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 額にわずかな痛みを感じる。

 ゆっくりと目を開けると、蛍光灯の光を感じた。ぼんやりとしていた視界に、淡いブルーの天井が見える。

 やっぱり……。

 わたしの視覚に色が戻っていた。

 血らしきものが目に入ったときに、それが赤だと認識できた時点で、もう戻っていたのだろう、と思う。

 わたしはベッドの上で寝かされていた。

 ここが病院だろう、とわかったのは、わたしの手にチューブがつけられ、それを辿ると薬液らしきものが入った透明の点滴袋が目に入ったからだ。

「わたし……」

 とりあえず、声を出してみる。

「良かった。目が覚めたんだね」

 その声にギョッとした。

 点滴を打たれている手とは反対側に、宮沢が座っていた。笑顔を浮かべている。

「ここは病院だよ。あのあと、すぐに救急車を呼んでね」

「久世は……?」

 わたしの言葉に、宮沢は眉をひそめ、「そこにいるよ」とチラッと後方を示す。

 わたしから離れた位置に久世が立っていた。まるでこの世の罪悪をすべて背負ったような表情をしている。

「すぐに警察に突き出しても良かったんだけどね。どうしても君の安否だけは確認したいと言うから、付いてくるのを許したんだよ」

 宮沢の口調はそこはかとなく嫌味に満ちていた。

「親御さんにも連絡が行っているから、間もなくいらっしゃるよ」

 そこまで言い終えると、宮沢は「少しベッドを起こそうか」と問うてくる。わたしは頷く。宮沢の厚意に甘えるのは癪だったけれど、起き上がりたくはあった。

 ベッドに備え付けの回転レバーが回され、わたしの上半身が背もたれとともに起こされる。ようやく、この部屋が個室であるらしいことや宮沢たちとの位置関係を把握した。

 わたしは自分の額に手をやった。

 包帯らしきものが巻かれている。

「五針ほど縫ったらしい」

 訊いてもいないのに、宮沢が答える。久世への当てつけのように聞こえた。

 そのときだった。

 廊下のほうからやかましい声がする。

「あ、あの! 上永葵の父です! 娘のいる病室はどこでしょう?」

 看護師の案内を聞いて、バタバタと病室に駆け込んでくる。少ない髪を振り乱し、息を荒げているお父さんだった。

「葵!」

 あまり大きな声で名前呼ばないでよ、恥ずかしいな。

 わたしの心の内など知りもしないお父さんは、肩で息をしながら、病室の中を見て、目を丸くする。

その気持ちはわからなくもない。

 だって、娘がケガをしたと言われて駆け込んだ病室に、見知らぬ少年と、自分が内定を断ったはずの会社の社長がいるのだから。

 久世は申し訳なさそうに頭を下げる。

 宮沢が立ち上がり、お父さんのほうへ歩み寄った。

「良かった、上永さん。お待ちしてましたよ。ちょっとケガをしてしまいましたが、葵さんは無事です。」

 さすがは大人と言うべきだろうか。こういうときの立ち回りのスムーズさには、場慣れを感じさせる。

 でもね、お父さん。違うんだよ。その人が何を言おうが、わたしがこうなった元凶はその人なんだよ。わたしはそんな思いを込めて、小さく首を横に振る。きっと伝わらないだろうな、とわかっていながら。

 宮沢が病室の片隅に立つ久世を示しながら、お父さんに状況の解説を始めようとした。

「実はですね、彼が、角材で葵さんを……」

 おそらく「殴ったんです」とでも言おうとしたのだろう。

 しかし、宮沢は最後まで言い切ることができなかった。

 信じられないことが起きる。

 お父さんが、宮沢を殴った。

 百六十センチメートルそこそこの小男が、百八十はあろうかという屈強な男の顔面を、思い切り拳で殴ったのだ。

 宮沢はその場に尻餅をつく。パンチの衝撃、というよりは、突然のことに虚を突かれたという感じだろう。

「な、何をするんですか?」

 宮沢が困惑を訴える。

「金輪際、うちの娘に近づくなっ!!」

 お父さんが怒鳴った。目の血走った表情には鬼気迫るものがある。

「何を言ってるんですか? 葵さんをこんなふうにしたのは私ではありません! 彼ですよ!」

 宮沢が久世を指差した。

「そんなことはどうでもいい!」

 お父さんは切り捨てた。

「ちょっと待ってください。少し落ち着いてください。私が何をしたと言うんです?」

「俺が何も知らないとでも思ってるのか!」

 その言葉で宮沢の抗弁をピシャリと封じた。

「俺は許さん。アンタを絶対に許さん!」

 再び殴りかからんばかりの勢いだった。

「俺の大事な娘を傷つける奴は、誰であろうと絶対に許さんっ!」

 お父さんの叫びが室内で弾けた。

 時間が止まったような沈黙が訪れる。

 それを破ったのも、またお父さんだった。

「……出て行け」

「は?」と宮沢が訊き返す。

「早く出て行けと言ってるんだっ!」

 再びお父さんが怒鳴る。

 その気迫に圧倒されたのか、宮沢は立ち上がると、近くにあった荷物を手に取り、逃げるように病室を出て行く。その間、わたしのほうを見ることは一度もなかった。

 ゼエゼエと息をしているお父さんを見て、わたしの中で過去の追想が始まった。

 お父さんは宮沢との会食後、なぜ娘のわたしに会社に入社していいかを訊いてきたのだろう。

 たぶん聞いていたのだ。

会食の途中で抜け出して話していた宮沢とわたしのやり取りを。

 わたしと宮沢が話している途中、皿を下げている女性給仕が声を上げたのは、廊下にいたお父さんとぶつかるか何かしたのかもしれない。女性給仕が「失礼しました」と言ったとき、変な方向に頭を下げた、と思った。でもあれは、わたしたちに向けられたものではなく、ぶつかってしまったお父さんに対して向けられたものだったのだろう。

 お父さんは会食中、緊張して手に汗をかきまくっていた。「洗いに行きたい」とも言っていた。おそらく、宮沢が中座している隙を狙って、トイレに手を洗いに行こうとしたのだ。そこで廊下の角にいるわたしたちが、ただならぬ会話をしているのを目にし、物陰に隠れて聞き耳を立てていたのだ。

 お父さんに、この思いつきについて言及するつもりはないけれど、たぶんそれほど的外れでもないだろう、と思う。でなければ、今のお父さんの行動に関する説明がつかない。

「ひゃあ!」

 わたしが想像を逞しくしていた数秒後、突然お父さんが変な悲鳴を上げて、両膝を床についた。宮沢を殴った右手を見て、プルプルと震えている。

「……生まれて初めて、人を殴ってしまった」

 さっきまで部屋の片隅にいた久世が、わたしのほうに寄ってきて、囁いた。

「スゲーな、お前のオヤジさん……カッコいいよ」

「そうかなぁ」

 わたしは首を傾げて苦笑する。でも、不思議と悪い気はしなかった。



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