林の中の白い家
山あいの道路を走り続け、やっと見覚えのある景色が広がった。車窓からは木々の匂いがして、夏の盛りだというのにずいぶん涼しく感じられる。
お母さんの生まれ育った村だ。
この村には毎年のように来ている優子だったが、今回はお盆の帰省で、遠くの町からお父さんの運転する車でやってきた。
やがて……。
道路の片側に沿って、古い民家がまばらに見えるようになった。小高い段々畑の間にあるのがお母さんの実家で、祖父が亡くなってからは、おばあさんがずっと一人で暮らしている。
それまでの道路から細い農道に進入し、両側に畑の広がる坂道をのぼりつめた。すると広い敷地に、大きな母屋と納屋があらわれる。
車の音を聞きつけたのか、おばあさんが玄関から顔を出した。
三人を見て、おばあさんがにっこりとほほ笑む。
「ここって、いつまでも変わらないわね。あそこも子供のころのままだわ」
お母さんが向かいの林に目を向けた。
二十軒ほどの別荘が、道路をへだてた林の斜面に行儀よく並んでいる。そしてそれらの間には、細い道が縦横に分かれ、背の高いクヌギの木々が涼しそうな影を落としていた。
優子は冷たい麦茶を一杯飲み干すと、さっそく外にとび出そうとした。
そんな優子を、お父さんの声が呼び止める。
「暑いから帽子をかぶるんだ!」
「ちょっと待ってな」
奥の部屋に入ったおばあさんが麦わら帽子を手にもどってきた。
「これな、お母さんが使ってたものなんだよ」
それはひさしの広い麦わら帽子で、色あせてはいるが、花柄のリボンがついていてかわいらしい。
優子は麦わら帽子をかぶってみた。
ちょうど頭にぴったりだ。
「それって、わたしが小学生のときのだね」
お母さんが麦わら帽子を見て、なつかしそうに目を細める。
「そっくりだこと、おまえの子供のころに」
おばあさんは顔をほころばせ、二人を交互に見やったのだった。
太陽が優子の影を庭先の地面に黒く焼きつける。
その影を相手に遊んでいた優子だったが、ふと何かにひかれるように顔を上げた。麦わら帽子のひさしの先で、なにやら白い影が動いたように見えたのだ。
――なんだ、あれだったのか……。
それは向かいの林、ちょうど目の高さにある一軒の白い別荘だった。
――あんなに真っ白だったかしら?
なぜかしら妙に気になる。
優子は見えない糸に引かれるように坂道を下り、さらに道路を横断し、向かいの林の中へと進み入った。
何本ものクヌギの木の下を通り抜け、何軒かの別荘の前を通り過ぎると、道が三方向に分かれた。上にある別荘、左右にある別荘と、行き先がそれぞれに向かっている。
優子は白い別荘へと続く坂道に踏み入った。
坂道の両側には、木々がトンネルを作るように繁っていた。それまでしていた緑の匂いは消え、まわりの影を吸いこんだ湿った空気のなか、優子は海の底を歩くように坂道を歩み進んだ。
やがて白い別荘の屋根が見えた。
敷地へと続く石段は夏草でおおわれていた。人の住んでいる気配は少しも感じられない。
優子はつま先で夏草をはらいつつ、石段の平たい位置を確かめながらのぼった。
別荘の白い壁があらわれて、十段ほどある石段をのぼり終わったところで足がかたまった。思いがけず庭に人影を見たのだ。
女の子だった。
麦わら帽子をかぶり、歩けないのか車椅子に座っている。
「のりちゃん!」
女の子は叫んで、こぼれんばかりの笑顔で優子に手を振ってきた。
――のりちゃんって?
振り返ったが、そこにはだれもいなかった。
「こんにちは」
ほかにもだれかがいるはず。そう思い、優子は奥に向かって大声で挨拶をした。……が、返事は返ってこなかった。
「どうして、ずっと来てくれなかったの。あの日、約束したでしょ、セミを捕ってくれるって」
女の子がくちびるをとがらせる。
――人ちがいをしてるんだわ。
優子は約束なんてしていない。それに、この子とは会うのも初めてなのだ。
「この前、ぜんぜん捕れなかったでしょ。だからおじいさんに頼んで、あれを買ってきてもらったの」
女の子が指さしたテラスには、一本の虫捕りアミが立てかけられてあった。
優子がとまどっていると……。
女の子は車椅子をぎごちなくあやつり、すぐそばまでやってきた。麦わら帽子のひさしからきれいな瞳がのぞいている。
「わたしね、ゆうこっていうんだけど」
「うそ!」
「ほんとよ」
「どうしてからかうの?」
女の子の目に涙が浮かぶ。
――どうしよう……。
なんとかしなくてはと思っても、どうしてよいかとっさに思いつかない。
優子はとりあえず、女の子の機嫌をとりなすようにあやまった。
「ゴメンね」
「からかってもダメなんだからね。だってそれ、あたしのとおそろいでしょ」
女の子が優子の麦わら帽子を指さす。
――おそろいって?
