epilogue
幸子は隣を歩く義明を眺めた。
思い出という名の幻の中をさ迷う夫をずっと見守っていた。嘆き悲しむ自分の夫には彼女の声は届かなかった。だからこの地に古くから住まう名もなき森の神様の力に嘆願して力を借りたのだ。
やっと、今こうして傍に寄り添うことができる。久しぶりの夫は随分と年老いていた。対する幸子は健康だった昔の姿に戻っている。
幸子は微笑む。そして……足を止めた。
「……どうしたんだ?忘れ物かい?」
後ろを振り返ろうとする夫とをめて、正面から夫の顔を覗き込んで幸子はもう一度微笑んだ。
「そうなのよ。忘れ物しちゃったわ」
「……そんなもの、ないだろう」
妻の満面の微笑みに、何かを察して義明は声を上げた。
「あるのよ。大事なものが」
「幸子……行こう。ここは寒いよ」
「ダメよ。まだ、ダメなの」
「そんな……僕はもう十分生きたよ。もういいだろう?」
幸子の瞳から涙が零れ落ちる。言葉にならずに首を左右に振る。それでも笑顔だけは崩さなかった。
「大丈夫よ。あっちの時はゆっくり流れるの。お婆ちゃんと一緒にお茶でものみながらゆっくり待っているから……」
「そんなっ!僕も一緒に行くよ!!」
「ごめんなさいね、連れていけないの。あの子達が泣いている……」
幸子は振り返った。背後にはあの川辺の風景ではなく、病院の一室が映し出されている。
生命維持装置につながれた義明がベッドに横になっている。そのすぐ傍で義明の脈をとっているのは主治医だろうか。
そしてその医師に対面するようにベッドの反対側で老紳士の手をに両手で抱きしめているのは、小さな孫を抱いた中年の女性だ。女性は涙を流しながら必死に義明のことを呼んでいる。
その隣にはその夫と兄らしき人物。もう一人背の低い少女の姿も見える。全員が涙を流して義明にすがるようにしている。
義明は愛しい家族の嘆きの声に言葉を失った。大切なものを失う痛みは誰よりも自分が知っている。
「ああっ」
顔を両手で多い天を仰ぐ。そんな夫を幸子は優しく抱きしめた。
「大丈夫よ。ずっとあなたを待っているわ。だから、子供たちをよろしくね」
ふわりとかぐわしい桜の香りが周囲を踊った。それきり義明は意識を失った。
愛しているわ、あなた。
愛しているわ、私の愛しい子供たち。
白い部屋の中に眠る人がいる。
清潔そうな寝具はどれも真っ白で、けれどなんだか無機質だ。ベッドに横たわる老紳士は穏やか寝顔をしていた。
明るい光に照らされて、身じろぎもしないで横になっている姿は見るものを不安にさせる。血色のない顔色がそれに拍車を掛けている。
ベッドの横で椅子に座りその様子を眺めていた女性は看病の疲れかベッドに突っ伏して寝息を立てていた。老紳士の手を握ったまま。
ぴくりと老紳士の指が動いた。ついで、その瞼が薄く開けられる。
そのまましばらくぼんやりと開けられていた瞳は、白い天井を確認し瞼を瞬かせた。
小さく吐息を吐く音がする。
今自分がいる場所が病院だと言うことに気付いたのだ。何故ここにいるのかはまだ思い出せない。けれど判る。自分は死にかけていたのだと。
「さ……ちこ……」
喉はカラカラで声は掠れていた。その声は小さく、酸素吸入器のせいでぐぐもっていた。
義明は視線を天井から窓の外へ向けた。外は抜けるような青空だ。暖かな日差しが燦々と降り注いでいる。
そこに彼女はいるのだろうか、と思った。待っているからと言ってくれていた。ゆっくりしていていいと。
瞳に涙が滲んでいく。待っていてくれるのであればもう少し頑張れる。そう、思う。
「う、うん……」
ベッドで眠っていた女性が身じろぎをしながら体を起こした。義明の声が聞えたのだろうか。
変な体制で寝入ってしまったために痛む腰を伸ばし、ついでに両手を上へ突き出しあくびをしている。
「あぁ……、朝か」
女性は義明の娘だった。義明は泣いて自分に縋っていた娘の姿を思い出した。こんなに悲しんでくれるのだと改めて気付いて、心配を掛けたことを申し訳なく思う。
けれど今はもう少しだけ、感傷に浸っていたいと思った。いまはただ、亡き妻を思っていたい。この短い瞬間だけは。
そして、自分を助けてくれた小さな勇者のことを思い浮かべた。
あの小さな冒険をこの現実主義者の娘は信じてくれるだろうか。くすりと小さな笑みが漏れた。
きっと信じてくれるに違いない。そんな予感がした。