獣と乙女
「なんで捕らえられなきゃならねぇんだよ。なぁ?」
不機嫌そうな声で呟いたジェイが呆けていた私を揺らし、初めて真正面から顔を合わせた。
長い前髪から僅かに覗くグレーの瞳と、顔全体を覆っている髭。今迄見てきたキラキラとも平凡とも違った容姿に驚きながら、鎧が鳴る音で意識をボンクラ第二王子に戻した。
顔を真っ赤にし、肩が震えている第二王子は今にも剣を抜きそうで、咄嗟に身構えた私のお腹に又しても太い腕が回されていた。
「泳げるか?」
「……」
「泳げるのか?」
「……ぁ、はい」
返答に困っていると、再度問われた声に圧力を感じ咄嗟に返事をしてしまったのだが、セリーヌが泳いだ記憶が全くない。
そりゃそうだ。この世界で女性が素肌を晒して水の中になど入るわけがないし、あの異常なほど過保護な兄や黒服隊が常にセリーヌの周囲を固めていたのに、何処かで間違って溺れたり……なんてあるわけがない。
チラッと船の向こう側へ視線を投げジェイへと戻すと、軽く頷かれてしまった。
――物凄く、嫌な予感が……。
「しっかり掴まってろよ!」
「ジェイ!!」
一瞬で荷物のように肩に担ぎ上げられ、目の前に居た第二王子の怒声とその手が伸びてくるのを視界に捉えながら、私はジェイと共に船から飛び降りた。
立った姿勢のまま足から飛び込めばどうなるか。
……足だろうが頭だろうが深くまで沈んでいく。直前に肺に空気を出来うる限り吸い込んだけれど水の中に入った瞬間胸が圧迫され口から空気が漏れていく。
段々と暗くなっていく視界に焦り、早く陸地へ……!と手を動かそうとした私をジェイが抱え直した。
上半身を押さえるように抱き直され、何もせずとも凄い勢いで運ばれていく。ドレスが身体に纏わりつき身体が重いし、息を止めているのにも限界がある。
結局、碌に泳ぎもせずジェイに任せっきりで私は無事陸地へと辿り着いた。
「っはぁ!はぁ、はぁ、はぁ……」
現在私は地面に四つん這いになり、涙を流しながら肺に空気を取り込んでいる。
髪もドレスもぐちゃぐちゃで……ラバンの至宝?ヴィアン国の王妃?そんなの今の私を見たら誰も信じてはくれないだろう。
最近こんなのばかりで元のセリーヌのイメージが総崩れだ。
「泳げなかったのか?」
「泳げ……ふ、服を着てください!」
「あぁ?」
頭上からふてぶてしい声が聞こえ、顔を上げた私の目に上半身裸のジェイが映った。
濡れた服を絞っているのか、直ぐ側に女性がいるにも関わらずお構いなしで服を脱いでいる。
咄嗟に顔を背け、服を着ろ!と抗議した私を無視しカチャカチャと鳴る音に背筋が凍った。
「な、にを……」
「このまま移動出来るわけがねぇだろうが。お前もさっさと服を……あ?」
地面を見ていた私の視界にトサッ……とズボンと思わしき物が。
その瞬間、私の脳内で何かがプツンと切れた音がした。
スクッと立ち上がった私に驚いたのか、ジェイの言葉が途切れ。
「淑女の前で裸になるなんて、このっ……変態!!」
立ち上がる前に掴んだズボンを思いっきり引っ張ると、まだ足を通していたジェイがふらつきながら間抜けな姿で静止した。
「……変態だぁ?どこにだよ?」
「貴方よ!私の目の前に居る、ジェイとか言う男のことよ!」
「なんで俺が変態呼ばわりされんだよ」
「服を着なさい!この変態!」
「濡れたままで移動なんて出来ねぇだろ。それにたかが裸で何をそんなに喚くことがあるんだぁ?さっきは大人しかったっていうのによぉ」
「さっき……?」
「アレは良いのか?」
「アレ……?」
「お前、大丈夫か?さっき、第二王子のクソ野郎の前でキスしただろーが」
なるべく顔から下を見ないよう視線を固定していた私に、呆れたように自身の口を人差し指でトントンと叩いたジェイが、あろうことか、キ……キスとか!?
