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Scene9

 風が吹きすさんでいた。11月ともなれば、栃木には強い風が吹く。男体おろしと言うやつだ。栃木県の県庁所在地うつのみやでも相当な強さの風が吹きつけるのだ、言わんやこの高地ならば言うまでもなかった。

 月の光に照らされて周囲を見渡すのには殆ど支障がなかった。起伏の少ない地形に背後に東屋、正面には広さはあるが水かさの少なそうな川が流れている。川面かわもがきらきら光って美しい。水音が涼やかだったが、今のこの状況では寒さに拍車がかかるだけなのが残念だ。

 外気はもう優に10度を下回っているのだろう。

「さむっ」

 厚手のコートを着ているというのに思わず声を上げた。それ程の冷気。冷蔵庫の中にいるのと大差なかった。

「何この風?!呼吸もできないわ!」

 冷たすぎて喉の刺さるような錯覚を感じ、手袋をした手で口元を覆いながら逸夏が叫んでいる。

「日光おろしってやつだな。宇都宮だって時々吹くだろう。いや、こっちだから男体おろしかな」

「名前なんてどうでもいいのよっ!宇都宮はこんなに寒くならないわっ!!」

「宇都宮は広いから北の方は結構寒いけどな」

「そういう話じゃないのっ!」

 あまりの寒さに背後の東屋に逃げ込むが、壁のない東屋ではあまり効果は見込めない。屋根があるだけマシと言う程度だったがそれでも少しは違う気がした。

 改めて二人は周囲を見回した。

 右手前方に取水堰らしき構造物が見える。白いコンクリートと赤い手すりが見えるという事はその上を歩くことができるのだろう。

 左手から流れてくる川は大きく湾曲して右手の取水関でいったん水をせき止められ溢れた分だけが下に流れるようになっているようだ。

 よく見ると取水関の更に右手に古い石積みのトンネルのような施設が見える。

「これ、……那須疎水、かしら」

「茄子汁粉?」

「なにそれっ?全然美味しそうじゃないし、大体っ食べ物じゃないからっ」

 寒さも忘れ周囲の様子を観察し始める逸夏に、徹が呆けた返事をしている。

「学校で習ったような気がするの。確か三大疎水の一つとかって」

「あー、人工的な水路みたいなやつか。けど、これはただの川に見えるけどな」

 水路と言われると広くても幅1メートル程くらいのコンクリート製のものを思い浮かべるのではないだろうか。しかし、今目の前に広がる光景は水路と呼ぶにはふさわしくないくらい自然に溶け込んでいる。

 月の光の下という幻想的な状況も相俟って一枚の絵画のような風情があった。

「綺麗ね、寒いけれど」

「ああ、ホントにな」

「ここ、あの人が愛した風景だったのかしら」

「あの人……。おじさまがか?」

「ううん。その奥さん……だと思う。顔は判らなかったけどとても優しそうな人……」

「旦那を置いて逝っちまうなんて心残りだったろうな」

「徹お兄ちゃんもそう思うでしょ?」

「俺もそういうのには疎い方だけど、さ。男一人になったら生活だって不自由になるだろうしな。飯一つ作れない、洗濯もできない部屋も荒れ放題なんて男もいっぱいいるだろ」

「それ、徹お兄ちゃんだけじゃない?」

「えーっ、そんなことないぞ!って言いたいけど……まあ確かにな。陸の奴は……」

 そのあとも何かもごもご言ったがよく聞き取れなかった。

「まあでも確かに、うちのお兄ちゃんの部屋も似たようなものかもね。女は男を世話するために生まれるわけじゃないのにね」

「……正論だな。ぐうの音も出ないぜ」

 徹の口調は皮肉気だが嫌味は感じない。本気で言っているのだろう。

 二人は顔を見合わせ視線を合わせて頷いた。行く場所は判っていた。

 強い風に吹かれながらゆっくりと進んでいく。強い風に吹かれて揺れる木々は杉の木だろうか。まっすぐに夜空に伸びる黒いシルエット。何本も連なって左右に体を揺する様子は一つの大きな生き物の様だ。

 山には神がいると否応なく信じさせるような畏怖を覚えた。

 逸夏は知らず身震いした。小さい肩を更に小さくすぼめ、それでも一歩一歩迷わずに歩いて行く。

 大丈夫。私は一人じゃない。自分に言い聞かせる。徹が隣にいてくれるし、それに彼女が待っている。

 助けるんだ。絶対に。あの人は、消えてはいけない人。悲しむ人がいる人。だから……消えないで欲しい。きっとそう思っているのは私だけじゃない。

 それだけは確信していた。少なくともあの女性は。そして多分いるだろう彼らの子供たちも。あんなに幸せな光景だらけだったあの人に思う人がいないなんてことは、ない。

「絶対助ける。怖くなんか、ないんだから……」

 ずっと握ったままの手をもう一度ぎゅっと握って、逸夏は話した。

 隣を歩く青年もそれを止めたりはしなかった。後押しをするように、ぽんと逸夏の頭を撫でて、後ろを守るようについて来てくれる。

 大人として、一人の人と扱ってくれているのだと気付いた。心に熱が灯る。

 大丈夫、私はやれる。

 ともすれば心を支配しそうな暗闇への恐怖。そして無力な自分への不安。そんなものが渦巻いていたけれど。でも。怖いけど。ただ泣くだけで何もできない子供ではいたくない。

 強く、なるの。あの人のように。

 ゆっくりと周囲の中でも人一倍高い杉の木の前までやってきた。樹齢100年は下らないような大きな杉の木は風に吹かれて怒っているかのようにその葉を揺らせていた。

 その前には形を亡くした影が横たわっていた。

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