6.べんきょう
じゅうじん【獣人】
紀元前三千年頃、ヒトが智慧の樹に生る実を食べ、毒による拒絶反応から生き残り、その種族の特徴を受け継いた存在。元がヒトであるため、種族の異なる獣人同士、獣人とヒトまたは異人との交配が可能。その場合、子は獣人もしくは母方の獣人に寄る。種族は哺乳類のみであり、哺乳類以外で獣人に見える者は異人である。獣人から獣、ヒトの姿へ変化できる者が多いため、どちらかの圏内で生活している。獣人のみが暮らす村等もあるが、多くは定住せず、仮住まいにする者が多い。智慧の樹を司っているのがウシであるためか、ウシ族は獣人全体から優遇される傾向にある。病気・毒などに侵されても早期回復し、怪我をした場合も修復する。これは智慧の樹――つまり世界が存在しているのに、『壊れる』という矛盾を修正しようとする力である。この力は獣人の肉体全てに当てはまり、ヒトなどの他者に移植した場合、その者の肉体と共に修復される。獣人の多くは裸足でいるのを好むが、それは獣人が変化する際、質量を世界へ返還、若しくは借受する時に、素足で大地に触れないとできない為。よって、獣人は靴を履くのを好まない者が多い。また、室内に居た場合、空中に居た場合、水中も場合によっては変化できない。
――――参考書を開いた時に、冒頭に書かれている共通の説明文?である。
じゃっく は既にこの説明が、意味不明であった。
自身のことであるはずの『獣人』の項目であるのに、知らない単語が多すぎる。
「なんだよ…智慧の樹って…」
「世界の概念の一つだよ。オレたちは世界でもあるんだ」
「はい、事典」
とーま の解説で、眉間の皺が増えた じゃっく に、透かさず りざ が事典を渡す。
この事典は、ヒト社会には全く流通してはいない代物だ。間違えてヒト社会に紛れるようなことがあれば、物理的に崩壊するようにできているらしい。爆弾でも入っているんじゃねーか、と思いながら恐る恐る じゃっく は覗き込んだ。
―――
ちえのき【智慧の樹】
世界の概念の一つ。最初の人間が口にしたことで、目が開け、原罪を負った智慧の実が生っていたとされている。
実際は、生命体の情報が蓄積された実(見た目はヒトの眼球に等しい)が大量に生っている。樹自体に寿命の概念は無いが、実には存在しており、実を食べることで不死性はなくなり、実の種類により寿命が固定・上書きされる。ただし、実自体が猛毒のため、食べると多くは命を落とす。命を落とさなかったものは、アダム(人名)と獣人のみである。地とウシを司る。
―――
「え…ちょ、眼球って…」
「じゃっく が気にするところは、そこなんだね」
書いてある文章に、じゃっく は怪訝な顔をする。味は違うだろうが、見た目は眼球だ。元が獣なら口にするかもしれないが、元がヒトなら相当の勇気に値するはずだ。日本では、マグロなどの魚の眼球を食べることがあるらしいが、アダム(人名)やヒトはどう考えたって日本人ではない。
「…『獣人の始祖』は、ほぼ全ての種の実を食べたそうよ」
「上書きめちゃくちゃじゃねえか」
りざ の補足に じゃっく の的確な突っ込みが入るが、その応えに とーま が笑った。
「だから きまいら って呼ばれてるんだ」
「あ…」
がさつな母が唯一、女性らしく物語った獣人の昔ばなしの冒頭だ。
『むかしむかし、ある きまいら が あるじ に さからい、はぐがい されていた ニンゲン たちに ちえのきのみ を わけあたえました。』
「はぁ、一応合ってたんだなアレ。嵌合体ってことか」
「私たちもヒトと獣のキメラと言えるけど…」
そこで りざ が口を閉じる。そう、正確には『誤っている』からだ。『ヒト』自体、『何か』とのキメラの筈だ。ヒトという獣になったにすぎない。その上、ヒトは『世界の概念』を保つことはできなかった。恐らく、『何か』が『ヒト』になる過程で失う原因があり、既に『ヒト』であったからこそ、失わずに済んだのが獣人たちなのだ。
「ただ、その事典は人間目線で書かれているから、少し解釈が違うところもあってね。『寿命が固定・上書きされる』って箇所。この文章どおりだと獣人の寿命は司る獣のモノになってしまうでしょ?」
