絡みつく因縁
「お湯加減はいかがでしょうか」
お湯がかけられ、水音とかけられた言葉に閉じていた眼を薄っすらと開いた。
ゆらゆらと揺れる水面から両手を出し、温かいお湯を掬い顔にかける。
「……丁度良いわ」
カミラとの会話は挨拶以外ではこれが初めて。
着いて来るように言われた場所は浴室で、広めの脱衣室で服を脱がされそのまま中へと促された。
この世界で王族や貴族のような暮らしをしている者達は前世の日本とは違い、入浴は汚れを落とすのではなく娯楽、又は朝の身支度を整える為に入っている。一般の民は大抵日に一日。仕事の汚れを落とす為に入っているのだが。
浴室の中には広い浴槽があり腰をかけられるようになっている。そこに座り侍女に身体を洗ってもらうのだけれど……。
私やエルヴィス王子のような身分の高い者は日頃身体が汚れることなどまず有り得ない。だから身体を冷やさないよう浴槽内に腰かけ半分浸かった状態になり丁寧に身体を拭っていく。
けれど、今回私は飛んだり跳ねたり海へダイブした所為でとんでもなく汚れていた。
服を脱がしているときからカミラの眉間に皺が寄っていき、手足が黒く汚れている私を上から下に目で一瞥し、無言で浴槽の前に立たせ何度もお湯を掛けながら柔らかな布で拭いていた。
今は冷えた身体を温めるよう肩まで浸かり、浴槽の淵に頭を預け長い髪を洗ってもらっている。
人に身体を洗ってもらうことにはセリーヌの記憶がある為慣れもしたが、お風呂といえばシャンプー、ボディソープで泡を立てガシガシと洗っていた記憶がある所為で逆に辛い。ものの数分で終わる作業が何十分もかかるのだから。その後に待ち受ける肌のお手入れという名の香油を使ったマッサージもかなり苦痛を伴う。これを毎日喜んで行っている御令嬢方は尊敬に値するわ。
「……エルヴィス様のことなのですが」
無言を貫いていた彼女が口を開くのだから余程言いたいことがあるのだろうと、私の髪を櫛で梳きながら呟かれたカミラの言葉に耳を傾ける。
「エルヴィス様がご側室様のお子だということはご存知でしょうか?」
「……えぇ」
「ご側室様は、各国を旅する舞い手の一人でした」
第二王子の言動と行動を見る限りエルヴィス王子の母親は相当地位が低いのだろうとは思っていたけれど、まさか夢物語のシンデレラストーリーをこの国の王が実行しているとは。
「王に見初められ、側室として城へ上がる為に伯爵家である私の家がご側室様を養女として迎え入れ後見人となりました」
「……もしかして、もうお腹にエルヴィス王子が?」
「恐らく。どちらにしても一度王のお手がついた方は側室として城へ上がります。それが貴族であってもそうでなくても……変わりません」
「拒否権はないわね」
「はい。ご側室様は望んで王へと嫁いだわけではありません。全てはエルヴィス様の為。そう言って、気丈に振る舞っておいででした」
「そう」
「ですが、エルヴィス様が三つの頃でしょうか……ご側室様は病を患い、養生という名の厄介払いをされました。その際用意されたのが、この屋敷です」
良くある事だと、そう口にしてはいけない気がした。
シンデレラが幸せなのは結婚するまで。婚約期間くらいだろう。
エルヴィス王子の母親は初めから正妃のいる相手へと嫁いだ。よく言えば側室なのだけれど、言い換えれば正妃公認の愛人。
余程のことがなければ地位の無い者が王家に入ることはない。幼い頃からそういったことを厳しく教育されているのが王族の男性である。
……この国の王は、それすら無視するほどエルヴィス王子の母親を愛してしまったのだろうか。
それとも、一時の火遊びだったのか。
「このお屋敷に来たのはご側室様と数人の侍女。その侍女の中には私も居りました」
「エルヴィス王子は王位継承権を持っているのだから城からは出られないわね」
「はい。ご側室様はエルヴィス様が安全な場所で生きてさえいてくれれば良いと笑っていました」
「安全な場所……ね」
物理的にも精神的にも、城から出て母親の側が一番安全だと思うのは、私が王族だからだろうか?王位継承権など捨てて大人しく生きて行くことが一番楽なのに。