優子はあらためて女の子の麦わら帽子を見た。
女の子の言うとおり、形も花柄のリボンも優子のものとそっくりである。
――でも、それがなんで?
人ちがいされている理由はわからないが、女の子にまた泣かれてはこまる。なにも聞かず、その場をとりつくろうように言った。
「セミ捕ってあげる」
「ほんと?」
女の子が目を輝かせる。
優子は虫捕りアミを取ってくると、すぐに一匹、庭先の木で捕まえた。
「すごい!」
背後で女の子が叫ぶ。
「はい、どうぞ」
優子は捕ったばかりのセミを手に持たせてやった。
「テラスに虫カゴもあるのよ」
女の子にうながされるまま、優子は虫カゴを取りにテラスに行った。
虫カゴはテラスの上にあった。けれども、テラスの床はひどく腐っていて、人が乗って歩けるような状態ではなかった。
――修理しないのかしら?
不思議に思い、虫カゴに手を伸ばした瞬間、優子はさらにおどろくことになる。
目の前の部屋の中はホコリだらけ。天井や壁にはクモの巣がかかっており、人が住んでいるふうにはとても思えないのだ。
優子はおもわず女の子を振り返った。
「ね、あったでしょ」
女の子が何ごともないようにはしゃぐ。
――どういうことなの?
疑問を胸にもどると、虫カゴを渡しながら女の子にたずねてみた。
「今、ひとりなの?」
「おじいさんたち、町に買物に行ってるの」
「そうなんだ」
わずかだが、女の子の言葉から疑問が解ける。
――ここに着いたばかりなんで掃除がまだなんだ。それに車椅子じゃ、あの階段はのぼれないし……。
そんなことを考え、優子はいっときぼんやりとしていた。
「ねえ、もっと捕って」
女の子の声でふと我に返り、優子はあわてて笑顔を作った。
「アミがあるんだもの、あなただって捕れるわよ」
車椅子を庭先の木の下まで押していき、虫捕りアミを女の子の手に持たせてやった。
「捕れるかしら?」
幹にとまっているセミに向かって、女の子がアミを持った腕を伸ばす。しかしふらふらとゆれ、セミはアミの下をくぐって逃げてしまった。
「やっぱり、あたしじゃ捕れないわ」
「もうちょっとだったよ」
優子は女の子をはげまし、別の木の下に連れていった。それから何度かやるうちに、ついに一匹のセミがアミの中に入った。
「捕れたわ!」
女の子が声をはずませる。
「ちょっと休もうか」
車椅子を押して、優子は軒下の涼しい影まで移動した。
「まだ二匹か……」
「わたしが捕ってあげる。ここで待ってて」
女の子を残し、優子は家の横にあるクヌギの木で五匹ほど捕った。
――これだけあればいいか。
もどろうとして何となしに見た外壁が、それも特に窓の上のあたりが、黒くすすけていることに気がついた。さらに窓ガラスも割れている。
優子は窓辺に寄って部屋の中をのぞきこんでみた。
壁と天井がひどく焼けているのが見える。
――火事があったんだわ。でも、そのままにしておくなんて。
優子は新たな疑問をかかえ、女の子のもとにもどることになった。
「いっぱい捕れたわよ」
あえて火事のことにはふれず、セミの入った虫カゴを手渡した。
「ほんとだ!」
女の子がうれしそうに虫カゴをのぞきこむ。それから虫カゴを胸に抱き、目を伏せて言った。
「あたしね。このセミを連れて、お父さんとお母さんの所に行くの」
――来たばかりなのに?
