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家に帰ってきて、まず聞こえたのが、お母さんの金切り声だった。どうやらリビングで怒鳴っているらしい。
「いったい何考えてるのよ!」
わたしは家に上がり、ドアが開けっ放しにされたリビングのなかを覗き込む。
見えたのはお父さんとお母さん後ろ姿だ。
ソファに座っているお父さんに、お母さんがつかみかからんばかりの勢いで責め立てている。
「……どう考えたっておかしいだろ」
「何がおかしいのよ!」
「私にあの会社でできることなんて何一つない。なのに、なんで入社が決まるんだ?」
「それはアナタが決めることじゃないでしょ!」
「……舞い上がってた自分が恥ずかしいよ」
無力さを漂わせるお父さんの言葉に、お母さんが悔しげに声を震わせる。
「捨てる神ばかりで拾う神なし。それはしょうがないって、ずっと思ってたわよ……それでもアナタは努力してた」
だから自分だって我慢してきた、という意味が含まれているように思えた。
「でも、今回はなぜ? せっかく拾ってくれた神様との縁を、どうしてこっちから切る必要があるのよ!」
突然、お父さんが「とにかく!」と大声を出した。声を荒げられたことにびっくりしたのか、お母さんの勢いが止まる。
「とにかくダメなんだ、あの会社は。ダメなんだよ……」
お母さんが片手で顔を拭う。
「……ダメなのはあなたよ」
それだけ言い残すと、お母さんは近くにあった荷物を持って、リビングを出ようとする。必然的にわたしと目が合うことになるが、すぐに逸らされた。お母さんがリビングを出て行って数秒後、玄関のドアが乱暴に開け閉めされる音が響く。
「なんで?」
わたしはお父さんの背中に声をかける。
こちらを一瞥したお父さんは「帰ってたのか」と呟いた。
「なんで?」
わたしはもう一度訊いた。
「お前も言ったろ。これは父さんの人生だって……だから父さんは自分で決めたんだよ」
お父さんは立ち上がり、リビングを出て行った。
いろんなことが立て続けに起きて、わたしの中で処理が追いつかない。
ただ、わかったことは、お父さんが宮沢の会社への入社を断ったらしい、ということ。
そして、お母さんがその日から家に帰って来なくなった、ということ。
さらにもう一つ。
宮沢からの連絡で初めて留守番電話が入っていた。
『まったく、君のお父さんもよくわからない人だね。せっかくのチャンスを自らフイにするなんて……でも、別に、僕にとっては選択肢の一つを失っただけだよ……君をつなぎ止める方法なんていくらでもあるからね……さて、次はどこで会おうか」
わたしは自分の部屋でそれを聞いた。最後まで聞き終えたとき、全身がガクガクと震え出して止まらなかった。
本当に怖い、と思った。
「どうすればいいの……」
わたしは震えを止めるように膝を抱えたが、体を駆け巡る悪寒は増すばかりだ。
ただただ無性に……。
楽しそうな声が響いていた。
時朗がギャーギャー言いながら走り回っている。
美晴が珍しく声を上げて笑っている。
二人を久世が、秋田のなまはげみたいなノリで追い駆け回している。
なんのことはない。
アパートの前で三人が、ボールを投げ当てる鬼ごっこのようなゲームをやっているだけだ。それがモノトーンであっても、たまらなく幸せな光景に見えるのは、彼らの今までを知っているからだろう。
本来なら、この光景を微笑ましく思えるのかもしれない。この三人の笑顔に、少しでも貢献できたことを嬉しく思えたのかもしれない。
でも今のわたしには……。
恐怖に心を浸食されている今のわたしには、それだけの余裕がなかった。
ただただ無性に久世に会いたかった。
久世に抱き締めてもらいたかった。
「おーし、今日はここまでだ。そろそろ、晩飯だし、母さんの手伝いをしよう」
久世が言うと、素直に返事をした時朗と美晴が、それぞれアパートの中へ入っていく。
遠巻きに三人を見ているわたしに、久世が気づいてくれたらしい。
久世が、どうした、というような表情を浮かべて歩み寄ってくる。
抑えることができず、わたしは久世に抱きついていた。
「お、おい?」
久世が困ったように声を上げる。
「……けて」
声がうまく出なかった。
久世が「え?」と問い返してくる。
「たす……けて」
「どうした? 何があったんだよ?」
「怖いよ……助けて……」
わたしはそれだけなんとか絞り出すと、涙と震えが止まらず、久世の胸に顔を埋めて泣いた。
久世は静かにわたしを抱き締め、頭を擦ってくれる。わたしがひとしきり泣いて落ち着きを取り戻すまで、何も訊かずにいてくれた。あるいは、久世が黙って抱き締めてくれていたから、わたしは落ち着くことができたのかもしれない。
わたしたちは久世のアパートの近くにある公園のベンチに腰を下ろしていた。わたしが落ち着きを取り戻すと、久世が「ここじゃなんだから……」と案内してくれたのだ。
周囲はすっかり夜の空気に包まれている。
わたしは久世に宮沢のことを話した。
話したくはなかったけど、「助けて」と懇願する醜態を晒した手前、語らないわけにはいかなかった。
久世に見損なわれることを恐れながら……それでも自分が選んでしまったことなんだと覚悟しながら……濁せるところはなるべくぼやかしながら……でも、どうしたって、宮沢と愛人契約のようなものを結んでいたことを開示するのは避けられず……わたしは宮沢との関係の顛末を、ぽつりぽつりと久世に語り聞かせた。
話し終えたあとの沈黙が、痛い。
後悔はないつもりだった。
久世のことを少しでも救えた、と思える結果があるだけマシだった。それでも話すために振り返ってみれば、押し寄せる後悔の波に呑み込まれていた。
久世の顔を見ることができない。
今の久世の目に、わたしがどんなふうに映っているのかが怖かった。
「……ありがとな」
久世の声が静かに響く。
わたしの頭に久世の手が伸びてきて、肩に抱き寄せられた。
「俺たちのために、すげー頑張ってくれてたんだな。ごめん……何もわかってなく」
「ち、違うって、わたしは自分がやりたくてやっただけで……」
わたしは慌てて否定する。恩に着せたいわけでも、謝ってもらいたいわけでもなかった。
わたしの頭を抱く久世の手に力が込められる。無理するな、と言われているような気がした。
「もう大丈夫だよ」
「え?」
「……今度は俺が、上永を助ける番だ」