「何故王位継承を捨てなかったの?」
「王が、それを拒否なされました。エルヴィス様は幼い頃から他のご兄弟とは違っていたので……」
「王はエルヴィス王子を王太子にする気だったということ?でも、身体が丈夫ではないと聞いたのだけれど」
「それはわかりません。エルヴィス様のお身体のことを度々口にされていたのは王ではなくご正妃様でしたから」
王子が三人も居れば、どんなに優秀であろうと病弱で後ろ盾のない王子を王太子などにはさせないだろう。正妃がそれを許す筈がない。
「このお屋敷に移られてから一年後でしょうか。ご側室様が亡くられ、エルヴィス様は泣きもせずにジッと亡骸を見つめられていました」
「……」
「今のエルヴィス様のお姿は、あの方なりの精一杯の自衛なのです」
私の髪から手を離し、立ち上がったカミラの射貫くような眼差しにドキッとした。
「ですから、あの方の立場を危うくさせるような真似は私が許しません。それが、あの方の本意でなくても、私は絶対に許しません」
他人などに構っている暇などないのだと、釘を刺されたのだろう。
「兄に繋ぎを取ってもらうだけよ……大丈夫、大人しくしているわ」
身体を起こし、浴槽から出ながら微笑んで見せるとカミラは私から視線を逸らしてしまった。
大国の王妃相手に忠告するなんて、カミラの立場からしてみれば恐ろしいことだろうに。
それだけエルヴィス王子が大切なのだろう。
「第一王子と第二王子はどういった方達なのかしら?」
身体を拭いてもらいながら問いかけると、私の意図がわかったのか「殿下ですか……」と口を開いた。
大人しくしていると私が言っても、あちらの方がちょっかいをかけてくる可能性がある。
現に第二王子は屋敷にまで突撃して来たのだから。
接触しないのが一番なのだけれど、そうはいかなかった場合は情報が一番の武器になる。
「第二王子殿下は……あの通り気性の激しい方ですが、単純な方であまり物事を深くお考えになりません」
さっきのエルヴィス王子と第二王子の遣り取りを思い出し、確かに……と頷く。
「何か不満があれば裏では動かずに、直接エルヴィス様の所へ来ることが多いです」
「子供ね……」
「はい。……ですが、王太子である第一王子殿下は別です。あの方は……とても恐ろしい方です」
王太子といえば……セドア・ボルネオだったか。エルヴィス王子に名前だけは聞いたけれど顔が分からない。
「王子となればそれなりの教育はされているわ。その教育の過程において各自なにを思い考えるのかは変わってくるけれど……大抵の王族は皆恐ろしいものよ?」
「そうなのですが……」
「エルヴィス王子も優しいだけではないでしょう?」
「どうご説明したら良いのか……エルヴィス様とはまた異なった恐ろしさというのか……」
確か、ジェイも第一王子のことは多少評価していた気がする。
どうしよう……カミラが顔を曇らせるほどの性悪王太子になど本気で会いたくない。
「関わらないのが一番なのだけれど。エルヴィス王子が、私をどのように扱うかにもよるわよ」
大きな鏡に映った自身の姿を見て苦笑する。
どこで用意させたのか、お金のかかっていそうなドレスに装飾品。今はカミラに髪を丁寧に拭われたあと香油を付けられ結い上げられている。
「エルヴィス様は……決してリア様を裏切ることはありません」
「エルヴィス王子がそう言っていたのかしら?」
「……いえ」
「一度目はヴィアン国での夜会で。二度目は襲撃されたとき。今回のことで三度目。エルヴィス王子との接点などそれだけよ。ラバン国へ訪れたことがあるとは聞いているけれど、親しくしていたのはお兄様だけで、赤子の私ではないわ」
一癖も二癖もある階級社会に生きている者が裏切らないなどという保証なんて何もない。しかも第二王子を揺さぶって転がし王位を要求するような者なら尚更。
「知らないから……なにも……だから……」
「カミラ?」
独り言のように呟くカミラに声をかけるが聞こえていないのか。
