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 どこをどう走ったのか。どこで疲れて歩き出したのか、よく覚えていない。

 気づいたときのわたしは、「自暴自棄」という四字熟語を作った人に称賛を送りたいくらい自棄になっていたのだな、と自分のことを振り返れるくらいには冷静になっていた。

 前方では道路工事がおこなわれている。作業着姿の男の人たちがけたたましい音の出る機械で古い道路を破壊していた。片方の車線が通行止めになっていて、四台の車が列を成している。

ここはどこなのだろう。

学校から走って来られる位置なのだから、そんなに遠いところではないはずだけれど。

 わたしはどんどん藍色に追いやられていく空の朱色を見ながら、途方に暮れる。スマートフォンは教室の鞄に入れっぱなし。スカートのポケットに、千円をチャージした磁気カードの定期券があるのが唯一の救いだった。

「どうしたもんかなぁ」

 いつもとは違う感触のアスファルトを上履きで踏みしめながら、わたしはぼやいた。

 んん?

 既視感がわたしの目に数度の瞬きをさせる。

 妙に信念を感じさせる姿勢が、蛍光の黄色いラインの入った紺色の制服を着ている。頭には白いヘルメット。

 久世だった。

 対向車線の車がなくなったのを確認すると、止めていた四台の車をオレンジに光る棒を操り、流していく。その動作には、洗練が感じられた。始めて一、二週間の者の動きではない。ような気がする。交通整理をする人をまじまじと見たことがあるわけじゃないけど。

 わたしが見ているだけでも、久世は何回も頭を下げていた。車を止めるたびに、車を流すたびに。わたしが知っている久世ではないような気がした。なんか見てはいけないようなものを見てしまったような気がした。

 久世はわたしの視線に一向に気づかない。それをいいことにわたしは、車のライトなんかで照らされる久世の横顔を見続ける。この前の妙に見下された物言いへの意趣返しのつもりで、わたしは久世が真面目に頭を下げる様を見続けてやった。


 わたしが家に帰り着いたのは、午後の八時を過ぎた頃だ。

 久世の姿を見て、わたしもなんかバイトをしようかな、なんて思い始めている。そういえば、近くのコンビニエンスストア「ファミリースポット」でアルバイトの募集をしてなかったけ……などと考えながら、わたしは家のドア前に立つ。

 鍵は、もしものときのために郵便受けの裏側にガムテープで貼り付けられているスペアキーを使うことにする。このときばかりは、臆病なお父さんの発想を褒めたくなった。

鍵を取り出したわたしは、ドアの鍵穴に静かに挿し込んで開錠すると、玄関へひっそりと足を踏み入れた。

 靴脱ぎに、通学用の革靴があった。

わたしは今履いている上履きと見比べて、「あっちゃー」と手で目元を覆う。おそらくリビングにはわたしの鞄があり、すべてを知ったお母さんが鬼の形相をして待っているのだろう。

 わたしは意を決して廊下に上がると、気配を消して、足音を立てないように歩を進める。心理的には匍匐前進をしているようなものだ。

 リビングのドアは閉まっている。

 なんとかここを通り過ぎれば、わたしの部屋へと通じる階段が待っている。

「葵!」

 お母さんの怒鳴り声が、リビングのドアを震わせた。数分後に訪れる憂鬱を前借した気分のわたしは、がっくりとうなだれる。


 リビングのドアノブをゆっくりと回して中を見ると、お母さんとお父さんがソファに座っていた。

「お揃いで……」

 わたしはテーブルの上に置かれたスクール鞄を認める。きっと担任か誰かが持ってきたんだろうな。わたしが仕出かしたことを報告し、ご両親からもきつく注意してください、とかなんとか言い添えて去っていったんだろうな、という想像がもたげる。たぶん当たらずとも遠からずといった感じだろう。

「ちょっと、そこに座りなさい」

 お母さんが向かいのソファを示した。

 わたしは言われた通りにソファに座る。一瞬、お父さんと目が合ったが、わたしはすぐに逸らした。

 お母さんの説教は「少しは考えなさい!」という言葉で始まり、いかにわたしの行動に思慮が足りないかを、いろんな言葉で表現してきた。普段の語彙は少ないくせに、なんでわたしを怒る言葉はこんなに多彩で次から次へと溢れてくるんだろう、と不思議に思いながら聞き流す。

「アンタ、自分の言葉でどれだけ人を傷つけてるかわかってるの!?」

 別に傷つけたいわけじゃない。言いたいことを言ったら、たまたま人が傷ついただけだ。それが運悪く数回続いただけだ……などと内心思っても、口に出したら火に注ぐ油になることくらいわかっている。わたしは黙って下を向くしかなかった。

「葵! 黙ってないで……」

 お母さんの言葉が途中で止まった。

 わたしは顔を俯けたまま、目だけで前方のソファを見る。

 お父さんの手がお母さんの言葉を遮るように差し出されていた。

「葵……」

 お父さんの声に棘はない。抑揚もない。

 わたしは無言を貫く。

「葵が、父さんのこと嫌うのも、情けないって思うのもわかるよ……それはしょうがないし、父さんにはお前を叱る資格もないだろう」

 顔は見てないけど、きっと力なく苦笑いを浮かべてるんだろうな、と思う。

「だけどな……」

 しばらくの間があった。言葉が見つからないのではなく、言いづらいことを躊躇っているような沈黙だった。

「父さんのこと、言い訳にするのだけはやめてくれないか」

 胸の奥にある空気を絞り出したような声に反射的にお父さんのほうを見てしまった。見なければ良かった、と後悔したけど、それは後の祭りだ。

 お父さんはわたしに向かって頭を下げていた。

腰からきっちりと折って、まるで上司やお客さんにするようなお辞儀だった。

 気持ち悪い。

 吐き気とも違うむかつきがわたしの喉を上下する。久世が交通整理で頭を下げている姿を見たときとはまったく違う感覚だった。

 お父さんはいまだに娘に向かって頭を下げている。

「頼む……この通りだ」

 床に向かって力強い声が吐き出される。

 わたしは立ち上がっていた。

 お母さんと目が合う。充血した目で、わたしのことを憎んでいるみたいに睨んでいた。

 何もできない。

逃げることしか頭に浮かばなかった。

酸欠になりそうな空間に、わたしは背を向ける。後ろでお母さんが何かを言っていたが、ドアの開け閉めを乱暴にすることで聞こえないようにする。

わたしは階段を駆け上がり、自分の部屋へと逃げ込んだ。暗い部屋の中でドアに背を預けると、ズルズルとお尻を床に落とす。

 違う。こんなことを望んだわけじゃない。じゃあいったい何を望んでいる? 何がしたいの? どうなりたかったの?

 喉にあった気持ち悪さが、胸に、そしてお腹のほうへと広がっていく。

 答えの出ない自問自答が頭の中をグルグル回っているのに、なぜか瞼の裏には交通整理をしている久世の姿が浮かんでいた。



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