優子は奇妙に思ったが、女の子は心の病気なんだろうと思い直した。
そして自分も帰ることにした。
「わたし、もう帰らないと」
それとなく日暮れ前の空を見上げる。
「もう会えなくなるね」
女の子は淋しそうな顔をしたが、それでも優子を引きとめようとはしなかった。
「さようなら」
優子は手を振って別れを告げた。
「のりちゃん、ありがとう」
女の子は笑顔だった。
ずっと優子のことを、のりちゃんだと思いちがいをしたまま……。
優子は庭を出て石段をおりた。それから林の中の坂道をかけくだる。
クヌギの影が長く伸び、日暮れの近いことを教えてくれた。
道路を渡り、淡い黄昏のつつむ坂道をのぼる。
――ひとりでだいじょうぶかしら?
優子はいく度となく立ち止まり、向かいの林を何度も振り返ったのだった。
家に帰り着くと、すぐに庭先から白い別荘を観察したが、まわりの木々に邪魔され、女の子の姿はおろか庭さえ見えなかった。
「あら、帰ってたんだ」
両腕に木切れの束をかかえたお母さんが納屋から出てきて、その足で母屋に向かう。
母屋の屋根にある小さな煙突の先で、白い煙と火の粉が舞っていた。お風呂の焚き口が外にあり、そこで木切れを燃やしてわかすのだ。
「おもしろそう」
優子は焚き口の前にしゃがむと、木切れのひとつを燃え盛る火の中に放りこんだ。
「どこに行ってたの?」
お母さんもとなりに腰をおろした。
「ほら、白い別荘があるでしょ。あそこの子といっしょに遊んでたの」
「そう……」
お母さんが林に目を向ける。
「その女の子、わたしのこと、ずっとのりちゃんって呼ぶの」
「あら、お母さんと同じだわ」
「そっかあ! お母さん、典子だもんね」
二人して偶然の一致に笑った。
木切れがなくなるころ、
「そろそろいいよ」
声がして、おばあさんが庭に顔を出した。
「あの白い別荘だけど、だれかが使うようになったのかしら?」
「さあ、どうだかねえ?」
「優子がね、あの別荘の子と、いっしょに遊んだって言うもんだから」
「じゃあ、そうなんだろうね」
おばあさんがうなずいて、白い別荘の話はそれでおしまいとなった。
夕食後。
花火をしようと、みんなして庭先に出た。
優子はすぐに向かいの林を見た。
明かりが二つ灯ってはいるが、それらは白い別荘のある位置ではなかった。
――電気、まだ使えないのかしら?
部屋の中がひどくこわれていた。ローソクなどを使っていて、明かりが窓の外まで漏れないのだろうと思われた。
花火を始めてまもなくだった。
いつしか明かりが三つに増えていることに気がついた。しかも三つめの明かりは、ちょうどあの白い別荘のあたりだった。
「ほら見て! あの別荘に明かりがついてるよ」
優子はおもわず叫んでいた。
その声に、みんなの顔がいっせいに林に向く。
「あら、ほんとだ」
「やっぱり、だれか使ってるんだね」
お母さんもおばあさんも、白い別荘の明かりだとわかったようだ。
花火の片付けを始めたときだった。
「あの明かり、大きくなってないか?」
お父さんが白い別荘を指さして言う。
「そんな気がする」
なんとなく優子も、さっきから同じことを感じていた。
「ちょっとおかしくないかい?」
おばあさんは首をかしげている。
「そうよね」
優子も妙だと思った。
ほかの二つに比べ、その明かりだけが大きくゆれているのだ。
「あれって火事だよ。早くしらせないと!」
おばあさんは声高に叫んで、あわてて家にかけこんだのだった。
漆黒の闇のなか。
サイレンの音が山々にこだまするだけで、肝心な消防車はなかなか到着しなかった。
その間。
噴き上がる炎が闇を赤くこがし、灰色の煙が夜空に舞い昇っていた。
優子はふるえが止まらなかった。体の芯は凍りつきそうなのに、握りしめた手のひらは汗でぬれていた。
「二度目よね。優子ぐらいのとき、ここから同じように見たもの」
お母さんが思い出すように言った。
それに、おばあさんが首を振ってみせる。
「二度も火事になるなんて。でも、今日の方がずっとひどいよ。たぶん跡形もなくなるだろうね」
優子は思い出していた。
昼間に見た黒くすすけた天井や壁のことを……。
翌朝。
優子は早くに起き出した。火事のことが気になっていたのだ。
庭に出ると、お母さんが庭先に立って別荘の並ぶ林を見ていた。
「おはよう」
「あら、おはよう。早いわね」
「うん、気になって。跡形もなくなるって、おばあちゃんの言ったとおりだね」