様子を窺いながらカミラの腕に手を添えると、ハッとしたように顔を上げたカミラがきつく唇を噛み締めていた。
「……支度が整いました」
「えぇ……ありがとう」
「では、隣室にお茶のご用意をさせていただきますので、失礼いたします」
何事もなかったかのように部屋を出て行くカミラを見送り、椅子の背に凭れ宙を睨みつけた。
「……なにを知らないのかしら」
カミラの態度や様子から、恐らく口に出来ないようなことがあるのだろう。
裏切らないねぇ……他国の王妃を襲わせたり、夜会に侵入してみたり。それなのに襲撃者から身を挺して庇ってくれたり。
「嘘をつくのも得意そうだし……意地だって悪そう……」
でも、ボロボロな姿になった私を彼は本気で心配していた。それこそ倒れるのではないかと此方が心配になるくらい。
「エルヴィス王子が何を考えているのかなんて、知らないわよ……」
――だって、教えてくれないじゃない……。
不貞腐れるように身体を揺らし、ギシッ……ギシッと椅子が鳴る音だけが虚しく部屋に響き渡っていた。
※※※※※※※※
「で、何故貴方が居るのかしら?」
「あぁ?」
私の為に用意された部屋でお茶を飲むジェイににっこりと微笑んで尋ねてみるが、返ってきた答えは彼の口癖であろう意味のない言葉。
淑女の部屋に勝手に押し掛け、あろうことか主不在中に居つくなんて。
え、本当に自国で騎士なんてやっていたの?もしやジェイの勝手な妄想なのでは?とうろんな目で彼を見つめると、何かを察したのか思いっきり睨まれてしまった。
「……あら?」
「なにしてんだぁ?」
……ハッとし周囲を見渡すがアレが居ない。
エルヴィス王子の私室には間違いなく居た。だって尻尾振ってウロチョロしてたもの。
「フランは?あの子は何処に?」
「あー、あいつならカルと食事の準備でもしてんじゃないか?この屋敷に料理人なんていねぇからな」
「エルヴィス王子は?」
「あいつは……休憩中だ」
「そう」
「……ほんと、おかしな奴だよなぁ。料理人がいねぇとか、休憩中ってなんだ?って疑問にも思わねぇのかぁ?」
「エルヴィス王子の取り巻く環境から色々と察することくらい出来るわ。休憩だってよくお兄様がしていたもの」
「お兄様ねぇ……」
あっ!と口を閉じたときには既に遅く。探るような目で私を見るジェイに誤魔化すように苦笑した。
ふーっと息を吐き、ジェイの対面に腰掛けながらそういえばと疑問を口にした。
「ねぇ、この部屋……他とは違って色々と整えられているような気がするのだけれど」
「まぁ、此処はあいつのお袋さんが使ってた部屋だからなぁ」
エルヴィス王子の質素な部屋とは違い、ある程度お金がかけられている調度品が置かれたこの部屋についてちょっと質問してみたら、とんでもない爆弾が降ってきた。
「大丈夫だろ。もう使わねぇから……」
ジェイは狼狽えた私を見てクッと鼻で笑いながら、最後の言葉はどこか寂し気に口にした。
「エルヴィス王子のお母様は……」
「とうに亡くなってる。知ってたのか?」
「カミラから聞いたわ」
「へぇー、なら覚えておけ。この部屋に通されたのはお前が初めてだ」
「あまり嬉しくはないわね」
「というよりも、この屋敷に入れる女なんてお前くらいじゃねぇのかぁ?」
「カミラもいるわよ」
「カミラは侍女だからなぁ。側室の子とはいえ王子の初めてなんて喜ぶもんじゃねぇのか?」
「……貴方が口にすると誤解を招きそうなものになるのは何故かしら」
「ナニを誤解するって?そこらへん詳しく教えてくれよ」
ニヤニヤするジェイを無視し、そういえばと港でカルと扉越しで会話していたジェイを思い出した。
そうだった、この男はこういったふざけたことを口にするんだった。
「おーい、無視すんな」
「……」
「可愛くねぇ奴だなぁ……嫁の貰い手がなくなんぞ。あぁ、俺の嫁だったかぁ?」
「誰がよ!」
「そこには反応すんのか。誰って、一人しかいねぇだろうがぁ。あの第二王子にもそう宣言しちまったからなぁ」
「それは……そうだけど」
