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「おはよー」

 制服を着てダイニングへ来たわたしは、キッチンで朝食の準備をしているお母さんの後ろ姿に欠伸交じりに声をかけた。

「おはよう」

 そう返してくるお母さんは、昨日の反省からか、すでに用意の終わっているお弁当をテーブルの上に置いた。

 わたしは「どうも」と言いながら、チラッと目を横にやる。

「お父さんなら出かけたわよ」

 わたしの心情を読んだようなお母さんの言葉だった。

 確かにリビングには誰もいなかった。

 わたしは「ふーん」とテーブルに着き、皿に置かれていたトーストを齧り出す。

「あんたに気、遣ってんのよ」

 お母さんは目玉焼きを空いた皿の上に盛る。

 わたしはその黄身にかけるべく、イタリアンドレッシングを手に取った。

「葵」

お母さんに呼ばれ、「ん?」と返事を返す。

「ちゃんとお父さんに謝りなさい……いつでもいいから」

「なんで? わたし、なんか間違ったこと言った?」

 雲行きが怪しくなるのを感じたわたしは、早々に目玉焼きを掻き込む。

「あのね、葵。お父さんだって一生懸命やってるのよ」

「勘弁してよ。一生懸命やってダメなんて、救いようないじゃん」

 つくづく思う。わたしは間違ったことは言っていない。でも、それが相手の感情を逆撫でするのはよくあることだ。

「葵!」

 案の定、お母さんは怒鳴り声を上げた。

わたしは残り一口になっていたトーストを口の中に押し込むと、「行ってきます」と退散した。抜かりはない。ちゃんとテーブルの上にあったお弁当は持った。


 教室の中は、ホームルーム前の浮ついた空気で充満していた。

 窓際後方の席に着いたわたしの横に、いつも通り千絵はやって来る。

わたしは昨日のことを話した。

「久世って、あの久世? 中学んときの?」

「うん」

「私苦手だったー。面はイケてんだけど、愛想がないのよね」

「イケてたかぁ?」

 わたしは顔をしかめる。確かに愛想がないのは変わってなかったけど。

「で? なんの話したの?」

「チケットくれって、言われた」

 今でも意味がよくわからず、わたしは首を傾げる。

「何? なんのチケット? 私にもちょうだいよ」

 千絵はもらえるものはなんでももらう主義だ。そういう自分の欲に正直なとこは羨ましいと思う。

「だから持ってないって。訳わかんないし、チケットて……それよりなんかすごく見下された感じがしてさ……」

 わたしが膨れっ面をして言うと、千絵が物分りの良い大人のような表情をする。

「そりゃ見下すでしょ。片や、県内トップの公立高校」

そう言って千絵は掌が上になるように右手を差し出した。

「こちトラ、進学率50%未満の私立」

 同じように左手を差し出した千絵は、秤のようにした両手の状態から右手を上げ、左手を下げる。

「見えてる地平が違うっしょ」

 千絵の言っていることが正論に思えるだけに「そーなんだけどさあ」と悔しがることしかできない。

 そのときだ。

「すごくない? これティファニーの新作じゃん!」

 教室の中ほどから、悲鳴かと思うくらいの女子の歓声が聞こえてきた。

 わたしと千絵がつられてそちらのほうを見やると、教室の真ん中あたりに女子の人だかりが出来ていた。その中心にいるのは、尾崎舞子というクラスでも一、二を争う綺麗めの女子だ。ちょっとケバいのが難点だけれど。

 先ほどの声はその取り巻きの一人のものらしい。

「別にすごくないってぇ。そんな高いモンじゃないし」

 舞子は鼻にかかる甘ったるい声を出しながら、茶色い巻き髪を揺らす。

「なんかさ、どっかのキャバクラでバイトしてるらしいよ、舞子……年ごまかしてさ」

 千絵が一段声を低くした。

 舞子の雰囲気に加え、身に着けている高価そうなブレスレットやピアスなんかを見ていると、あながちただの噂ではないような気もする。でも、別にわたしはそれが悪いことだとも思えない。

