風化
本当に大事にしているものでも、特別なものでも、いつの日かそれが当たり前になってしまうことがあります。
特別が当たり前になった時、人はそれを普通のことだと錯覚します。
その錯覚に気づくのは失った瞬間。
そんな気づき方、嫌じゃないですか。
君と付き合って4年を過ぎたあたり。ちょうどお互いの存在が、お互いにとって当たり前になってきた頃。
僕はいつものように仕事を終え、君と君が作った夕飯が待っている自分の家に帰る。
大して格好良くもない軽自動車をアパートの駐車場に停め、エンジンを切った。
車のドアを開け、重い腰を持ち上げて車から降りると、美味しそうな匂いが鼻に届いた。
階段を上がると空腹を煽る匂いが強くなる。
そっか、今日は秋刀魚の塩焼きって言ってたな。
「ただいま〜。」
あれ、誰もいないじゃん。
家に上がり、人2人が暮らすにはちょうどいいこの部屋のリビングを覗くと、僕一人分の晩飯が出来上がっていた。
なのに、君がいない。
どこかへ出かけたのかな?…とは言え今は午後10時。
主婦が1人でこんな時間に出かけるなんて、少し考えにくい。
とりあえず連絡を取らなくちゃ。
プルルルルル…プルルルルル…
…出ない。どうして?
その後、3分おきに5回ほど掛け直したが、やはり出ない。おかしいな。
一旦落ち着こうと思い、君が作ってくれたご飯を貪った。
味は凄く美味しかった。けど、喉を通らなかった。
食べ終えたが少し疲れてしまった。
僕が帰宅してから1時間が経った。
それでも君は姿を見せなかったし、それどころか一度も連絡がつかなかった。
警察に連絡しようと思ったが、あまり大ごとになるのは避けたいし、あまり好きじゃない。
自力で探すことにした。
とりあえず、最寄りのスーパー、コンビニ、駅を端から見て回ったけど、それらしい影はなかった。
さすがにこれはまずい。
一度家に戻って警察に連絡しよう。
急いで車を走らせると、角の公園でブランコを漕いでる女性が見えた。適当な場所に車を停め、息を飲んでその女性の元へ駆けつけた。
あれ、この公園…。
近づくほど予想が確信に変わっていく。
そこには悲しそうな顔でブランコを漕ぐ君が居た。
「おい、心配したぞ!!こんな遅くに何し…」
君は涙を流していた。
その綺麗な瞳から流れるには似つかわしくない、大粒の涙。
「…今日のご飯も、美味しかったよ。」
久しぶりに見た彼女の泣いている姿に、戸惑いを隠せず、そんなことしか言えなかった。
若い頃の僕だったら、きっと君を抱き寄せていただろう。大人になったのにそんなこともしてやれなかった。
「……。」
君は何も喋らずに、ギーコ…ギーコ…と、ただブランコを漕いでいた。
「なんかした…っけ?…ごめん。」
「大丈夫。」
あぁ。これは君が大丈夫じゃない時の返事だ。
四年も一緒にいれば分かる。
「…風邪引くから帰ろうよ。」
「嫌。」
「怒ってるの?」
「別に。」
…あれ、四年も一緒にいたのに、なんで君が怒ってるのか分からない。
でもこれじゃ埒があかない。
「何時だと思ってるの?」
「知らない。」
「いいから帰るぞ。」
そう言って彼女の左腕を掴んだ時、全て思い出した。
「…ごめん!!」
君の薬指に飾られた、小さな宝石がついた、指輪。
そうだ、今日は…。
「私、あなたのことすごく好き!」
「どうしたんだよ、急だなぁ。」
「えへへ、付き合って1年経ったけど、やっぱり気持ちは変わらないなぁって!」
「そう言ってもらえると僕も嬉しいなぁ。」
「…結婚したいなぁ。」
「え!?」
「私ね、小さな頃に、白馬の王子さまが迎えに来てくれると思ってたの!けど実際に迎えに来てくれたのは、ダサい車に乗ったあなただった。」
「悪かったね…。」
「ううん。あなたが迎えに来てくれた時、思ったんだ。私はあなたを待ってたんだなぁって。」
「照れるからやめてよ。」
「ふふっ。だから私はあなたと結婚する!」
「…わかった!じゃあ、三年後の今日、僕がもう一度君を迎えにいく。この指輪をつけて待っていて欲しい。その時にちゃんとプロポーズするから!」
「本当!?…けど、三年後ってあなたお仕事してるんじゃない?」
「いいよ。仕事も休むし、急用も断るよ!だからこの公園で待っていて欲しいんだ。」
「…ありがとっ。」
そう言って君は、小さな涙を流しながら笑った。
思えば、あの頃は君のことを真っ直ぐに見つめていた。何があっても君が優先で、何よりも君を大事にしたくて。
あれから3年が経って、僕は仕事、仕事、仕事…。
お陰で僕は新入社員という"駒"から、徐々に職場での立場も責任も大きくなった。でも皮肉なことに、それに反比例するかのように、君のことが見えなくなっていたのかもしれない。
現実的に、現実的に、と考えていたら、あの頃は欲しくて仕方なかった君との結婚のことも、薄れてしまっていた。
何してんだよ…僕。
「こんなに待たせちゃって…本当にごめん!」
「…いいもん。」
「正直に言うよ、忘れてた。君との将来を安定させるためにもっともっと仕事をしなきゃって。そしたら、一番大事な事を忘れちゃってたんだ。」
「こんな失礼な事をしておいて、権利も資格もないのかもしれないけど、1つ言いたいことが…あります。」
「はい。」
「僕のお嫁さんになってください!!」
いつの間にか、君が側にいてくれることが当たり前になっていたんだ。ずっと側にいてくれるんだ、って。
けど、それは本当に幸せなことだと、やっと思い出せた。
将来も大切だ。でもそれ以前に、君の方が大切だ。
誰にも取られたくない。僕が幸せにするんだ。
「よろ…しく、お願い、します…。」
あの時みたいに君はまた、泣きながら笑った。
けど、あの時よりも多くの涙を流している。
「ありがとう。」
あの時みたいに、僕は君を抱き寄せた。
前書きに書かせていただいた、"そんな気づき方"をさせようと思っていたのですが、少し感情移入してしまい、ハッピーエンドを迎えさせました。
春は出会いと別れの季節。なんて事をよく耳にしますが、僕は今手元にある大切で儚い繋がりを抱き締めたいです。