とーま が言うとおり、このままでは、獣人の寿命はヒトよりも遥かに短くなってしまう。野生のウサギは二、三年、ライオンは十年未満、ネコは五年程だ。彼らの年齢ではとうに終わっている。
「私たちの能力や力が、明らかに乗算されていることからも、恐らく寿命も乗算されているわ」
「まあ、お袋も結構あれで、歳いってるからな… ん? 人間目線?」
この事典は、ヒト社会に紛れたら崩壊するモノだ。それなのに『人間目線』で書かれているとは、どういうことなのだろうか。
「おかしくね? ヒトが読まねえモノなのに」
じゃっく の発言に、とーま と りざ が首を傾げた。しばらく二人は考える動作をしたあと、「もしかして…」と りざ が切り出す。
「あなた、人間がヒトしかいないと思っているの?」
「いや、そうだろ」
ヒト――ホモ・サピエンス・サピエンスは地球上に唯一残っているヒト亜族、現生人類だ。ネアンデルタール人やクロマニョン人といった種は絶滅しているし、そもそもヒトだって絶滅危惧種である。
「そっか、じゃっく は異人に会ったことが無いんだね」
とーま の言葉に、そういえば『異人』という単語が、獣人の説明にあったことを、じゃっく は思い出す。交配できるとあったので、赤い靴よろしくのごとく『外国人』をさしているものだと、彼は思っていた。
「代表的な異人は、ドワーフ、エルフ、リリパット、人魚かしら。ドワーフはわりと友好的で、めぇるかい にも来るわ」
「オレ、るかす さん大好き」
とーま の口から『大好き』とう単語が飛び出したことに、じゃっく が大袈裟に反応する。『るかす』ということは恐らく男だろう。話の流れからドワーフなのかは確かか。しかし――
「ドワーフやエルフが存在するって知ったら、親父、歓喜のあまりぶっ倒れるんじゃねーか…」
じゃっく の父親はヲタクだ。現在自宅になっている借家にも、多くの本やゲームを持ち込んでいた。「異世界転生とか、異世界転移してみたい!」と言っていたのを じゃっく は思い出す。
(すげえよ、この集落自体が異世界だよ、てかこの世界に裏異世界があったよ。願いが叶って良かったな、親父)
「倒れるのは心配だなぁ…」
「……そーだな、俺も親父には秘密にしようと、今思ったとこだ」
本当に心配そうな顔で、とーま が言うものだから、じゃっく は思考を切り替えた。実父に嫉妬しそうな自分はいよいよ重症だと、彼は思う。
じゃっく は改めて、参考書と事典を見比べて見た。なるほど、恐らくこの資料はその『異人』たちが、本来は『ヒト』のために記した書物なのだろう。現在、この書物がヒトの手に渡っていないということは、異人とヒトとの交流が断絶されているから…? それでも過去には交流があったのではないか? だから、ヒトの物語に異人が出てくるのだろう。
「他に分からないことってある?」
とーま が顔を近づけ、下から覗き込んでくる。彼らの身長に差はないのだが、とーま はよく小さくなって見上げてくるのだ。可愛い。
「世界の概念がピンとこねえな。ただ、ウシ族が優遇されている。ってとこは納得した。だから集落の長がウシだったのか」
自身を落ち着かせるためにも、じゃっく は少し早口で多くを語る。
集落の長は『あぴす』と名乗るウシの獣人であった。
半獣化形態であるが、とても大柄な男性で、反してとても優しい表情をしており、会話も含めて物腰が柔らかいのが印象的であったのを じゃっく は覚えている。
「バカ言わないで。ウシだからといって、私たちが長にしているわけじゃない。彼の地位は彼の努力の賜物よ」
「…どーだか。長の部屋に飾られていた歴代の長の写真、ほとんどウシだったぜ。世襲制なんじゃねーの?」
「そ、それは結果論でしょう」
りざ の反論がしどろもどろになる。ほぼ世襲制であるのは間違いないようだ。勿論、彼が全くの無努力だとは、じゃっく も思っていない。直接会っているのだ。長は優秀であり、威厳があると じゃっく 自身がそう感じている。
「もう!」とりざ は声を上げ、じゃっく から事典を奪うと、パラパラと捲り始めた。次には自身のノートを一枚手で千切ると、小さなメモ用紙をたくさん作成する。
