罷る傾慕と失意の先に
「お兄ちゃん、、」
心配そうな結の声が聞こえた。
時間が止まったように身体が動かない。
思考も停止したように何も考えられなかった。
雫が自分の手の甲に落ちた。
それは自分の涙だった。
結が傍に来ると、顔を伝うヒカリの涙を優しく拭う。
ヒカリはモニターの中で呆然と立ち尽くすシウスを見つめた。
「unknownが、、、弥生なんじゃないかって、、、」
「朧げながら感じていたの、、、」
証拠なんて何も無かった。
しかし鋭いヒカリの勘が少し前からそう伝えていたのだ。
弥生の恋人であるコウは、それを認めたくなかったのかもしれない。
だから潜在的に気付かない振りをしていたのだ。
そして弥生は、黒瀬ヒカリが相川コウと同一人物だと気付いている。
”さようなら、愛しい人”
この言葉が決定的な証拠だ。
きっと弥生は自分の前から姿を消すだろう。
学校だって辞めてしまうに違いない。
ヒカリはどうしたら良いのか分からなかった。
ただただ無力で愚かな自分に、離れて行ってしまう弥生に涙が出るばかりだった。
結がそっとヒカリの背に触れる。
そうして子供をあやす様に優しくさすると、
「弥生さんの所に行ってあげなきゃ、、、」
ヒカリは俯いたまま呟いた。
「弥生は会ってくれない」
「AOと、きっと”黒瀬ヒカリを憎んでいるから、、」
結は首を小さく横に振った。
「そんな事ないよ」
「弥生さんはね、申し訳なく思っているんだよ」
涙目で不思議そうに結を見るヒカリ。
「え?!」
「どうして?」
ヒカリの手を引っ張って立ち上がらせる結。
「恋人で大好きな相川コウが黒瀬ヒカリだった、」
「その黒瀬ヒカリにunknownて言う存在で迷惑をかけたんだから、」
「いたたまれなくなるよ、普通なら」
そしてヒカリを部屋の中央にあるテーブルの前に座らせた。
「だから今から行っておいで」
涙と鼻水でぐずるヒカリは小さく頷いた。
その様子を見た結は苦笑する。
「その前に化粧直さないとね!」
今日は土曜日だ。
本来なら昼までの授業があるので学校に登校しなければならない。
だがウロボロスによる弥生の誘拐事件の後なので、学校を休む事にした。
と言うか、目を覚ますと昼だった。
気を利かせた結が、怪我をしたからと理由を付けて休む旨を学校に連絡してくれていた。
まあ本当の事なので正しい対処だと言える。
兎に角、無断欠席にならずに済んで良かった。
母親の瞳にもそれとなく結が連絡していたようだ。
信用しているのか、はたまた放任主義なのか、ヒカリのスマホには特に着信は入っていなかった。
ホッとしていいのか悪いのか微妙な気持ちになるヒカリ。
それにしても結は良く出来た妹だとヒカリは感心してしまう。
色んな事に目利きがきいて、根回しも出来る。
少し変わった所も有るが、面倒見が良く優しい娘だ。
そして自分には過ぎた妹だと思ってしまう。
それをうっかり口に出したものなら、きっと怒られるだろうなとヒカリは苦笑する。
14時を腕時計の針が指していた。
今日は学生達が一週間の内で、一番長い放課後を楽しめる曜日と言える。
だが生憎天気が悪く今にも雨が降りそうで、外で楽しめる遊びは無理そうだ。
一般的な学生達は友達と連れ立って、カラオケやゲーセン、ボーリングなど屋内で楽しめる事に今頃夢中だろう。
ヒカリは、友達のいないコウには縁が無い事だなと自嘲する。
そして”今”黒瀬ヒカリであるコウは、マンションから目的地まで1時間はかかりそうな道程を徒歩で進んでいた。
9月下旬とはいえ、まだまだ残暑がキツイ昼下がり。
雨が降りそうな雲行きで日差しは無いに等しいが、暑いには暑い。
しかしタクシーを使うのは躊躇われた。
目的地に着くまでの”時間”が欲しかったからだ。
この時間を使って心を落ち着かせ整理する。
これから会う相手に対して、冷静に誠実に言葉を紡げるように。
自分の一番大切で愛しい人、”水樹弥生”の為に。