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 そこはかつて「久世自動車工場」という自動車の修理工場だった。

 機材などは借金のカタに運び出され、今となっては廃材などがそこかしこに散見しているだけの虚しい空間が広がる敷地となっている。

「葵ちゃんが、話があるっていうから来てみたけど、こんなつまらない場所で、いったい何を話すんだい? 悪いが、そんなに時間は取れないよ」

 周囲を見回しながら、スーツ姿の宮沢が言った。

 すでに人手に渡っているが、鍵などは開けようと思えばいくらで開けられる。込み入った話をするなら、あまり人目につかないところがいいだろう、と久世に言われ、わたしは、この自動車修理工場の敷地に宮沢を呼び出したのだ。

「すぐに終わる話だよ……アンタがYESと言ってくれれば」

 わたしの隣に立つ久世が挑戦的に言い放つ。

宮沢がそれを鼻で笑う。

「その発想が子どもだね」

「は?」と訊き返す久世に、宮沢が解説を始めた。

「ビジネスの世界じゃ、相手のYESを引き出すために最大限の労力と時間をかけるんだよ……君と僕とじゃ、まともな話し合いはできそうにないね」

 宮沢は余裕のある態度で久世を見下しにかかっている。

「ま、なんでもいいよ。とにかく俺の言葉は、コイツの言葉だから」

 久世は隣にいるわたしを示した。

「君は代弁者というわけか」

 宮沢の言葉に、久世は「そうだ」と応じる。

 久世が一瞬、わたしのほうを見る。大丈夫だ、という意思が感じられた。

 わたしは久世を信じて頷く。

 久世が切り出した。

「コイツは……上永は、もうアンタに会いたくないんだってさ」

 宮沢は何も答えず、わたしのほうに目を向ける。わたしはその視線から逃げるように顔を逸らした。

 久世はさらに追い打ちをかける。

「あ、悪い。言葉間違えた。会いたくないんじゃなくて、アンタと二度と関わりたくないんだってさ」

 久世はそこまで言い終えると、ジーンズのポケットに手を入れて、あるものを取り出し、宮沢に放り投げた。

 宮沢はそれを事もなげにキャッチする。

「だから、それも返すって」

 久世が言い捨てた。

宮沢の手にあるのは、わたしがもらった指輪だった。

 宮沢はそれを見て、静かに深呼吸をする。大人の余裕に乱れが生じたのかもしれない。

「ところで、君は、彼女のなんなんだい?」

 いきなり話題を変え、宮沢が久世に訊ねた。

 虚を突かれたのか、答えられずにいる久世に、宮沢は畳み掛けてくる。

「友達……それ以上の関係かな?」

 わたしは久世のほうを見た。

 そう言えば、今までわたしたちの関係を定義づけたことはなかった。

 わたしにとって久世は、一番大事な人になっている。でも、久世が同じ想いだとは限らないし、期待してはいけない。

 久世はまっすぐに宮沢を見据える。

「コイツは……上永葵は……俺にとって一番大事な奴だ」

 その言葉に密かにわたしは胸を突かれていた。こんな場面なのに、嬉しくて泣いてしまいそうになるなんてどうかしている。

 一瞬、目を瞠った宮沢が、不意に声を上げて笑った。

「何がおかしんだよ」

 久世が苛立たしげに問う。

「いや、すまない」と笑いを堪える宮沢は、久世を正視した。

「申し訳ないが……君に彼女の相手は務まらないよ」

「はあ?」

「僕は、もちろん君より……そして彼女以上に、彼女のことを知っている。彼女がこれから、素晴らしい未来を歩むことを、僕の力なら約束できる。だが、君にそんな力はないだろう」