じゃっく と とーま は 彼女の突然の奇行を黙って見守るしかなかった。本当、女ってわかんねぇ。と思いながらも、とーま が困った顔でニコリと笑ったのが可愛かったので、じゃっく は得した気分になっている。
そんな彼の目の前に、突然ドカッっと音を立てて事典が戻された。事典の間には りざ が先程作っていたメモ用紙がいくつも挟まれていた。
「それ、最低限覚えておくべき項目だから、明日までに全部暗記しなさい。話にならないから」
無情にも告げると、りざ は とーま の手をとり、席を立った。しっかりと彼の荷物も回収済みだ。
初めは目を見開いて事典を眺めていた じゃっく であったが、直ぐに独特の長い耳を小刻みに揺らし、りざ の言葉を聞き取る。慌てて彼女を睨み付けようと見た。
「ふっざけんな…って、ふざけんな!!」
一度目は無理難題に、二度目は とーま を連れていこうとしていたことに気がついたからだ。大事なことだから二回言ったわけではない。
「そ、そうだよ、りざ。明日までにこの量は無理だよ」
「本来、獣人なら『世界』を通じて知っているはずの項目よ。無理なことはないわ。この項目を知らないのは、獣人としての本能が欠如しているとも言える。平たく言えば『無能』よ」
とーま の言葉も、りざ には届かなかった。むしろ、彼女の言葉は じゃっく を煽る方へと転じてしまう。
……最近、彼女の態度に とーま は疑問を抱いていた。
りざ は本来、ここまで感情を露にする女性ではない。冷静であるが、とても優しい。とーま も りざ も互いの両親を失っているからこそ、家族の様に接してしてきた。
その彼女が、他人に――同世代の男性に興味を示し、構うようになること自体珍しい。しかし、その態度はなぜかとても厳しい。不可思議だ。事実彼女は――
「りざ は じゃっく のことが好きなのに、どうしてそんなに厳しいの?」
「…なっ!////」
とーま は疑問を りざ に投げかけていた。瞬間、彼女の顔が真っ赤に染まる。その顔がとても可愛かったので、やはり りざ は じゃっく のことが『好き』なのだと、とーま は再認した形だ。
「あ、あのね。私は別に、そんな男……あ、貴方が 『けるむ』に抱いているような感情、無いんだからっ」
りざ が腕を組んで抗議したところ、次は とーま の顔が真っ赤になる。勿論、じゃっく は彼のその表情を見逃さなかった。とても可愛い顔だ。やばい。
「け、けるむ は憧れている人で…、じゃ、じゃあ、りざ は、オレのこととか、るかす さんに対する『好き』は じゃっく にあるんだよね?」
「! …そ、それは」
話をすり替えようとした りざ をかわし、とーま が反撃に出る。じゃっく にとって彼らは数日間の付き合いであったが、力関係が対等なのは分かっていた。むしろ、りざ は相対的に、とーま に甘い。
「も、もう。れむす と じゃっく だったらどっちが好きなの?」
「じゃっく」
拳の両手を胸元でパタパタしながら、問いかけた とーま に、りざ が即答したのは じゃっく にとって意外であった。とーま 可愛いな、とか惚けた顔で眺めていたので、実に締まらない。
いや、しかし、あのクズオオカミよりは好かれていると思うのは悪い気がしないと、じゃっく は思った。
正直『無能』だと罵られようが、じゃっく は気にしていなかった。真実なのだから仕方ない。彼にとって『例の禁句』を言われなければ、ブチキレることは無いのだ。
「……はいはい、俺が悪うこざいました。まあ、努力してみますよ」
「…半分だけでも良いわ」
じゃっく が折れたところ、りざ もあっさり妥協する。二人の様子にほっと、溜め息を吐いた とーま の腕を、じゃっく が掴んで続けた。
「でも、とーま は借りるぞ」
癒しがないと死んでしまう。別にウサギだからという訳ではない。
しかし、りざ は顔を真っ赤にすると――これは怒りの赤だ――、「とーま に気安く触らないで! 却下よ!」と叫んで、連れて行ってしまった。
「過保護すぎんだろ…あの女」
ネコが、ライオンの首根っこを咥えて持って行く姿に転写する。笑えるよりも可愛いと思ってしまう じゃっく は彼と彼女が好きになっているのだと自覚した。