Scene8
ダメよー!!!!!
声の限りに叫んだつもりの声はどこにも響くことはなかった。
気付くと逸夏は一人で闇の中にいた。優しい老紳士の姿はどこにもない。空には無数の星が輝き、白い満月が逸夏を見守るように優しく照らしている。
太陽はすっかり沈み、一緒に義明を連れて行ってしまった。
「そんな……こんなのってない。こんなのってないよ……」
全身から力が抜けていく様だった。重苦しい悲しみだけが逸夏の心を支配して、心も体も全てが痛むような気がした。がくんと膝から力が抜けた。踏ん張る気力もおこらずにそのまま膝を付き顔を覆って嗚咽を漏らす。
拭っても拭っても零れる涙を止めることができず、逸夏は声を上げずに慟哭する。
何かできるかもしれないと思い老紳士に付いて行った。老紳士が既にこの世のものではないと気付いた時も恐れなどなかった。
その寂しげな姿に母の姿を重ねていたのかも知れない。仕事で忙しい父は家に帰って来ることも稀で、家は裕福だったが本当は逸夏も淋しかった。
穏やかで優しく一途に妻を想う老紳士は逸夏にとって理想的な父親像そのものだったのだ。
けれど何もできなかった。何もしてあげられなかった。そう思うとまた涙が零れてくる。見ることができても助けることができないなら何のために見えるの。
何もできないならこんな力意味がないわ!
「逸夏!!」
泣き崩れていた少女を呼ぶ声が聞えた気がした。しかしここは、あの水のない河原の筈だ。逸夏の名前を知る者がいる筈もない。
涙で濡れた顔を上げてみると、近くに見覚えのあるコンビニが見えた。
驚いて辺りを見渡すと、そこは朝に逸夏が降り立ったあの何もない駅前だった。遠くから走ってくる足音がする。
見覚えのない蓬髪に大柄な体つきの青年が逸夏に向かって走って来ていた。
青年は逸夏の近くまで走り寄るとそのまま道路に跪いていた逸夏の隣にへたり込み、少女の細い両肩をがっしりと掴み荒れた呼吸を整えた。
「良かった……こんなとこにいたのか……」
「あの……。ごめんなさい、誰ですか?」
「あー。そっか」
まだ呼吸が苦しいらしく、荒い呼吸の合間に声を出していると言った風情の青年が、顔を上げて逸夏を見詰めた。よく見るとその力強く優しい眼差しには見覚えがあった。
「俺のことあんまり覚えてないか……」
「えっ、ちょっと待って。その声。徹お兄ちゃん?」
「おっ、覚えてたか。そうそう正解!」
「嘘でしょ?!なんでそんなゴリラみたいになってるの?!昔は陸お兄ちゃんと並んでも細いくらいだったのに?!」
「ゴリラ……」
傷付いたのだろう。絶句する青年、徹に気付き、逸夏があっと小さく声を上げた。
「ごめんなさい……」
「いや。いいけど」
大袈裟にため息をついてから、徹はジーンズのポケットに突っ込んでおいた携帯を出し、大きな親指一本で画面を操作し始めた。
「何にしても会えて良かったよ。もう少し遅かったら警察に届けを出すとこだったんだぞ。今、家に連絡すっから。帰ろうぜ」
「!!」
帰るという言葉に反応して逸夏は思わず逃げ出そうとした。が、それを察した徹にがっしりと腕を掴まれる。
「待って!待って徹お兄ちゃん!!」
力強い腕に掴まれて振りほどくこともできない逸夏は声を上げる。
「ダメだ。子供はもう帰る時間だろ。みんな心配してたんだぞ」
「そうじゃないの!!そうじゃないのよ!!まだ間に合うかもしれない。お願い助けて!お兄ちゃん!!」
「助ける?逸夏をか?怒られるのが怖いのか?それなら……」
「違うのよ?!おじさまよ!おじさまを助けたいの!!」
訳が分からず首をひねる徹だったが取り敢えず、逸夏の家に電話を掛けるのを止めてくれた。
逸夏は今までのことを徹に語って聞かせた。
「……現世をさ迷う影か……」
この青年は、一族の遠縁の者で身寄りがないらしく本家に居候している筈だ。逸夏の家の歴史は古い。士族だったかどうかは知らないが、地元の名士で何代にも渡って一族の家系図が今も綺麗な形で残っているのだそうだ。
徹はそんな遠縁のどこかで逸夏と繋がっているのだろう。もうそんなの他人でしかなかったし、今まで存在すら忘れていた人物だったが今はそんな事はどうでも良かった。一族のものならば祖母の様に強い霊感を有しているかもしれない。