「違うわよ!さっきのは、キ、キ……そういうのではないわ!」
「言えてねぇよ」
「だって違うもの!」
「……口と口がくっついたらキスだろうが。んなもん、ガキでも知ってるだろ」
「……」
「おい、声が出てねぇぞ」
笑みを浮かべからかい混じりに言い返していたジェイが、何か言おうと口を開けては閉じてを繰り返す私に対して段々と妙な表情になっていく。
悲し気な、いや……哀れむような、兎に角そんな顔だ。
だって前世では父親の所為で男嫌いだったし、男の人なんて義理父と姉さんと透君としか交流していないもの。
今世は兄さんと黒服隊しか周囲に居なかったセリーヌの初恋の相手があのアーチボルトだったし。綾としての記憶がある今、好き好んで異性に近づくわけがない。
私だって子供じゃないのだから知識としては知っていた。
でも……あんな……仕方がないじゃない、前世でも今世でも初めてのことだったのだから!
「おいおい……顔が真っ赤じゃねぇか」
唇を噛み締めて首を横に思いっきり振った。
違うわよ!これは、そう、怒りで真っ赤なのよ!
「……ぁー、分かった、そうか……うん、俺が悪かったな」
何を察したのか……駄々っ子を宥めるかのように優しく声を掛けてくるジェイを睨みつけたが相手にされず、本人はさっさと服を着て背を向けてしまった。
「少し歩くぞ」
少し離れた場所でドレスの裾を絞り途方に暮れていた私とは違い、ジェイの行動は早かった。
困惑する私を放置しさっさと歩き出したジェイの後を追い、森の中を進んで行く。
追いかけて来ているか確認もせず、一度も振り返らない彼は一見冷たいように感じるが、私が少しでも歩みを止めると彼も歩く速度を落としていることに気が付いた。
試しに歩くペースを更に落としてみると、彼の歩みも僅かに遅くなる。
頭の後ろに眼でも付いているのか……それとも剣を扱える人間というのは皆出来ることなのだろうか?
口が悪くてデリカシーもない、世捨て人みたいな風貌でぶっきらぼうな癖に、船では散々怒鳴っていた男がお荷物である私に対して一度も文句を言わないのだ。それどころか気遣いまで見せてくる。なんだか可笑しくて、私は声を出さずに笑っていた。
※※※※※※※※
「なんで助けた?」
パチパチと火が弾ける音を聞きながら小さな狩猟小屋の隅で膝を抱えていた私に、向かい側に腰を下ろしずっと口を閉ざしていたジェイが突然そう尋ねてきた。
人里離れた場所には狩猟や林業の期間だけ簡易的に住居にするログハウスのような物が建てられている。それ以外の時期では荷物を保管したり、天候が崩れた時の避難場所にもなる。
ジェイに促されて入った場所がそれだった。
王都付近の森には王族が使用する為に建てられている小屋もあるが、これは平民が使っているものなのだろう。なるべく距離を空けて座っても小屋自体が狭くて意味がなかった。
で、小屋に着いてから今の今迄一言も口を開かなかった男が突然発した言葉が「なんで助けた?」だ。
思わず首を傾げた私に溜め息を吐いたジェイが憎らしい……。
「なんで、あのまま隠れていなかった」
「……」
「態々第二王子の意識をお前に向けることはなかっただろ。斬られなかったのは偶々だぞ」
「何の話かと思ったら、そのことね。あれは恩を返しただけよ」
「恩だぁ?何のことだよ」
「二度、貴方には助けて貰ったわ」
「助けた覚えはねぇなぁ」
「一度目は、私を放り投げたときね」
「……アレを助けたとは言わねーだろ」
「動けなかった私があのままあの場に留まっていたら、敵に斬られていたわ」
「邪魔だったから退かしただけだ」
「それに、麻が積まれていた場所に狙って私を投げたでしょ?他の二人は慌てていたけれど、貴方は振り返ることなく怪我がないのだからと言っていたわ」
「偶然だろ」
「二度目は、第二王子から逃がす為に態と言い成りになっていたこと」