「むしろいいんことなんじゃない。働けるところがあるって、必要とされてるってことでしょ」

 脳裏にリビングで証明写真を切っている中年男の背中がフラッシュバックした。

 不意に舞子が「あ、そうだ!」と左手首に着けられたブレスレットを弄びながら、一際高い声を上げる。

「このブレス、ダブっちゃってんだよねぇ。二つあっても意味ないし、ジャンケンで勝ったラッキーガールにあげちゃおう。集えー、参加者ー!」

 いきなり目の色を変えた千絵が、わたしの横を突っ切って走り出した。

「ハイ! ハイ! 参加ー!」

 手を挙げた千絵がすごい勢いで舞子のほうへと向かっていく。

 出し抜けに始まった女子十数名のジャンケン大会を、その中心で眺めている舞子は満足そうに見えた。

「誰が一回勝負って言ったのよ! こういうのは普通三回でしょ!」

 どうやらジャンケンに負けたらしい千絵が鼻息を荒くして食い下がっている。

 わたしが大きく欠伸をかましたとき、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。


 教壇では大学を卒業して二年目だ、と自己紹介していた若い女の先生――確か園田という名前だったと思う――が、今扱っている物語文の人間関係を黒板に図解している。

 六限の授業は現代文だった。

登場人物の心情などに興味のないわたしの目線は、窓の外へと吸い寄せられる。そこから見えた園芸部が世話をしているらしい花壇が、中学時代の思い出を連想ゲームのように連れてきた。


 あのときわたしは、「野田中学」というダッサいロゴが入ったジャージを着ながら、花壇に立って、自分の右手を睨みつけていた。厳密にいうと、右手の中指と人差し指に憎悪に似た感情を抱いていた。

「おい、上永」

 傍らで同じくイモジャージを着ながら土を耕し、肥料を混ぜている久世――あの頃はまだ、わたしとそんなに身長は変わらなかった――が、首に巻いたタオルで額の汗を拭きながら、わたしに険のある視線を投げてくる。

