Scene6
空は晴れていたが風は冷たい。
午前中に降っていた雨のせいで、まだ湿ったままの大地の水分が気化する時に大地の熱を奪っていくからだ。
また目の前で幻が踊っていた。
小さな子供達は10人近くいるだろうか。逸夏の前を流れる川の縁ではしゃいでいる。明らかに現在の物ではないとわかる服装。
最初、義明の子供時代かと思ったがすぐに違うと判った。川に入ったり石を投げたりして遊んでいる子供達の後ろでバーベキューの準備をしている大人たちの中に、義明によく似た男性がいたからだ。
それに義明は子供の時に疎開していたと言った。だとしたら子供達の服装はちょっと新し過ぎるだろうし、川でバーベキューなどする余裕などないだろう。
大人たちは三組の夫婦のようだ。ちょうど、男女3人ずついる。その中の一人の男性は比較的大きな男の子たちに混じって水切りをしている。
石が水面を跳ねた数を子供達と競っているらしい。
のどかで微笑ましい光景だった。
楽しそうにはしゃいでいる子供達を横目にしながら、大人達は川辺の平らなところに設置した椅子やテーブルに腰掛けて話したり、バーベキュー用の火を起こしたりしている。
ダンボールいっぱいに詰まった食材を義明が運んできて、鉄板の準備をしていた女性の近くに置いた。それに気づいて女性が顔を上げる。
何故か女性の顔は霞んでよく判らなかった。
女性は義明に何事か話しかけている。
逸夏は隣に佇んでいる現在の義明を見上げた。
義明は静かに楽しそうに話す2人……かつての自分達を見ている。
やがて静かに右手で顔を覆った。
「……思い出せないんだ……」
何が?とは聞かなかった。聞かないでも判るような気がした。
その声は静かでけれどとても悲痛だった。
「どうしても、思い出せないんだ」
長く一緒にいた筈なのに。とても長い間一緒にいたというのに。
その嘆きは深くて、胸に突き刺さる。小さなガラスの破片が深く刺さって抜けないかのように、酷く痛むわけではないのにずっと消えずに残る痛み。
この紳士がこうして思い出を辿るようにさ迷っていたのは欠けてしまった記憶を探していたからなのだとようやく逸夏は知った。
何とかできないのかと逸夏は、必死の思いで周囲を見渡す。
しかし周囲にヒントになるような物が簡単に転がっているわけもない。
逸夏は思い余って幻の中に走り出た。
義明の隣で忙しく働く女性に走り寄りその体を抱きしめた。
驚いたことに逸夏はその幻に触れることができた。触れられた女性は急に現れた少女に抱きつかれ戸惑っている。
「あなたは……」
「教えて!あなたは誰?!あなたならおじ様を助ける方法を知っているんじゃないの?!」
夢中だった。強く女性を掴んで揺さぶる。
古い記憶の中の女性はかつてのあった記憶のままの行動をとるかと思われたがその手を止めて少女を見下ろした。
そっと自分を掴む逸夏の頭に触れ、それからしゃがみ込んで自分を掴む手を解いてその手を握った。
目と鼻の先に女性の顔がありながらそれでも女性の顔を判別することができない。
「迷子になったの?お家の住所は言える?」
「違う!違うの!!」
お願い!と心の中で叫ぶ。
「お願いおじ様を助けて!このままじゃずっとこの地上をさ迷い続けることになってしまうのよ!」
必死に声を張り上げて叫ぶ。そして、堤防の上で両手で顔を覆って嘆いている義明を振り返った。
釣られるように女性の視線が逸夏の姿勢を追う。
その瞬間その場のすべての音が消えて、キーンという耳鳴りのような何か硬質なものが砕けたような音が響いた。
女性の視線が堤防の上の紳士を捉えた……気がした。
「あなた……」
暫く女性は嘆く義明の姿を見つめていた。
それからやっと逸夏に顔を戻して、少女をそっと抱きしめた。
「あなたがあの人をここまで連れてきてくれたのね」
なにもかも了解したかのような深い声色だった。逸夏は顔を上げた。下から覗く女性の顔は先ほどまでのように霞みがかってはいなかった。
穏やかで優しい茶色の瞳が逸夏をねぎらうように見つめている。
『ありがとう』
そう聞こえた瞬間女性の体は霧散した。抱きしめていたはずの体が、光の塵になりキラキラと光って宙に降り注ぐ。
それと同時に川辺のバーベキューの光景も消えた。
後には秋の光を受けて光る水面に、透明な桜の花が舞うように降り注いていた。