Scene2
色彩が瞳の中に飛び込こんできた。
いくつもの色とりどりの泡が逸夏の周りを踊り、弾け、溶け合う。海の中にいるような濃密な空気。足元の感覚すらも消え、落ちているのか飛んでいるのかも判らない状態だ。
一瞬視界が暗くなり次いで淡い青い色の光が降り注いでくる。光のおかげで上下の感覚だけが復活したが依然足元には何の感覚もない。
泡の中にはいくつもの景色が映し出されている。
人が賑わう祭りの風景。子供たちの遊ぶ様子。わらべ歌が聞える。まっすぐに通された轍の道路。その上を走る馬車。現在と過去が入り混じり時間の感覚すらも失っていく。
驚きと焦りで逸夏はバタバタと溺れるように手足を動かした。何かが足に引っかかり、もがくように一歩前へ進む。
気が付くと前方をあの紳士が歩いている。
待って!と叫ぶ声も音にならない。ぽこんと泡が生まれる時のような音が逸夏の口から洩れただけだ。
迷い込んでしまった世界でたった一つの確かな存在を見出して、逸夏は必死になって紳士の後を追った。
依然紳士は前を歩き、追いつける気配もない。しかし、前に歩を進めるにつれて逸夏の足元は確かになり少しずつ濃密な空気が通常のものへ近くなっていく。
「待って!」
やっとのことで声が出た。その声は、紳士を振り返らせて。そして世界が紅で染まった。
さあっと雨の降る音がしていた。細かい霧雨だろうか。冷たくはないが確実に辺りを濡らしていく。
先ほどまでの一連の変化に戸惑った逸夏は声も出せないでいた。
気付くと暖かなコンビニの一角ではなく、雨の降りそそぐ遊歩道にいた。足元は砂利だ。少し動くだけでシャリシャリと音がする。
逸夏の頭上には見事な楓が枝を広げていた。小さな楓の葉はその一枚一枚が色が違って見える。下から上に向かって深紅から深い緑に変化していた。
なんて綺麗。
ただ一本の木にこれほど感動したことがあっただろうか。写真ですらその見事さの全てを表現することは出来ないと思った。
そのような木々が遊歩道の左右に等間隔に植えられている。その木のどれもが同じ色合いをしていなかった。
日が陰って少し暗いせいか、雨に濡れているせいか、その色は濃くまるで一枚の絵画のようだった。
「君は……さっきの」
存在を忘れかけていた紳士が、逸夏に声を掛けてくる。
思い出したかのように目をパチパチさせてから逸夏は顔を正面に戻し、改めて紳士を見上げた。
「さっきコンビニで見かけたお嬢さんだね。僕に……何か御用ですか?」
叫んだのは先ほど混乱していた時で、その存在も実在の人とも判っていなかった。ただ、あの空間から抜け出す鍵がこの老紳士にあると直感して声を掛けただけだったが、それをこの老紳士に説明したとして果たして理解してもらえるだろうか。
無理だろうと思う。自分ですら思い出せば夢の中にいたような気がする。
「ええと……」
答えられずに口ごもる少女に怒るわけでもなく老紳士は少しだけ微笑み、逸夏に近付いて傘を彼女の方へ差しかけた。
俯いて言葉を探していた逸夏はそれに気付くのに遅れた。
「おじさんはこの先に行こうとしていたんだけれど。良ければお嬢さんもいかがですか」
紳士は静かな声で掛けてきた言葉は、逸夏の予想から外れていた。
何の誰何もしてこなかった。もう一度パチパチと目を見開いて、逸夏は紳士を見上げる。穏やかな瞳が彼女を見下ろしていた。
「はい……」
奇妙な道行が始まった。
☆~~☆~~☆~~☆~~☆~~☆~~
紳士は義明と名乗った。
どうやら県外からの観光者らしくこの紳士も逸夏と同じく駅から徒歩であのコンビニまで来たようだった。
しかし駅前の様子を察した紳士は、その後に一度駅前に引き返しレンタカーを借りてこの場所、大山参道まで来たのだという。
大山参道までは那須塩原駅からは徒歩では到底来れる場所ではないようで、どうやってここまで来たのかとの問いには逸夏は答えることができなかった。
「おじさんはね……」
と前置きをして、義明は語った。
かつて戦争があった頃に栃木の北部に疎開に来ていたのだと言った。
「だから、私にとって栃木は第二の故郷のようなものなんだよ」
戦争という言葉の意味は勿論知っている逸夏だったが、実際に戦争を体験していない彼女には疎開がどういうもので、故郷を離れて暮らすことの悲哀などはまだ判らない。
けれど、そう呟くように話す義明の横顔には、悲しみよりも懐かしさの方が強いように感じられて少し安堵を覚えた。
「私は生まれた時からずっとこっちに住んでいるから、おじさんが少しでもこっちを好きでいてくれるなら嬉しいわ」
逸夏の声は無邪気だ。それを穏やかな瞳で義明が見下ろしている。
雨は止む気配を見せなかったが、強くなることもなかった。曇天の下で親子の様に見える二人がゆっくりと参道を歩いて行く。
参道の玉砂利は小粒だがそのどれもが丸い小石で、歩くと僅かに足が沈むが、足をられるほど歩きにくいこともなく、大きな石を踏んで足の裏を痛めるようなこともない。
