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「...んん」
瞼を開けると、頭の前半分辺りに受け慣れた重みを感じた。
布団の中に差し込んだままの両手を引っ張り上げて、その冷たいボディに触れてみる。
流線型の感触を返してきたそれは、間違いなくVRゴーグルそのものだった。
どうやらログアウトした後にまたしても寝落ちしていたらしい。どうにかせねばと対策を焦る悪癖って、かえって逆に治り辛いんだよな。
ゴーグルをやっとの思いで外し、カーテンの隙間から零れてくる陽の光に目を細めた。
眩しさに視界が慣れるまで、およそ20秒くらいかかった。最近益々遅くなってきてる気がする。
冬だからって風呂もサボってしまった。この時間帯は空気からして肌寒いから汗もかいていない。
僕はベッド傍に備え付けられたデジタル時計を確認する。6時3分28秒。よし、今日も大した誤差はない。
ぐ、と身を起こして、軽く伸びをした。カーテンを開け放ち、その明るさを一身に受け止める。
ふと視線を向こうにくれてやると、隣の住人はまだ寝息を立てていた。申し訳なく思い、慌ててカーテンを半分ほどずらす。
慣れに慣れた一連の流れを一頻り終えると、僕はゆっくりと布団を剥いで_
車椅子。
...
心因による転換性障害。
別称「失立失歩」。
それが僕に課せられた試練の名前だった。
車椅子に頼る生活_街の真ん中に居を構える総合病院のリハビリ棟に泊まり込む日々を始めてから、もうすぐ2年が経とうとしている。
簡素で背中が痛むベッドにも、薄味で味気ない食事にも、一週間として話さず入れ替わっていく同じ部屋の入院患者にも、当初に比べればもうすっかり動じなくなってしまった。
暫く前に一緒になった初老の男性は(この人は片足を骨折していた)、僕のことを「感情を殺されたんだな」と評した。
きっと脚の不自由と一緒に、素直に笑う為の術も持っていかれたんだろう。
自分の脚に視線を移すと、2年経った今でも身体が尋常じゃないレベルで震え出す。僕は臆病者だから、肝心のリハビリにも身を乗せずにいた。今日も今日とて、転がり込むようにシートへ腰を落としたし。
転換性障害...とはつまり、過去に起きたトラブルや過大なストレスを要因とした諸症状が身体に起きる病気だ。
僕の場合、それは脚に現れた。
掛かりつけの医師は、未だに僕が歩けなかった理由を聞き出せていない。
倦怠感から言わなかったんじゃない。僕は言えなかったんだ。
自覚はあるのだけれど、相当に大きいショックだったのだろう_僕は「その時」の記憶を失っているらしかった。
頭の奥深くに沈み込んだ それ を引っ張り上げようとすると、喉元から熱く、熱く、濡れたものが込み上げてくる。思い出せないもどかしさは、身体にも多大な悪影響を及ぼしているようだ。
ただ窓を眺めて途方に暮れる息子に頭を悩ませた母は、入院生活が始まって一年目、クリスマスの朝に小綺麗にラッピングされた箱を寄越してきた。
包装を開けてみると、中から現れたのは鈍く光るVRゴーグル。
神経に微弱な電気信号を送り、電脳世界へ意識すら纏めてダイブさせる...といった、およそSFアニメくらいでしか聞いたことのない_いやそれが実現した_機能を備えた最新型だ。
「同じ景色ばかりじゃ飽きるでしょ?」と家族みんなで資金を出し合って購入してくれたようだったそれを、僕は半信半疑で頭に掛けてみる。
瞬間、世界が広がった。
...いや、変わったと言っていいだろう。
ゴーグル越しに見えた世界の中で、僕は草原の中を歩いていた。
どこまでも続く地平の中を、彼方に見える太陽の先へ、
ただひたすらに歩いていた。
やがて歩きは走りに変わり、勢い余ってツッ転んだ。
ひっくり返った世界の中で、気付けば僕はわんわん泣いていた。
不思議なことに、僕は「その世界」の中でだけならば平然と歩くことができていた。
走ることだって、飛び跳ねることだって可能だった。
医師はそんな僕の様子を、奇異なものを見るかのような目で眺めていた。とりあえずその場では「現実とは違う空間故に、脳神経が錯覚を起こした」と診断したが、正直なところ未だに詳しい理由は分かっていない。
「私立現隔学園」に入学したのは、生活の大半がヴァーチャルに頼るようになって丁度だった。
そこは最近流行し始めたらしい「仮想現実を利用した電脳世界の中での学校」の一つで、見た話まだ創立(実装、と言ってもいいかもしれない)から2年も経っていなかった。
仮想空間にてアバターを創り、本物さながらの高校生活を送れる画期的なシステム。
発達し過ぎた技術は怖いもので、ゴーグル越しに見えたのは如何にも都会の片隅に建っていそうなオサレ校舎。
僕はたちまち虜になり、またVR慣れした意識はすぐさまに新たな生活へ適応できた。
いくらヴァーチャルといえど、陽の光を浴びれば気分が良くなるというもの。
入学から半月も経たずに、僕は例のカウンター席へ入り浸るようになった。
ある程度のブランクがある為に勉学には苦労したが、生へのモチベは益々高まるばかりだった。
そんな時だったのだ。
僕の隣へ あいつ が割り込んできたのは。
朝食を摂り終えた僕は、真っ先にベッドへ倒れ込む。
慣れた手つきでゴーグルを引っ掛け、頭頂部のスイッチを入れた。
僕の意識は、数瞬とせずに電脳へと消えていく。
思考が切り替わる前に、毎日必ず唱えているおまじないがある。
なに、どこの家庭でも聞くような、ありふれた一単語だ。
そう、ドアを開ければ必ず口にする。
「行ってきます」
【おはようございます、ガクさん】