Scene10
闇の中でもはっきりと見て取れる程の黒。闇にあってなお黒い。それでも他と区別ができるのはその闇が内包している輝きのせいではないだろうか。
逸夏はその影の前に跪いた。質量のない何かになってしまったとしてもまだこうして残ってくれていた。それだけでほっとして逸夏はその影に手を伸ばす。
逸夏のほっそりした小さな手はその闇をすり抜けてしまう。焦って掴もうとして手をさらに伸ばすと地面に触れてしまった。
影はその中に手を入れても逸夏に対して何の害もないようだ。両手を使いその闇の中を弄って何か触れることは出来ないか探してみる。
ざざっと又強い風が吹く。風は相変わらず周囲の真っ黒な木々を呷って川上へ抜けていく。けれど少しだけその風が弱まっている気がした。
逸夏は空を見上げてみる。変わらず月が冷たい光で照らしてくれている。熱のない光だというのに何故か暖かく感じた。大丈夫だよと言われている気がした。
気のせいでも構わない。今だけでもいいの。私に助ける力をください。真摯な気持ちが溢れてきていた。
見ず知らずの女の子に優しくしてくれた老紳士を助けたい、ただそれだけ。だから、月よ、風よ、大地よ、そして植物たちよ。
そう念じた時、逸夏の手に力が宿った。目で見ても何の変哲もないけれど、でも判る。
もう一度、逸夏は闇に触れようと手を伸ばした。
次の瞬間バチっと電流に貫かれたような痛みが逸夏の手から全身を走った。
「痛っ!」
痛みに反射的に手を引っ込めてしまう。反対の手で指先を包むように掴んでいた。痛みの原因を探るように視線と触覚で手を観察してみるが外傷らしきものは見られない。
「大丈夫か?」
背後から問い掛ける青年の声は静かだ。
痛みで萎えた心を見透かすように静かに問い掛けてくれている。「まだやれるか?」と問われていると思った。理由は判らなかったが全てこの青年に任せたら解決してくれるのではないかと思った。
でもダメだ。助けたいと思ったのは、私だから。
やれないわけない。痛くなんかない。これくらいで泣いたりしないんだからっ。
自分に何度も言い聞かせる。泣いたりしないんだ。子供じゃないんだから。
軽く唇をかんで再び闇に手を伸ばす。
同じようにバチっと痛みを感じる。痛みを感じるという事は触れられているということだ。
荒くなる呼吸を感じながらそれでも影の中に手を入れていく。ゆっくりと闇の中をかき混ぜるように中を探る。
闇は続いている痛みを除けば、暖かい少し年度の高いお湯のような触り心地だった。寒さで凍えた手には心地いいとさえ言える触覚だ。
痛みに買いを顰めながらちょっと気持ちいいかもと思ってしまっている逸夏だ。すでに手の感覚は失われつつある。最初は寒さで、次いで痛みで。
それでも諦めなかった。これくらいの痛みなら大丈夫。さっきも傷らしき後はなかったし。今も感覚は失われつつあるが指が動かないということはなかった。
やがて、先ほどまで吹いていた風がすっかり納まった頃に、逸夏はやっとそれを掴むことができた。
ホッとして逸夏は微笑んだ。そして背後を振り返り、徹の顔を見上げる。
「お願い手伝って」
「おう、任せな」
何をとは問うて来なかった。判っているという事なのだろう。
徹は逸夏の腹の辺りに左手を回し逸夏の体を支え、右手を逸夏の右手首に添えた。
後ろから抱きかかえられる形になったが、逸夏に動揺はなかった。頷く仕種だけで徹が準備が整ったことを伝えてくる。
それを合図に逸夏は力いっぱい握ったものを引き上げた。
物理的な力とは別の力を吸い取られているような感覚を覚える。気力とでも言うのだろうか?みるみる力を吸い上げられて手を放してしまいそうになる。
けれど、それでも手を離さない。ただ心の力、思いだけはしっかりと持っておこうと必死になった。
「いいぞ、逸夏。姿が見えて来た」
精いっぱいすぎて周りの良く見えない逸夏の代わりに徹が教えてくれる。それが何よりの励みになる。
歯を食いしばっている為に返事のできない逸夏は頷くだけで答えた。
大きく息を吸ってもう一度強く引く。逸夏の見えない力が溢れて淡く影の周りを包んでいた。
ゆっくり、ゆっくりと影の中から見覚えのある姿がで引き出されてくる。一歩、二歩と後ろに下がり地面に引きずられるような形で上半身までがその影から抜け出てくることができた。
「良かった……」
出会った時と変わりのないその姿を見下ろして思わず声が漏れた。
やがて全身が引き出された。力尽きて地面にへたり込んでいる逸夏の隣で老紳士は驚いたような情けないような顔つきで逸夏と背後の青年を交互に見ていた。