白い別荘は黒いかたまりに変わっていた。
「さいわいケガ人はいなかったって。あの別荘、使われてなかったそうだから」
「じゃあ、あそこの子じゃなかったんだね」
「たぶん、ほかの別荘に来てたのよ」
「でも、車椅子を使ってたのよ。階段があるのに、どうやって行けたのかしら?」
「車椅子って、その子、車椅子に乗ってたの?」
「そうだよ。それにその子、おじいさんたちも来てるって言った」
「あなた見たの、おじいさんたち?」
「ううん、あのときは町に買物に行ってるって」
「じゃあ、その子ひとりだったんだ」
「でね、麦わら帽子なんだけど、あれってあの子のものとおそろいだって」
「おそろいって? その子、優子のことをのりちゃんって呼んでたのよね」
「わたしのこと、その人だって思いこんでるみたいだった」
「そうなの」
お母さんはつぶやいてから、そのままもの思いに沈んでしまった。
ある偶然の一致におどろいていたのだ。
優子と同じ歳の夏休み。
あの別荘に、女の子が療養にやってきた。両親を交通事故で同時になくし、そのショックが原因で足の自由を失ったと聞いた。
女の子は車椅子を使い、別荘には彼女の世話をする老夫婦もいた。
夏休みの一カ月ほどだったが、毎日のように別荘に遊びに行ったものだ。
そんなある日。
あの別荘が火事になった。
女の子はおじいさんに助け出され、町の病院まで運ばれたが、まもなく息を引きとったそうだ。
数日後、おじいさんが挨拶に訪れた。
「おじょうさんにせがまれて、町まで虫捕りアミを買いに行ったんです。帰ったときには煙が部屋中にたちこめておりましてな。もう少し早く帰っておれば、おじょうさんは……。のりちゃんと友達になれて、とても喜んでいたのに……」
おじいさんが言葉をつまらせながら、両親に話していたことを昨日のことのように覚えている。
「まさかとは思うけどね」
お母さんは思い立ったように家に入ると、奥の部屋から一冊の古いアルバムを取り出してきた。
すぐさまページをめくり始める。
「見て、これよ」
ページをめくる手が止まった。
車椅子に乗ったあの子が、子供のころのお母さんと並んで写っている。
二人の頭には同じような麦わら帽子。白黒写真でリボンの色はわからないが、形はまちがいなくおそろいである。
「この子、昨日の子だよ」
「この写真はね、お母さんがあの別荘の前で写ったものなの」
「じゃあ、わたしが遊んだ子って」
「もしかしたらと思ってね」
「ねえ、どういうこと?」
「わからないわ、お母さんにも。ただ言えるのは、この写真はずいぶん前のものだってこと」
「でも、そっくりよ」
「ううん、たまたま似てるだけなのよ。だって、そんなことあるはずないでしょ」
お母さんは多くを語らず、「お母さんの思いすごしなのよ」と言い残し、その場をあとにした。
優子はあらためて写真を見た。
どう見ても、あの女の子にしか思えない。
――どういうことなんだろう?
ひとつずつ順番に、昨日からのことを思い返しながら考えてみた。
白い別荘。
車椅子の女の子。
のりちゃんとまちがわれたこと。
おそろいの麦わら帽子。
セミ捕りの約束。
両親の所へ行くと言った言葉。
前の火事と夕べの火事。
そして、目の前の写真。
ジグソーパズルのマスに、それらのひとコマひとコマを埋めていくようにして考えた。
最後に……。
ありがとうと言ったときの、あの子のかわいらしい笑顔が目に浮かんだ。
その夜。
みんなで送り火をした。
「これはね、ご先祖様の霊をふたたびあの世に送り出すため、こうして火を焚くんだよ」
丸めた新聞紙に火をつけながら、おばあさんが送り火の意味を教えてくれた。
火は小さな木切れへと燃え移り、炎が勢いよくあがり始める。
そのとき。
送り火の炎と火事の炎が重なり、残っていた空白のマスに最後の一枚が埋められた。優子の頭の中で、ジグソーパズルの絵が完成したのである。
あの子が車椅子からおり立つ。
両手をのばし、夕闇の空に向かって昇ってゆく。セミの入った虫カゴを胸に抱いて……。
あの子が振り向く。
笑顔が麦わら帽子からのぞいている。
あの子が星空の中に消えた。
送り火の炎がだんだん小さくなる。
――今、あの子、天国のお父さんとお母さんの所にいるんだわ。
そうであってほしい。
優子は祈るように、炎が消えてなくなるまで送り火を見つめ続けていた。