Scene11
「これは……どういうことだ」
義明は呆けた様子で辺りを見回した。もう闇に溶けて消滅するつもりでいた彼は、日が落ちて暗闇に沈んだこの場所でも姿を保っていることに驚いていた。
そんな義明に逸夏は縋り付いた。
「良かった!良かった!良かった!おじさまが戻って来てくれて!!」
感極まって涙声になった逸夏の声は、老紳士の胸に顔をうずめているせいで少しくぐもって聞えた。
「戻ってきてしまったのかい、お嬢さん」
義明は泣きじゃくる少女を見下ろして独り言のようにつぶやく。
「だって、おじさまが消えてしまいたいなんて言うからっ!」
「君はやはり普通の女の子じゃなかったんだね」
「普通の女の子よ。……そうだと思っていたわ。今までずっと」
義明は諦めたような、ほっとしたような表情で、自分に縋り付いている逸夏の背中をさすった。
義明に宥められてようやく老紳士の体から手を離すと逸夏は義明の顔を覗き込んだ。その瞳に絶望の光が消えていることを確認したくて。
「このまま思い出の地で永遠に眠ろうと思っていた……」
その言葉が悲しく逸夏の心に沈み込んでいく。老紳士はまだ迷っているように見えた。
「ダメよ。もう一度会いに行きましょう。生まれ変わって。輪廻の輪に戻るのよ」
「私を許してくれるだろうか……いいや、また会えるのだろうか……」
「おじさまっ!男ならくよくよしちゃダメよ!!おじさまは会いたいの?会いたくないの?許してもらえないならもう会いたくないの?それじゃまるで子供みたいじゃないっ!!!」
この期に及んでまだ迷う老紳士に業を煮やして逸夏はぱちんと老紳士の手を打った。
「そんなくよくよしてたら、誰だって嫌いになっちゃうわよ!」
叩かれた痛みと言うよりは、叩かれた事実に驚いて老紳士はめをぱちりと見開いた。そして、目の前の可憐な少女をまじまじと見なおす。
そんな二人の様子を後ろで見守っていた青年がこらえきれず噴出した。
「徹お兄ちゃん!笑うところじゃないんだからっ」
「悪い悪い!逸夏があんまりかっこよすぎるんで、な」
ぷうと頬を膨らませて怒る少女に、徹はまだ笑いを止められない様子ながら謝罪をする。それでもひとしきり笑った後、地面に座ったままの老紳士に手を差し伸べながらこう言った。
「貴方ももう。腹を括る時ですよ。きっと大丈夫です」
軽々と老紳士をそれから逸夏を引き上げて立ち上がらせると二人の背後を指示した。
「これは……」
「わあっ!!」
二人の背後にあった杉の木だと思われていた木は、何故か今は満開の桜が咲き誇っていた。
冬も近いこの時期に、満開の桜が咲き乱れている。
「異常気象ってやつじゃないっすよ。勿論、逸夏の力でも俺の力でもありません」
よく見ると桜の花は闇の中でうっすらと薄紅色の光を放っている。
「お迎えに来てくれたのね……」
「お前なのか……さち……幸子……」
老紳士の言葉の後半はもう声にならないようだった。
逸夏は美しいその姿に見入っている。逸夏にはその桜に重なるように元の杉の木が二重写しの様になって見えていた。この杉の木は力ある存在なのかも知れない。そんなことをぼんやり考えた。
桜は闇の中でその清浄さを示すようにしずしずとその花びらを散らしている。その全てが幻のような美しさだ。
暫く見惚れていた義明だったが、意を決して一歩前に進み出てその幻の桜の枝に手を触れてみた。
義明の触れた場所から静かに光が流れ出し、やがて義明は全身が光に包まれた。
振り返った老紳士は逸夏達に目を向けた。もうその表情に陰りはない。晴れ晴れとした顔で微笑んでいた。
「ありがとう。小さなお嬢さん。着物お陰で僕は彼女の元に逝ける」
「良かったね。本当に」
本当は少し寂しさがあった。けれど、これはもう仕方のないことだと判っている。行かないでとは言えなかった。
「お父さんってこんな感じなのかなって思ったわ。私のお父さんは忙しくて中々会えない人だから」
「そうだったのか。大丈夫きっとお父さんもお嬢さんのことを思っているよ」
「……うん……そうだといいな」
名残遅しそうに義明は逸夏を見ていたが、やがて桜の花びらに誘われた。
逸夏達に小さく頭を下げて、そしてゆっくりと背を向ける。
いつの間にか老紳士の背後には誰か女の人が寄り添っていた。その顔は後ろから差す光でよく判らなかったが間違いなく先ほどの河原で義明が見ていた女性だと判った。
女性も同じように逸夏達に頭を下げると二人は手をつないでそのまま桜の中へ歩いて行く。
強く風が吹く。その風は先程までの凍えるような冷たい風ではなかった。春を思わせる暖かい風が桜の香りを抱きながら当たりの全てを愛でるように舞飛んだ。
”ありがとう。貴女がいてくれたから義明さんを助けられた……”
風に乗ってそんな声が響いた。声は甘く柔らかな女性の声だ。義明の妻、幸子の声なのだろう。
「ううん。貴女がずっと傍に居てくれたのでしょう?だからここまで来れたのよ。私は一人では何もできなかった」
「そんなことはないぞ。逸夏の心がこの結果を生んだんだ」
徹にも幸子の声が聞えているようだった。逸夏はちょっと頬を赤くした。
「そうかな……」
”さあ、送りましょう。貴女たちももう戻らなければ……”
「お、力を貸してくれるらしい。助かるね」
行こうかと、再び徹は逸夏の手を取る。徹にこくんと頷き逸夏はもう一度桜の有った方に顔を向けた。
そこにはもう義明たちの姿はなく、桜はゆっくりと花を散らし、その姿を消そうとしていた。
「良かったね、おじさま」
小さく一言呟いた。花向けの言葉として。