「お願い。せめておじさまを安らかに眠らせてあげたいの。来世の希望さえも捨てて一人で消えてしまうなんて悲しいことにはならないように」
藁にでもすがりたい気持ちで助けを請うた。
「……判った」
徹は逸夏の言葉を真摯に聞いてくれた。大きい手で逸夏の頭を撫でて彼女を労う。
そして立ち上がり空を見上げた。11月の月は満月ではなかったがかなりふっくらとしていた。
「……よし。これなら行けるな」
小さく呟くと徹は再びスマフォを操作してどこかへ電話をかけ始めた。
やはり親に連絡されるのかと一瞬びくっとした逸夏だったが違った。
「お、陸か。早いな」
逸夏が止める間もなく相手が出たが、その相手は親ではないようだ。しかもその名前は聞き覚えがあった。逸夏の多すぎる従兄弟の一人。しかも本家の跡取りと目されている人物の名前だった。
「ああ、そっちは空振りだったろう。ああ、待てよ。焦るなって……」
どうやら従兄弟まで借り出して捜索していたようだ。そう言えば捜索願をだすところだったと言われた気がする。
落ち着いたのか少し冷静になったようで、逸夏は後でとても怒られるのだろうと気付いて心が沈んだ。
「……ああ、そうなんだ。でちょっと行ってくっからよ。悪いが本家の方と逸夏の親の方に連絡入れてくれ。……大丈夫だ。悪霊とかじゃないらしいし。危険はないと思うよ。あーうるせーな。いいだろ、お前の方が宥めるのは上手いだろ。頼む。時間がないらしいんだ。……ああ。ああ、判ってる無茶はしない……」
最後に悪いなと添えて徹は電話を切った。それから、逸夏に向かってにやりと笑った。
「逸夏、お前は運がいいぜ」
いや、運がいいのはその『おじさま』かもな。そんな風に呟いて。
大男の品の良くない微笑みだというのに何故かその微笑みに安心して気付くと逸夏も笑顔になっていた。
徹は逸夏の前にしゃがみ込むと、下から見上げるように逸夏の顔を覗き込んだ。
無骨な骨格の顔に優しげな瞳が微笑んでいる。
「いいか。逸夏、お前が要だ」
「えっ?」
「えっ、じゃねえぞ。俺はそのおじさまについて何も判らないし、思い入れもないんだ。俺だけじゃ助けられない。力は勿論貸す。けど、どう動くか決めるのはお前だ」
大人の知人に会えたことですっかり安心し、任せる気満々だった逸夏は慌てて視線をきょろきょろとさ迷わせた。
「落ち着け、大丈夫だ。逸夏ならできる。俺を信じろ」
優しい瞳と力強い声で促された。大きな手でぽんぽんと逸夏の頭を撫でてくれる。暖かいと思った。
「うん。頑張ってみる」
大きく息を吸い今日一日の出来事を振り返る。
影になってしまった義明の姿を思い浮かべる。それだけで心がきりりと痛む。愛する人の為に自分は傍に行かないとそう呟いた男性。
もし自分がそう言われたとしたらどう思うだろう。……そんな事はないと言うのではないのだろうか。出会ってから死ぬまで傍に居てくれた男性だ。愛していない筈はない。
逸夏はまだ恋を知らなかった。淡い憧れを抱く人は何人もいたけれど。
恋に恋する年頃だと笑われるかもしれない。でも、そんな自分でも判る。あの二人は間違いなく愛し合っている。来世で逢ってまた結婚するかは判らない。来世で逢えるかどうかも判らない。
そうよ、会えるかどうかも判らないじゃない。なら、転生したっていい筈よ。もし会えたら、その時は謝ったらいい。前世を……覚えているかも判らないけれど。
いいのよ、そんなに悲しまないでも。きっと、もう許してくれているのよ。
そんな気がしていた。
逸夏の瞳にまたあの桜が映った。逸夏は空を見上げた。
まだ涙の残る瞳に強い光を宿して、見えない何かを見詰める逸夏を確認して、徹は力強く頷いてから軽く逸夏の手を握った。
力付けるように暖かい大きな手が逸夏を包む。少女は大きな何かがそこから流れ込のを感じた。
逸夏はその温かい何かに力を得て、その手を握り返して空へ向けて反対の手を上げた。
その手にあの透明な力が触れる。その途端、桜は白く色づき二人の周りを白い光が包んだ。