我は大事にしないといけない。
私は鞄から絆創膏を取り出して、サナさんに差し出した。
「使って下さい」
「大丈夫よ、ありがとう」
「なんにも大丈夫じゃないですよ、手、みせて下さい」
私は白くて長い指の切り傷に、絆創膏を貼ってあげた。
サナさんが呟く。
「‥‥可愛い」
鍵盤の柄が入っている、お気に入りの絆創膏だ。
「遠くの薬局屋さんにしか売ってないんです。だからあんまり使わないけど、今日はトクベツです」
サナさんは微笑んで、か弱い声で言った。
「嬉しい。ありがとう」
私はそっとたずねてみた。
「なにか、あったんですか?」
「大丈夫、何でもないよ」
心配しないで、という風にサナさんは私を見る。
今度は私がサナさんを助ける番だ。
私はサナさんの向かいの席に座り、言った。
「サナさんは前に、人の心を震わせたいって言っていましたよね。最近、私も曲を作っていて、同じ気持ちになったんです。みんなに聞いてもらって、何か思って欲しい。感動して欲しい。楽しい気持ちになって欲しいって」
「うん」
「その隠れてた気持ちがハッキリ分かったのは、サナさんのおかげです。サナさんが背中を押してくれたから、頑張ってみたいって思いました。だから‥‥サナさんは沢山の人の気持ちを動かしていますよ。生徒さんも、私だって、サナさんに会えて本当に良かったと思っています。自信を持って下さい」
「‥ほんと?」
小さな子供のように、サナさんは問う。
私は深くうなずいた。
「はい」
サナさんは少し明るい顔で言った。
「心を震わせる音楽、凛花ちゃんなら作れる気がする」
「そうですか?」
「うん。凛花ちゃんも、私の夢と一緒だね、頑張ってね」
私は笑ってうなずいた。
「はい!頑張りますね!お互いに頑張りましょう」
いつの間にか、ステンドグラスの灯りが灯っていた。
穏やかな明るい光が店内を照らし出す。
サナさんは立ち上がって言った。
「今日はもう帰ろかうかな」
「そうですね、少し寂しいけど、その服じゃ風邪引いちゃいますね」
サナさんはハンカチをとって、私を見た。
「これ、もらってもいいかな?」
「え?」
「すごく可愛い柄だから、欲しくなっちゃった」
私は戸惑ったが、うなずいた。
「大事にしてくださいよ?」
「うん。ありがとう」
扉の前で、サナさんは言った。
「忘れないでね」
「忘れるわけないじゃないですか!また会いましょう!日曜日はちゃんと、私、ここに来るので」
「嬉しい」
サナさんは優しく微笑んだ。
二人で一緒に外へ出た。
私は空を見て言った。
「ほら、雨も上がってきましたよ!‥‥あれ?」
サナさんはいなくなっていた。
私は店に戻った。
私がキョロキョロしていると、いつの間にか店長がそばにいた。
「お客様、なにかお探しでしょうか」
「いつも来る常連の女の人、いませんか?忘れ物とかで一旦、お店に戻ったのかと思って」
店長は目を細めた。
「座って下さい」
私は店長に勧められて、戸惑いながら近くの椅子に座る。
「このカフェは、誰でも入店できる訳じゃありません」
店長の視線に釣られて、私も窓の外を見る。
雲は小さくなって、太陽の黄金の光が降り注ぐ。
淡い水色の空に、大きな七色の虹が掛かっていた。
幻想的な光景だった。
「特別な人だけが入れます。あなたも、彼女も、理由があってここへ来たのです」
「理由?」
「ええ。そして、それが消えたので、彼女は帰って行ったんですよ」
「‥‥もうすこし、分かりやすく教えて下さい」
私が言うと、お爺さんは困ったように笑って言った。
「特別ですよ?」
「お願いします」
「あなたは、自分を探していたんじゃありませんか?」
「自分、ですか?」
「自分のやりたいこと、本当の自分、それを知りたいと思っていませんでしたか?」
「たしかに、ちょっと悩んではいたかもしれません」
「あなたもまだ、長い旅の途中なのでしょう。また悩んだ時、行き詰まった時、来て下さい。私はいつでも待っていますから」
店長は甘いココアを出してくれた。
私はココアを飲み干して、店長に送られてカフェを出た。
空に虹がかかっていて、とても綺麗だった。
スマートフォンを出して、空の写真を撮る。
せっかくだし、カフェの外観も撮ろう、と思って振り返り、私は目を疑った。
そこにあるのは、雑草だらけの狭い売地で、店ごと無くなっていた。
「‥‥夢?」
唇を舐めると、ココアの味がした。
♪
次の日曜日もカフェに行ったけど、そこにあるのはただの空き地だった。
近所の人に聞いてみたけれど、近くにカフェは無いらしい。
私は店長の言葉を思い出した。
ー また迷った時、いつでも来て下さい
あのカフェで過ごした時間は本物だ。
それが例え不思議な世界で、現実には存在しなかったとしても、私の心には鮮明に残っている。
サナさんと過ごした時間。
店長と交わした言葉。
私は自分に迷い、あのカフェに辿り着いたのだ。
もしもサナさんにまた会えたら、もっと良い曲を聞かせてあげたい。成長した私を見せたい。
サナさんの目指していた、人の心を震わせる音楽も、私がきっと見つけてみせる。
迷ったら、またあのカフェに行けば良い。
店長は、いつでも待ってるって言ってた。
だから今は、私の信じる道を信じて、頑張りたい。
♪
窓を開け放つ。
春の温かい風が部屋に入ってくる。
七分丈じゃなくて、もう半袖になれる。
私は、ゆっくりと両手で重いピアノの蓋を開ける。
私は私を見つけるため、真っさらな五線譜に今日も音符を吊るし始めた。
ありがとうございました。