「呆れたやつだなぁ……良い方に解釈し過ぎだ」
「大人しく膝をついた貴方に、やけに素直だと第二王子が言っていたじゃない。先程の立ち回りからして、貴方が大人しく言うことを聞くような人だとは考えられないわ。初めから逃げる予定だったのなら、第二王子に従う必要なんてなかったのよ……私達が居なければ」
「……」
黙ったまま真っ直ぐ私を見つめるジェイに居住まいを正し床に手をついた。
「その肩の傷は私の所為だわ」
「自惚れんな」
「それと、恩を返したと思った矢先にまた増えてしまったの」
「あぁ?」
「助けたつもりが助けられてしまったわ。第二王子から守ってくれたでしょ。だから、ごめんなさい……それと、ありがとう」
「おい、止めろ!」
頭を下げた私に怒鳴ったジェイは「俺は、そんな良い人間じゃねーよ」とポツリと零した。
肩の傷はジェイが布で止血してしまったからどんな状態なのか分からない。
私を抱えながら泳ぎ、碌な手当もせずに小山まで歩き、着いてそうそう火を熾し……その間一度も苦痛の表情を見せなかった。痛くないわけがない。彼が脱ぎ捨てたシャツは血が滲んでいたのだから。
「もう良いだろ。顔を上げろ」
「……」
「おい!」
「……」
「あぁぁ、分かったよ!その礼を受けとりゃあいいんだろうが」
「えぇ。良かった、ずっとこのままなのかと思っていたわ」
「……お前、良い性格してんなぁ」
「お互い様よね」
唸るジェイに口元が緩み、笑みを浮かべそうになるのをグッと堪え頭を上げた。
案の定頭をガシガシ掻きながら不貞腐れている彼ににっこりと微笑み、睨まれる前に火に視線を戻した。
最初に感じていた恐ろしさが薄れ、案外良い人なのでは?と思い始めてきたことに苦笑しつつ半乾きのドレスをそっと撫でた。
黒髪と一緒に行動しているであろうフランも心配だけれど、私がいなくなった後の後宮の方が気になる。
ウィルスとテディとアデル、アネリ達は無事なのだろうか。怪我などしていなければ良いのだけれど……。
あの場には王であるアーチボルトも居た。彼に何かあれば騎士など直ぐにでも処分されてしまう。ベディングなどこれ幸いとウィルスに何かしてくるかもしれない。
それに、もう夜も明け手紙を出す時間などとっくに過ぎてしまっている。私の手紙を待っている兄が異変に気付けば国を巻き込んでの大騒ぎになってしまう。
……いや、もう既に影が動いて兄に知らせているかもしれない。
本当に、これからどうしたら良いのか。
「このまま日が暮れるのを待って、屋敷に戻る」
「屋敷?」
あれから又暫くは無言を貫いていたジェイの唐突な言葉。
日が暮れてから動くのは第二王子を警戒してのことなのだろう。
でも屋敷とは?誰のとか、何処のとか、この人は主語をどこへ置いて来たのだろうか。
「あいつの屋敷だよ。俺も昨夜こっちに戻ったばかりだから報告しなきゃいけないこともある。ついでに連れて行ってやるよ」
「……エルヴィス王子」
ジェイはこの国の第三王子であるエルヴィス王子の護衛騎士だと黒髪から聞いたことを思い出し、思わず王子の名前を呟いてしまった。
それに怪訝な顔をしたジェイからピリピリとした空気が流れ始める。
「お前、あいつのなんだ?」
「何と言われても……返答に困るわ」
「あいつの子飼いか何かかとも思ったが、貴族だろ」
「……」
「その着ている物もそうだが、お前はどう見ても貴族のお嬢様だ。それも上級貴族の、な」
「貴方の勘違いかもしれないわよ?」
「あり得ねぇな。俺も一応は元貴族だ。平民を貴族と見間違えたりしねぇよ」
一瞬誤魔化せないかと思ったけれど、そういえば彼は第二王子に『我が国まで名を轟かせた元騎士』と言われていた。黒髪だって戦争捕虜だと言っていたではないか。
この目の前に居るボサボサ髪で髭を伸ばしっぱなしの男が元貴族で凄い騎士様?