 久世は唇を噛む。財力という一点に関しては、宮沢に叶うべくもないからだ。

 久世の表情を見て、己の優位を確信したのか、宮沢は次の問いを浴びせる。

「表面的なことでもいい。君は彼女のことをどれだけ知っている?」

 久世は一瞬、わたしを見ると、宮沢に向かって堂々と答える。

「……こいつは……ちょっと捻くれてるけど、根はいい奴で、自分のことよりも、人のことを大切にできるすげえ優しい奴だよ」

「0点だ。抽象的だよ。そんなもの、誰にでも当てはまる便利な言葉だ」

「なら、アンタは言えんのか? コイツにしか当てはまらない言葉ってのが?」

 もはや売り言葉に買い言葉だ。この時点で久世は宮沢のペースに嵌められていたのかもしれない。

 宮沢は不敵に笑った。

「二十七個だ……」

「は?」

 わたしはその数字を聞いて、耳を塞ぎたくなった。「やめて!」と懇願する。

 しかし、宮沢は容赦なく語り続ける。

「葵ちゃんの体にあるホクロの数だよ」

久世が「なっ?」と言葉にならない声を洩らす。

「葵ちゃん自身が見えないところも、じっくり丁寧に見て数えたからね……何日も何日も繰り返し……」

 宮沢の言葉がわたしの心を削っていく。そんなこと、久世の前で言って欲しくない。

 わたしは耳を塞いだまましゃがみこんだ。

「お願い……もうやめて……」

 それでも宮沢は止まらない。

「君は……彼女のことをどこまで知っている? ん? 彼女のお気に入りの体位はさ、僕が仕込んでやった……」

「もうやめてよ!!」

 わたしはあらん限りの声で叫んだ。

 次の瞬間、久世は宮沢に駆け寄り、拳を振りかぶっていた。

 久世が宮沢に殴りかかる。

 しかし、宮沢はそれを鮮やかにかわすと、久世の顔に重そうな拳を叩きこんでいた。それは明らかに格闘技経験者の動きだった。

 頭を殴り飛ばされた久世は、振り子のように体勢を維持できないまま地面に倒れる。

「これでも空手の有段者なんでね。そんなヨレヨレの拳にはかすりもしないよ」

 思い出したくなかったけど、宮沢の肉体が鍛え上げられたものだったことがフラッシュバックする。

 宮沢はわたしのほうを見た。

「葵ちゃん、わかっただろ……君を輝かすことができるのは僕だけだって」

 立ち上がった久世が、再び宮沢に向かっていく。宮沢はそれを片手でいなし、腰の入った構えで肘打ちを久世に喰らわせた。

地面に転がされた久世は、激しく咳き込んだ。体を起こそうにも、力が入らないらしく、立ち上がれずにいる。

「約束は、ちゃんと守ったじゃないですか! 一ヶ月間、アナタの言うとおりにしたじゃないですか!」

 わたしの声高な非難に、宮沢は軽く首を横に振る。

「それはすでに過去の話だよ……僕と君の新しい未来はもう始まっているんだ」

 そう言いながら、宮沢は起き上がれずにいる久世の腹を蹴る。久世が低く呻いた。

「そうだ。葵ちゃんが高校を卒業したら、記念に海外旅行へ行こう、二人で。どこがいいかな……? ヨーロッパ? いや、それよりも、オーストラリアのケアンズ辺りにしようか……」

 楽しそうに思いついた夢想を呟きながら、宮沢は転がっている久世の腹を目がけて、右足を振り上げる。

「ゴメンなさい!」

 わたしは駆け寄って、宮沢の右足に抱きついた。

「ゴメンなさい! ゴメンなさい! 本当にゴメンさなさい! お願いですから許してください! なんでも言うこと聞きますから! 許してください!」

 わたしはなりふり構わず、出るに任せて謝罪の言葉を口にしていた。懇願を聞き入れたのか、宮沢の右足がゆっくりと地面に降ろされる。

 宮沢は乱れた服装を直すと、わたしを見下ろしながら微笑んだ。

「大丈夫だよ、葵ちゃん……僕は、はじめから、君のことを許している。だから、君は、ずっと僕の傍にいてくれればいい」

 宮沢の手に腕をつかまれ、わたしは強引に立たされる。宮沢はわたしの服についた土ぼこりを払うと、「さあ、行こう」とわたしの腰に手を置いた。わたしは抗うこともできず、宮沢に引き連れられていく。

 宮沢の向かおうとする先に、工場の外に停められた黒塗りの高級車が見える。

 わたしは久世のほうを振り返った。

「ゴメン、ゴメンね、久世……」

 しゃくり上げながら久世に詫びる。わたしが変なことを頼まなければ、久世はこんなひどい目に遭うことはなかったのだ。

 なんとか立ち上がった久世は、こちらを見向きもせず、ある方向へ進み、屈んだ。

 わたしはその光景を見て、肌が粟立つ。

 久世が手にしたのは一メートルほどの角材だった。

工場内には廃材が散乱していたから、武器なりそうなものを見つけるのは容易い。

 宮沢は久世の存在を軽視しているのか、見向きする素振りすらない。

 実際に見たことはないけれど、薬物中毒者ように久世の目は瞳孔が開いて、一点を見据えていた。宮沢の後頭部しか映っていないように思える。

久世が一気に宮沢との距離を詰め、角材を振りかぶった。

「死ねっ!!」

 久世の鬼気迫る声に、宮沢が反応し、振り向こうとする。しかし、それでは遅かった。

 角材が振り下ろされる。

 久世の一挙手一投足がスローモーションに見えた。

 わたしは額に強い衝撃を感じる。

 久世が「上永!」と叫んだ。

 なんとか宮沢への傷害を回避できた。

わたしはそのまま、仰向けに倒れる。

 久世が角材を振り下ろす瞬間、わたしは宮沢を押しのけるように割って入った。反射的に動くことしかできなくて、頭で角材を受ける格好になってしまった。

宮沢を助けたかったわけじゃない。久世の手を汚させたくなかっただけだ。

 倒れたわたしは、顔にドロッと温かいものを感じた。なんだろう、と思ったとき、右目に赤い液体が入り込んできた。ああ血か、と思った。

「上永!!」と叫んだ久世が、跪いてわたしを抱きかかえる。

「おい! 上永! 上永!」

 何度も名前を連呼されて、体を揺すられる。

「ゴメン、久世……わたしが余計なこと頼んだから……」

 とりあえず謝った。瞼が重くて仕方がない。

「そんなことねえよ!」

「……でもさ」

 うまくできているかはわからない。けど、わたしは微笑んだつもりだ。

「……わたしがせっかくあげた自由、台無しにしてほしくないよ……」

 言いたいことは言えた。ように思う。

 瞼の重さがもう限界だった。久世が何か言っているような気がしたけど、どんどん音が小さくなる。

 視界が真っ暗に閉ざされた。

 わたしが覚えているのはそこまでだった。


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