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Scene3

 白いセダンは緩やかに発進した。雨風を遮っただけだというのに暖かく感じる車内に入って、想像以上に体が冷えていたことに気付く。

 発車する前に少し暖気した車内は走り出す頃には暖かい風が吹き出すようになっていた。

 結局この紳士が気になってついて来てしまった。

 一緒に行きたいと言った時に紳士は少し戸惑っていたようだった。

 いくら子供の逸夏でも、親からも学校からも『知らないおじさんに付いて行ってはダメ』なことくらいはしつこく言い聞かせられている。自分の判断が間違いかも知れないことも。

 それでも付いて行く決断をしたことには、先程感じた予感めいたもののほかにもう一つ理由があった。

 義明の瞳の奥に悲しみとも悼みともつかない光を感じ取ったからだ。

 使い込んで飴色になった鼈甲べっこうのような深い色合いをした瞳が何を語るわけでもない。老紳士は何も語らなかった。けれど判った。判って、しまった。


 何かを探しにこの地に来たのだ、と。


 それはきっと義明にとってとても大切なもので、忘れがたいもの。なくしてはいけないもの。けれど、時の流れの中で失われてしまったもの。

 けれど、逸夏の目には義明が半ば諦めかけているように見えた。それがいたたまれなかった。だから付いて来たのだ。

 もしかしたら、祖母譲りの霊感が義明の助けになるかも知れないと思ったから。

 逸夏は後部座席にきちんとシートベルトをして座っている。義明は逸夏を助手席には乗せようとしなかった。彼はもう老齢と言っていい年齢に達している。もしもの時を考えたのだろう。

 座席からルームミラー越しに義明の表情を盗み見る。

 老紳士は変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。瞳だけに僅かに暗い翳りを見るだけだ。

 心に秘めた深い悲しみすらも綺麗に覆い隠せてしまうのは、生きた長さのなせる業なのだろうか。そんな風に悼みを隠して心を癒すための道行ならば一人では淋しいだろう。

 そばにいるのならば、行きずりの者がいい。何も知らなければ何も問い掛けもしないだろう。子供ならではの鋭さで逸夏はそんな風に感じていた。

 事実、義明も逸夏の同行をさほどは拒まなかった。

 一つだけ、必ず日が暮れる頃には駅に送るからその駅から帰るという約束をしただけだ。

 雲はゆっくりと流れ、雨が止むころに紳士の運転する車は小さな社を有する神社に着いた。

 雨でしっとりと濡れた小さな森を背景に、神社というより大きな社と言った風情の建物が見える。

 砂利の駐車場に車を停め、鳥居の前に立ってみると鳥居は白い石のようなもので出来ていた。

「赤くないのね」

 義明に付いて歩いていた逸夏は石の鳥居を珍しそうに見上げた。

 移動する前にどこか行きたい所かあるかと聞かれた。しかし、逸夏の希望していた美術館はここからさらに車で30分以上移動しなければならないらしい。

 それを調べてくれたのは老紳士だった。車に設置されたナビを四苦八苦しながら操作したところ、義明が最後にと定めていた目的地からほど近い場所にあるようだった。結果、逸夏の希望は午後に回されることになったのだ。

「この神社はね、他とは少し違っているところがあるんだよ」

 車から降りる際に義明はそんなことを言ったが、今のところ他の神社との大きな違いは見当たらない。

「おじさん。違いってこれのこと?」

「ああ、そういえばここは丹塗りがされていないんだねぇ」

 義明も逸夏の隣に来て白い鳥居を見上げた。

 白い鳥居の間に見える空には、雨雲が途切れ所々青空が見え始めている。

「残念ながらこれのことじゃないよ」

 逸夏は知らなかったが丹塗りされていない鳥居や黒色で塗られた鳥居などは全国で散見できる。

「他に変わった所なんて……」

 唇を尖らせてきょろきょろと周囲を見渡す逸夏は年齢通りの幼さを感じさせ愛らしい。

 老紳士はゆっくりと歩を進めると鳥居の横に鎮座する神社の謂れが掛かれた案内板の前に立った。

 案内板は神社には珍しく金属でできており、茶色のペンキで塗装されていた。

「三島神社……」

 茶色の板に白字で書かれた文字を読み上げて逸夏は首を傾げる。

 紳士の行動からすればここにヒントがあるという事だとは思うのだが、逸夏には何が違うのか良く判らない。

 その様子に紳士は微笑むと隣に並んで一生懸命案内板を読む逸夏に声を掛けた。

「ここに書かれている『三島大神』はね。実際には神様ではないんだよ」

 読み上げる際に『みしまおおみかみ』とゆっくり発音してみせた。

「えっ?」

「まあ、もうなくなっている以上神様の仲間入りをされたとみなされているんだろうけどね」

「亡くなった?……じゃあ、実際に生きていた人だったの?」

「そうなんだよ。明治時代に県令……県知事……だったかな……をされていた人を祀っているんだ」

「明治時代……」

 令和を生きる逸夏にとっては、明治時代など大昔と変わりないきがする。知人の中で一番年かさの祖母ですら昭和生まれだ。

「今から大体100年くらい前の話だね。……もう少し前かな」

「100年……でも普通神様ってもっと前の人よね」

「実際に生きていた人を祀ることはないわけではないけれど、ここまで近年の人を祀っているのは珍しいね」

「それがほかの神社とちょっと違うところ……?」

 紳士は静かに頷いて見せた。

 そして顔を上げて視線を神社の方に向ける。

 その瞬間ふわりと暖かい風が吹き抜けた。

 風は逸夏の髪を浚い神社の方へ吹き抜ける。風を追う様に顔を上げた逸夏の視界に、人影が横切っていく。

 幻のような笑い声は若くはない男女のもの。今よりも少し若く見える義明とその前を歩く人影は小柄で、義明のと似た色のコートを羽織っている。

 乱れた髪に視界を塞がれて、瞬きする間に男女の姿は風にかき消されるように消えた。

 秋だというのに花の香りがした気がした。

 今のは……。先ほどの情景を思い出すように、鳥居の向こう側を眺めそれから隣に立ち尽くしている老紳士に目を戻した。

 そうか。

 逸夏は義明が何を探しにここまできたのか理解した。

 死別か別離か。今はもう傍に居ない妻との思い出を探しに来たのだ。

 ああ、だから。こんなにも淋しそうなんだ。

 別れたく、なかったんだ。

 義明の悲しみが伝染したかのように胸が痛んだ。

 逸夏はぎゅっと胸の間でこぶしを握った。

 何事もなかったかのように顔を上げ逸夏は鳥居に向かって歩き出す。

「判った所でお参りね!今日は少しお利口さんになったかも!」

 大袈裟に手を上げてずんずんと前へ進む。後ろを歩く老紳士を振り返ることは今は出来なかった。

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