「何やってんだよ。てゆーか、何もしてねーのはなんでだよ」

「憎いの」

「え?」

「わたしは今、この二本の指が猛烈に憎いのよ!」

 人差し指と中指を久世のほうに向けた。絵面だけ考えれば、わたしが久世にピースサインをしているように見えなくもない。

「何言ってんだよ?」

 久世の瞳には憐みが浮かんでいる。

「この二本があんとき、ちゃんと主張してれば、私はチョキを出せたのよ!」

「はあ?」

「なのにコイツら、妙に消極的で、お陰でこんな面倒な作業押し付けられて……」

 わたしは足元に転がっているスコップにがっくりと視線を落とした。

「スゲー発想だな。ジャンケンに負けたことさえ、自分以外のせいにできるなんて」

「マジ? やっぱスゴいかな、わたし?」

「全っ然褒めてねえけど」

「あ、そ」

 わたしは不貞腐れる。

「いい加減、負けたこと受け入れろよ。そうしねえと、明日の朝になっても終わんねえぞ」

 久世が作業に使っていたスコップをザクッと土に突き立てた。

これ以上愚痴ると本気で切れられそうだな、と察したわたしは、「わっかりましたー」と気怠く言って、足元のスコップを拾う。

 あとはひたすら、土を掘り返す音がするばかりだったけど、集中力の続かないわたしは、よくこんな単調労働に没頭できるもんだ、と感心しながら久世の横顔を眺めたりした。


「上永さん……上永さん!」

 怒りをはらんだ声に、わたしの意識は中学時代の思い出から、現代文の授業に引き戻された。見ると、さっきまで教壇にいたはずの園田先生が、わたしの横に立っている。

 軽く微笑んでいるものの、その表情はうちのお母さんを彷彿させる。どうやら腹を立てているらしい。

「上永さん」

 わたしの目の焦点が合ったのを確認したのか、先生に再び苗字を呼ばれた。

「はい?」とわたしが返事をする。

「外見てて、そんなに面白い?」

「まあ、先生の授業よりは」

 厭味ったらしく訊かれたので、口が滑って本音が漏れてしまった。

 その甲斐あってか、先生の顔にお情けで貼り付いていた微笑が剥がれ、表情に先生の心情が表れる。これならさすがに、現代文が苦手なわたしでも、どんな心情か答えられそうだ。

「あなたね、そうやって不真面目にやることがカッコいいみたいに思っているのかもしれないけど、それってすっごくカッコ悪いのよ」

「別にカッコ良さとか求めてないですけど……」

「そうやって屁理屈ばかり」

 屁理屈ではない。本当にカッコ良さなど求めていないのだ。わたしの心に負のドライブがかかり始める。さて、どうしたものか。

「うるさいなと思ってるでしょ?」

「いいえ」とりあえず嘘をつく。

「顔がうるさがってるわよ……いい? 私はね、アナタに後悔してほしくないから言ってるの。社会に出てから『あのとき真面目にやっておけば良かった』って思ったって遅いんだから」

 それは今のわたしにとっては地雷のような説教だった。踏み込まれた以上、わたしも爆発しなきゃならない。

「……じゃあ、質問です」

「は?」

 自分が怒っている最中に、質問されるとは思っていなかったのだろう。先生がわたしを見る目を丸くした。

「うちの父はなんでリストラされたんですか?」

先生が「え?」と声を詰まらせ、静観していた教室内のみんなも小声で騒ぎ出す。

 わたしはここぞとばかりに畳み掛ける。

「自慢じゃないですけど、うちの父は馬鹿が付くくらい真面目なんです。無遅刻無欠勤だし、休日も、お金もらえなくてもサービス残業とかして頑張ってました。でも、リストラされたんです。で、今も真面目に就職活動やってますけど、ぜんぜん仕事決まんないです」  

 先生の顔に動揺が見て取れる。まさかこんな反撃を食らうなんて予想もしていなかっただろう。わたしだって別に言いたかったわけじゃない。タイミングの問題だ。たまたまうちのお父さんがしょうもない目に遭っていて、そんなときにわたしを説教してしまった先生の運が悪かったとしか言いようがない。

「うちの父はカッコいいですか? 真面目ですけど。ダサいですよね?」

 わたしは暗に周囲も巻き込むように問いかけている。先生はわたしからだけでなく、周りからも迫られているような感じになる。

「教えてくださいよ、先生。真面目にやってダメな父は、どうすればいいんですか? 真面目にやってダメな父の娘はどうすればいいんですか? 答え教えてくれますよね、先生なんだから」

 衆目の中で、わたしが先生をまっすぐ見据える。先生は唇を、そして声を震わせた。

「わ、私は……そんな、つもりで言ったんじゃ……」

 と手で顔を覆う。唇や声だけでなく、肩まで震わせ出した。

 近くで「ズルいなぁ」と囁く千絵の声が聞こえたが、教室内の空気はわたしにとって完全にアウェーなものになっていた。そう言えばこの先生、男子からは意外と人気があるんだっけ、と今さらながらに思い出す。

 でも、もう仕方ない。やっちまったものは仕方ない。

「泣かした」という周囲からの非難の目を一身に受けながら、教室のドアのほうへと歩き出す。

廊下に出たわたしは大きく息を吸い込んだ。

「あーー!」

 思いっ切り叫ぶのと同時に、わたしは足を振り上げ、スタートダッシュを切る。

 何事か、と他の教室のドアが開かれる前に、わたしは廊下を走り抜け、学校の外へと飛び出していた。心に溜まっていた膿みたいな感覚が気持ち悪くってたまらなかった。



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