2 ブゥレイク
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「葵ー!」
わたしが所属するクラス、3年C組の教室のドアを開けると、御饅頭、失礼、ぽっちゃりした体型の女子が抱きつき、泣きついてきた。
「またいい出会いがあるって」
ポンポンと弾力のある彼女の背中を叩く。
「ひどい! まだ何も言ってなくない!」
並木千絵は顔を上げた。特に涙も出ていない。いつも通りだ。中学の頃から。
「だって、中学ん時から同じパターンだし、そろそろ省略してもいいかな、と」
わたしが千絵から離れ、席に着くと、彼女は隣に陣取って、自分の正当性を主張する。
「今度のは本気だったのよ!」
「本気じゃない千絵が見てみたいね」
「でね、今日の放課後は、この傷ついた心をカラオケで……」
おそらく千絵は「一緒に癒して」とでも言おうとしていたのだろう。わたしは先に断りを入れる。
「あーゴメン、今日は無理」
「はあ? 親友のハートブゥレイクよりも大事なことがあるってわけ?」
「いやいや大事なことっていうか……」
わたしは、そこで答えに窮し、相手もわかってくれる、という言葉を思い出した。
「なんてゆーの……経済的理由?」
「どうしたの? 何かあった?」
カウンター越しに、わたしの担当だという若い職員さんがさわやかな微笑みを浮かべる。
わたしとにやけたお兄さんとのあいだには、例の黄色い紙がある。
千絵との誘いを断ったわたしは、学校が終わったあと、通っている予備校にやって来た。「はい、これ、じゃあ」と退塾届を提出して終わりにしたかったのだけど、その職員さんに「ちょっと待って」と呼び止められた。
たぶん二十代半ばで、きっとわたしらみたいな小娘の扱いには慣れているのだろう。顔を斜め四十五度に傾けるのは、彼のベストアングルなのかもしれない。流し見るような目線が癖なのだとしたら、わたしは生理的に無理だなあ、と思う。帰りたい菌が背筋の辺りを走り回っている。
「相談なら乗るから。なんでも言ってみてよ。成績? それとも、先生が合わないとか? 大丈夫、言いにくいことでもちゃんと聞くから。それにね、話すだけで解決できることってのも思ったより少なくないんだよ」
なぜだろう。わたしは若い職員さんにイラっと来ていた。言いにくいことをこんな誰でも来られるカウンターで言わすなよ、というデリカシーのなさに対する怒りなのか。それとも単純にこのお兄さんのキャラがムカつくだけなのかはよくわからない。だけど、わたしの中で心の撃鉄は上がっていた。
「……実はですね」
わたしの告白めいた切り出しに、お兄さんは「うん」と微笑みを浮かべながら小さく頷いてくれる。
「父が……リストラされまして」
この言葉を聞いた瞬間、お兄さんの微笑みを維持している口角がピクッと動いた。小さく「えっ」とこぼしたのも漏らさず聞いた。
そのまま畳み掛ける。
「再就職も決まらず、収入がゼロなもんで、貯金切り崩すしかないわけですけど、家のローンと娘の塾費用、両方は無理だろってことになりぃ、じゃあ、どっち切るかっていったら、そりゃやっぱ塾でしょ、どうせ成績も上がらないし、という結論になりまして」
お兄さんの笑顔から、完全にさわやかさは取り除いた。あとは、形式的にへばりついているその微笑みだけだ。
「それから、ずっと思ってたんですけど」
わたしは、カウンターから見える壁に貼られているポスターを指差した。
女子高生の格好をした芸能人が空を見上げたビジュアルに「未来は変えられる」というキャッチコピーが添えられている。
「あのポスター」
わたしが言うと、「あのポスターが何、かな?」とお兄さんが弱々しく答える。
「『未来は変えられる』ってなんなんですか?」
「え?」
「わたしたちの未来って、変えなきゃいけないくらい悲惨なんですか?」
「あ、いや、そうじゃなくてさ……あれは、君たちには未来を変える力があるっていう意味で……」
「今だって変えられないのに、なんで未来が変えられるんですか? 政治家のマニフェストじゃあるまいし」
最後のほうは自分でも何を言っているのかよくわからなかった。でも、言葉の弾を乱射したせいか、妙な爽快感はある。
「……で?」
わたしは、若い職員さんのほうを向き直る。斜め四十五度の角度も、さわやかな微笑みも失った、ただのお兄さんと化した職員さんに向かって、わたしは問いを投げる。
「で? あとどれくらい話せば、解決しそうですか? 話すだけで解決できることも少なくないんですよね」
職員さんは強盗に銃を突き付けられた銀行員がお金を用意するときのように、何度も小刻みに頷いて黄色い退塾届を拾い上げた。
「わ、わかった。今、手続きしてくるから」
そう言って、若い職員さんは奥へと引っ込んで行った。
何やってんだか……と思う。
何、優しく対応してくれそうな人に、こっちの事情でキレてんのよ。わたしは自分のくだらない人間性に心底の情けなさを込めて溜め息を吐く。