「嘘でしょ……」
「あぁ?」
ドスの効いた声音にハッとし咄嗟に口元を押さえたが、遅かった。
「……で、何者だぁ?」
「貴方には関係が無いと言われていたでしょ」
「子飼いにしては無知で無力。血を見て真っ青になる癖に妙に度胸はある。俺相手に怯まねぇしなぁ」
「……」
「随分とお上品な喋り方だが、没落貴族のお嬢様か?」
「……」
「俺みたいな奴隷を登用するような奴だ。訳ありの女を匿っていても可笑しくはねぇからなぁ」
「……」
「答えねぇか。まぁ、何でもいいんだけどなぁ……あいつの、エルヴィスの邪魔にならなければよぉ」
口角が上がっている口から発される声の冷たさに血の気が引いていく。喉元に剣を突きつけられているかのような恐ろしさを感じ、ジェイに殺気を向けられているのだと理解した。
「勘違いすんな。俺は良い奴でも優しい奴でもねぇ。お前が助けられたと思ってるのも勝手だぁ。けどな、あいつの足を引っ張るようなことをしてみろ……殺すぞ」
戦争捕虜となった男は奴隷にされ闘技場で飼われていた。
想像を絶するほどの日々を過ごし、そこから救い上げたのが第三王子だということは分かる。
でも、元を正せばオルソンという国が元凶であり、第三王子も憎むに値する相手。
「何故、そこまでエルヴィス王子を想うの」
「あぁ?」
「貴方の国を滅ぼし、民や家族を奪った国の王子よ」
「お前……家族を目の前で失ったことは?」
「……ないわ」
「民が、国が燃えて行く様を見たことは?」
「……ないわ」
「なら、お前の質問に答えることは無意味だ。俺の想い?そんなものお前に分かるわけねぇだろ」
「……」
「想像だけなら誰でも出来る。けどなぁ、それになんの意味があるんだ?俺の事を知ろうとしてお前になんの得があるんだぁ?同情か?慰めてでもくれんのかぁ?」
「私は他人に施しが出来るほどなにかを持ってはいないし、貴方と同じ様に優しくはないわ」
「へぇ……どこぞの聖女様のように薄っぺらな言葉を吐いたりはしねぇんだな」
「疑問に思っただけよ」
「……だったら」
一瞬だった。
それ程離れていない距離を詰められ、私は床に身体を倒されていた。
「その疑問に答えたら、お前は何をしてくれんだぁ……」
「……退いて」
覆い被さるように上にいるジェイは掠れた声で囁き、私の手首を掴んでいる力を強めた。
「……っ」
「手負いの獣を刺激するなって、教わらなかったのかぁ?」
――手負いの獣。
まさにその通りなのだろう。彼の心の傷に不用意に触れてしまったのだ。
「なぁ……守るべき主を、尊敬していた騎士を、愛していた弟を……何も出来ず見殺しにし、自分だけおめおめと生き残った男を慰めてくれよ」
目元を覆う程の長い前髪の下に隠れていたグレーの瞳は増悪に染まっていて、彼の口から零れる甘い言葉とは真逆だった。
「……おい」
こうして組み敷かれるのはアーチボルトとこの男とで二度目。
何故、男というものは理不尽に力で押さえつけようとするのだろうか……。
上手く呼吸が出来ず、視界がぼやけていく。掴まれている腕に力が入らず暴れることすら出来ない。
「……おい、呼吸しろ!」
頬を叩かれたのに痛みも感じない。ジェイがなにか言っているみたいだけれど……。
『綾、もし貞操の危機に陥ったら……容赦なく、急所を狙いなさい』
唐突に思い出した姉さんの言葉。
あの時は何を言っているのかと呆れていたけれど。
『可哀想などと思っては駄目。一撃で……潰しなさい』
意識がハッキリし、ぼやけていた視界の先には目を見開くジェイの顔が。
咳き込みながら、腕が解放されていることに気付き「潰せ!」という姉さんの声がハッキリ聞こえた気がした。
「ごほっ……っ……さっさと、退きなさい!」
だから、ゆっくりと足を動かし……一気に膝を立て、男性の急所へと叩きこんだ。
「……っあ!?」
きつく眉間に皺を寄せ、苦痛の表情を浮かべるジェイは呻き声を上げゆっくりと私から退いた。
そう……這う様に移動している。
「……ジェイ?」
「……っ」
「えっと……大丈夫?」
床に蹲ったまま動かないジェイから距離を取りつつ尋ねてみた。反撃が怖いから一応床に落ちていた木を持って。
「ちょっと、黙っとけ……」
「でも」
「いいから、黙れ……」
思っていた以上に酷いジェイの状態に内心焦っていた。
日頃鍛えている騎士なのだから、急所といっても隙をつけるぐらいのダメージしか与えられないものだと思っていた。
手足が自由なのだから、その隙をついて何とか下から抜け出そうかと……。
「あの……ごめんなさい。潰れちゃったの?」
「お前っ!?ほんと……黙ってくれ……」