逸夏などはその音と感触が物珍いのか、義明の傘の下から出て走り回ったりしている。傘の中にはいらずとも降る雨の粒は小いさく冷たく感じることもなかった。
義明によると11月にしては随分と暖かいのだそうだ。普段であれば雨の降るこんな日は相当冷え込むらしい。そのせいだろうか、参道を訪れる人もまばらだ。
時折観光バスが来訪しては、客を吐き出して僅かの間賑やかになるが、この雨のせいで観光客はそうそうに見学を済ませて暖かいバスの中に戻っていく。
そんな様子を気にもしていないのか、義明はゆっくりと参道を歩き、赤や黄色に色づく楓を眺めている。逸夏はそんな義明に付き合う様に一緒に道を歩いていた。
市街地で育った逸夏にとっては自然豊かな参道自体が珍しかったので義明のペースでも飽きることはなかった。参道を守るように植えられている楓は、全体的に黄色に変色しているものから、ほぼ緑色のまま紅葉していないもの、真っ赤を通り越して黒に近い赤色に変わっている木々まで様々で見る角度によってその表情を変えるのだ。
それに、と逸夏は老紳士を盗み見た。
この老紳士が気になるのは変わりなかった。
そもそも先ほどのあれはなんであったのか。逸夏の祖母はいわゆる霊感のようなものがあり、時々不思議なことを言い出す人ではあった。
自分にも祖母の血が流れている以上、もしかしたら自分にも霊感が備わっているのかも知れないが、残念ながら今までそういった現象にであうことはなかったのだが。
今回に関してはその血が開花したのかも知れない。
というのもこの紳士には、他の人と比べて少し違う何かを感じ取れるからだ。それが何であるかが判らないところがもどかしいが、傍に居ることでそれに気付くことができるかもしれない。
やがて、二人は参道の奥にたどり着いた。
参道の終わりは古い木造の門で、門には鎖が通され鍵が掛けられている。
「あれ、中には入れないの……?」
驚いて声を上げる逸夏に静かな声で紳士が答える。
「そうみたいだね」
「ええーっ?ここまで着たのにー?」
義明は傘を持っていない方の手で懐を探り、そこから小さな紙片を取り出した。暗くて見ずらいのか顔を近づけたり離したりしながら紙片を読み始める。
しばらく紙片を眺めていたが、軽くため息を付いて顔を上げる。
「何か書いてあった?」
「いや……この先はどうやらお墓みたいだね。個人の土地なのかも知れないね」
「えっ?お墓?!」
整備された参道を目にして逸夏はこの先に神社か寺社のようなものがあるのだと思い込んでいた。
「街中にいきなりお墓なんて。そんなに偉い人が埋められているのかな……」
逸夏の中の常識ではお墓はお寺の敷地内にあるものだった。人を埋葬するためだけに、家を建てられるだけの広さの土地と参道が用意されたということに驚いている。
「偉いかどうかは判らないけれど、この土地の名士なのは間違いないだろうね」
「名士……」
そうなんだ……と呟きながら、逸夏は出来る限り中を覗き見ようとしてみた。右に左に移動しては背伸びをして古い門の向こうに視線を伸ばす。
「ダメね。良く見えない」
ひとしきり行動をした後ため息を付いた。去年と比べれば大きくなったと言われる逸夏でも自分と同じほどの高さのある門の向こうをうかがい知ることは出来なかった。
「きっとここの見所はこの紅葉した木々なんだと思うよ」
穏やかな声が降ってくる。
「そうなのね」
残念そうにもう一度門の方に視線をやってから、逸夏は紳士に向かって頷いた。
さて……と義明は呟いた。少し傘を後ろに傾け空を仰ぐ。
雨は依然霧の様に降りしきり、逸夏と逆の一の方を濡らしていた。
「おじさんは戻るけれど、お嬢さんはどうするかね?」
首を傾げるようにして見下ろし、逸夏と視線を合わせながら義明は問いかけた。
義明はこの天気を気にしているようだった。移動手段の少ない少女をこの悪天候の中放りだすのは忍びないのかも知れない。
とは言え、見ず知らずのしかも未成年の女の子を同伴するのも問題がないとも言えない。
義明自身に悪気など毛頭なかったが、それを他社がどう感じるかは別問題だ。
「一応言っておくけれど、このまま遅くならないうちにお家に帰るのが一番いいと思う。けれど、君はこの辺りの子ではないだろう?せっかく観光に来てこの時間に戻りなさいとはおじさんも言いにくい」
相手を慮って言葉を選び、優しく言い募る様子はまさに紳士と言えた。
未成年の少女に対してもきちんと一人の人間として対しているのが伺える。
勿論戻るというなら駅まで送ろうと言ってくれている。けれど、逸夏はその紳士の優しい言動よりも気になることがあった。
見上げる老紳士は確かに優しくて行動の端々に品の良さを感じる。まるで現代に存在する人ではない――そう、物語に出てくる貴族のような。
もしかしたら。逸夏は思った。この人はこの世の存在ではないのかも知れない、と。