「……あいつにも許可は取ってある。嫁だったら俺が側に居てもおかしなことはねぇだろう?第二王子に目をつけられてる間は、大人しく俺に守られておけ」
ふざけているわけでもなく、真剣な声音で優しく笑ったジェイに一瞬呆気に取られながら、この国へ来て初めて肩から力が抜けたような気がした。
でも、事態は私が思っていたよりも悪く。
ジェイという男が諸刃の剣だということを知らなかった。
※※※※※※※※
「お呼びでしょうか……兄上」
椅子に座りながら冷めた目で実の弟である第二王子、エドル・ボルネオを見つめる男に萎縮しながらもなんとか声を出した。
「エルヴィスの屋敷へ?」
「……はい」
第三王子であるエルヴィスの元へ行ったことを知っているのはエドルと共に居た騎士の者達だけ。もう報告が上がっているのかと驚きつつ背筋に冷たいものが流れたエドルは返事を返すことでやっとだった。
「要件は」
「……とくに理由はありません。ただ、そう憂さ晴らしに奴の元へ行っただけです」
「そうか。私はてっきり、二人で王位の簒奪でも目論んでいるのかと」
「とんでもない!そのようなことは、あり得ません!」
「……でも、話を持ち掛けられて、揺れたらしいじゃないか」
「……」
「馬鹿だな。アレが本当に約束を守るとでも思っているのか?エドルが欲しいものなら私が手に入れてあげるさ……アレとは違い、私達は実の兄弟なのだから」
「あ、兄上……」
「それとも、私に不満でも?」
「ありません!」
ふーん、とつまらなそうな顔をする第一王子であるセドア・ボルネオに脅えるように小さくなっているエドルは何をどう誤魔化したら良いのかわからず口を閉じていることしかできない。
そこへ神の助けとばかりに、書簡を持った侍従が現れた。
これで話が逸れるかと期待し、紙に目を通すセドアを見つめていると「エドル」と何故か名を呼ばれてしまった。
「はい……」
「港で起きたことを正しく報告しろ」
「港、ですか?」
「お前が港で騒ぎを起こしたことは知っている。あぁ、ただし嘘を言ってみろ、弟であっても始末する」
「昨夜騎士団の方へ兄上の所有している船が港へ入ると報告がありました。正式に国の管理下に置いている船ではないので、エルヴィスよりも先に確認に行ったのですが、既に港に停泊していた船にカルとジェイの二名と私兵が居ました。ですので、影を動かしたのですが……」
「あの二名を相手に影数名程度動かしただけでは無駄だろう。積み荷の確認は?」
「しましたが、特にこれといった物はありませんでした。何かあったのですか?」
「あちらの荷物が間違って届いたらしい。大した価値は無いが、即刻送り返すようにとだ。怪しいな。あの男がそんなことで書簡を出すなんて、なにかあると言っているようなものだ……他には?」
「他、ですか……?あ、侍女が、居ました」
「あの伯爵家の者か?」
「……」
目を細めながら笑みを零すセドアから視線を逸らそうとするエドルは、何か他に黙っていることがあると語っているようなものだ。
「エドル」
「はい……」
「ジェイに妻がいるそうだな」
「い、え……。あの、誰がそのようなことを……」
「大丈夫だ、お前は嘘を言っていないだろ?ただ、黙っていただけで」
「……」
「どうやら本当のことらしいな。私はジェイを案じていたのだよ?なにせ、婚約者を奪うような形になってしまったからな」
エドルの額の汗が顎に流れポタッと握り締めていた手に落ちたとき、セドアの背後から細く白い腕が首に絡みつくように回された。
居たのか……と目を見開いたエドルをよそに、セドアは自身の首に回された腕を掴み、手の持ち主を引き寄せた。
「聞いたか、ジェナリア」
「はい」
「元婚約者はもう新しい妻をみつけたらしい。可哀想なジェナリア」
楽し気な声で問いかけるセドアは可哀想などと微塵も思っていないだろう。
下手な芝居だと、声に出さず二人の遣り取りを聞きながらエドルは手の力を抜いた。
エドルにできることなど何もない。
港で見た美しい女性を思い浮かべ……諦めるかのように、そっと目を伏せた。




