13.せっしょく
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けるむ との時間はこんなに嬉しい。楽しい。幸せだ。
とーま は本日、何度目か分からない欠伸をしながら、けるむ の体へ身を預け、顔を擦り付ける。
その様子に、けるむ は絶えず彼の毛を手櫛していた。野生ではない とーま の体毛は汚れもなく、ノミなども居ない。輝く黄金色の美しい毛並みは、彼の父親のソレに似てきている。
とーま がまたひとつ、大きな欠伸をしたところで、けるむ は苦笑しながら語りかけた。
「退屈か? とーま」
その発言に、はっと目を見開いた とーま は、慌てて首を横に振る。その速さと勢いは、正にネコだと けるむ は思った。
だが、良かった。彼は僕と居ても退屈では無いらしい。
安堵の溜め息を吐くと、「では」と けるむ は言葉を続ける。
「あまり寝ていないのか? とても眠そうだ」
彼の大きな瞳が今はとろんとしており、瞼を開けるのも億劫そうであった。
指摘されて、とーま の顔がキリッと変わる。「寝ないぞ!」という意思が伝わってきた。同時に彼は器用に爪を一本取り出し、地面を彫って文字を書き始める。このような姿が『人』であるのだと、けるむ に思い出させるのだ。
『けるむ に会えると思ったら、眠れなくて』
書かれた可愛い文字に、けるむ は微笑んだ。
「僕もだ」
彼は告げると、とーま が見えない、感じないであろう位置に口づけを落とした。
***
「ああああああああああああああ!!!」
じゃっく は思わず悲鳴をあげた。
ルーフを閉めている状態の車内とはいえ、この悲鳴は絶対に外へ漏れたであろう。現に、けるむ と とーま の視線が彼らの四輪駆動車へ向いている。流石に中は見えていないようだが。
「ちょっと…どうしたのよ」
「あははは…」
りざ が彼の奇声に不満を訴え、くろー に至っては苦笑している。じゃっく は変わらず、頭に両手を当てていたが、その顔は動揺から怒りへと変わっていた。
「あいつ、とーま にキスしやがったぞ!?」
「き、きす?」
思わぬ発言だったのだろう。りざ が目を見開いて制止してしまう。
「見てなかったのか!?」
「み、見ていたけど…そんなに怒ること?」
じゃっく 再び怒号を浴びせるが、りざ は理解できないという顔をし、くろー に助け船を求めた。くろー は「やれやれ」と呟くと、まず初めにお決まりの言葉を放つ。
「ほら、ヒト社会の特定地域文化では、『キス』なんて挨拶だし」
「日本じゃちげえんだよ!」
彼の父親が持っている恋愛シミュレーションゲームでも、留学生が出てきたらよく見る会話なため、じゃっく も同じテンプレートを返した。
「んー? でもここは日本じゃないしねー」
「じゃあ、アフリカでは、その挨拶あんのかよ!」
「それを踏まえると、獣の…特にネコとイヌは問題ないんじゃないかなー」
「え」
思わぬ返答に、じゃっく が停止する。彼が黙って りざ を見直すと、彼女も首を大きく縦に振った。
「私たち、舌を使って毛繕いをするもの。自分も他も。とーま の場合、肉が削げるからヒトにできないけど、けるむ が手櫛して、口を付ける分には問題ないし… じゃっく はしないの?」
「しねえよ」
イエイヌ、イエヌコは特に愛情や信頼の証しでもするだろう。勿論、動物間でグリーミングを行う生物は多い。猿だって蚤取りをし合う。自身の手入れに限るなら、虫だってするし、ウサギだって当然行う。行うが、じゃっく は基本ヒトとして生きていたのだ。あのがさつな母親が他人に何かするはずがない。当然、父親が全て行っていたが、接吻まではされていない。断じて否。
家族間ならまだしも、他人と? 愛情や信頼の証し? ってことは、けるむ は とーま にホの字の気がないかソレ! もしくは『愛玩動物』だ。
「じゃあ、りざ。俺がお前にやっても問題ないのか?」
「……え」
言われて りざ は想像したのだろう。考え混んでしまった。
しかし、自分で質問しておきながら、じゃっく は彼女に、愛情や信頼の感情が芽生えているのかと問いたくなる。それは彼女も同じだろう。
りざ は漸く結論が出たのか、じゃっく の目を見つめると、「…ええ、大丈夫だと思う」と呟いた。つまり、彼女は じゃっく に愛情、あるいは信頼があるということになる。
しかし、じゃっく は忘れていなかった。
「お前、この前、顔を近づけたら、嫌がったじゃないか」
「え………あ、あれは…! だ、だめ! 口はダメ!」
途端、顔が真っ赤になった りざ は、口元を両手で塞ぎ、拒否を開始する。その様子から口と口を付けるのは、彼女にとって羞恥であることは分かった。
「何だよソレ」
「だって、けるむ は とーま の口にしたわけではないでしょう? 口こそ愛情表現ではないの? 他人とするものでは無いわ」
恐らく、彼女にとって、口と口を付けることは、ヒト社会独特の愛情表現だと思っているのだろう。だが、それは誤解だ。
接吻ならば、チンパンジーとボノボ、プレーリードッグだって行う。イエネコも、場合によってはする筈だ。ネコは指先などの尖ったものの前に鼻を付ける習性がある。
…そう考えると、りざ はかなり中途半端な立ち位置に居るのだと察することができた。
「…じゃあ、けるむ が とーま の口にキスしたらどうすんだよ」
「え。……腹立つわね」
「ちょ、りざ」
りざ の変貌に思わず くろー が突っ込みを入れる。後部座席から聞こえてくる彼女の声色は、さぞかし怖いのだろう。突っ込みを入れた彼の声は震えていた。
コン、コン。
絶妙のタイミングで、運転席側の窓が外から叩かれたため、くろー の悲鳴が車内に響く。両耳を塞いだ りざ と じゃっく は間に合わなかったことに、不満気な顔をしていた。
その様な彼らを、窓越しから けるむ は、かなり驚嘆した表情で伺っている。とーま が言っていたとおり、右目が碧色で左目が赤色の虹彩異色症であった。お星さまかどうかは不明だが、たしかに綺麗で印象的な瞳だと、じゃっく は感じる。
その瞳が細められ、口を開いた動作を認識した瞬間、彼の姿が見えなくなった。
同時に、車体に大きな衝撃と音が響く。
ひっくり返ることは無かったが、揺れたことからも何か巨大なモノがぶつかったのは確かであった。
慌てて じゃっく が 車窓越しに外を眺めると――今まで見たこともない形相の とーま が、一頭の獣として、別の獣に攻撃しているところであった。