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 次の日、わたしは学校を休んだ。

 調子が悪い、という理由はもちろん嘘だが、それを口実に、パートへ行く前のお母さんに連絡をしてもらった。

 わたしの中でやり切った感があった。

 それはいわゆる虚脱感かもしれない。嫌なことはいっぱいあったけど、でも、久世のいろんな顔を見られたのは幸せだったな。そんなふわふわとした感覚に、わたしは布団の中で浸っていた。

 お昼少し前くらいに、水分が摂りたくなってキッチンに向かう。

 すると、閉まり切ってないドアの向こうからお父さんの声が聞こえてきた。どうやら電話をしているらしい。一応、病気の――仮病だけど――わたしを心配して、日中は家にいてくれていたみたいだ。

「……いや、おたくに送ったのはだいぶ前だったので、てっきり書類選考ではじかれたんだと思ってまして……あ、いえ! お伺いいたします、はい!」

 電話を切ったあと、お父さんには珍しく「よし!」という昂ぶった声が聞こえた。お父さんにも少し、運が回ってきたのかもしれない、と勝手に自分と重ね合わせる。

 自分の身に置き換えて考えたときに、ここで人に登場されるのは気恥ずかしい。喉の渇きは我慢できないほどではない。わたしは静かに自分の部屋へ戻ることにした。


 それから十日後の休日。

 わたしと久世は、本当にデートをすることになった。

 借金は完済したが、それでも生活が楽になったわけではなく、久世はアルバイトを続けている。今日も夕方から出勤だというので、お昼前に駅で待ち合わせた。

 Tシャツ姿ばかり見ていたから、久世が襟付きの半袖シャツを着ていることが新鮮だった。久世なりにデートを意識してくれてるんだな、と思うと頬が緩む。

 久世の言葉通り、わたしたちは中心街へ出ると、「フツーのデート」をする。

 映画館でコメディ映画を見て、声を出して笑ったり、ゲームセンターのUFOキャッチャーでぬいぐるみを獲ろうとしたり……久世は渋々だったけど、いっしょに写真シールを撮ることもできた。わたしがいくつも表情を変えているのに、久世はずっと同じ顔しかしていない写真シールを切り分ける。そんな些細な瞬間に胸が小刻みに震え、ジュンとしてしまう。

 わたしの高校生活にこんなときが来るなんて思ってもみなかった……。

 

久世のアルバイトに間に合うように、わたしたちは帰りの電車に乗っている。

 そこではたと、映画を観賞するときにスマートフォンの電源を切ったままだったことを思い出した。

 電源を入れると、矢継ぎ早にメッセージアプリの着信を告げる振動が連続した。驚きながらアプリを開くと、送信元はすべて「お母さん」からだ。「夕方には帰れるのね?」「ちゃんと帰ってきなさい」「今どこ?」等、わたしの帰宅に関する連絡が入ってきている。

「どうかした?」

 スマートフォンを見てギョッとしていたわたしを見て、久世が話しかけてくる。

「あ、ううん。お母さんからメッセージが来てただけで。たぶん大したことないし、家帰ったら話聞いてみるよ」

 きっとお母さん特有の針小棒大な表現だろうと思っていた。


「ただいまー」と家に帰ると、お母さんが尋常じゃない顔つきで玄関へやってきた。

 顔だけ見れば、身内に不幸でもあったのかと思うほどだ。だけど、お母さんはジャケットにスカートという、外出用の装いに身を包んでいる。どこかに出かけようとしているのだろうか。

「葵っ!」

「何?」とわたしは靴を脱ぎながら答える。

「夕方帰ってくるって言ってたじゃない」

「まだ、五時前じゃん」

「何度もメッセージ入れたでしょ? どうして返信しなかったのよ」

「気づかなかったんだってば」

「まあいいわ、とにかく着替え……なくてもいいわね、わりと小奇麗な格好してるし」

 まったく話が見えない。

「さっきから何? なんの話?」

 わたしは眉根を寄せる。

「決まったのよ、お父さんの会社! 内定よ、 正社員! それで、会社の偉い方がうちの家族と食事したいって言ってるそうなのよ!」

「はあ?」

 やっぱり話が見えない。

「そんなのわたしが行かなくたっていいんじゃないの?」

 再就職が決まったのは喜ばしいことだけど、お父さんとお母さんだけで行けば済む話だろう、と思う。

「それがね。向こうがお嬢さんも是非に、って言ってくるのよ。ここで印象を悪くするわけにはいかないじゃない」

 お母さんの横から、スーツを着たお父さんが顔を出し、苦笑いを浮かべる。

「すまないな、葵……ちょっとの時間、お父さんに協力してくれないか」

 結局、さっぱり話が見えないまま、わたしはタクシーに乗せられ、お父さんたちと中心街へ向かった。


「こちらのお部屋になります」

 タキシード姿の店員に案内され、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩き、わたしたちは一番奥の個室の前で立ち止まる。

 やってきたのはテレビにもよく出ている料理人が長を務める高級中華料理店だった。

 わたしは就職とか会社とかのことは何も知らないけど、たかが一人の社員を迎え入れるのに、こんな仰々しいことをするものなんだろうか、と疑問に思う。

「ねえ」とわたしは、前にいるお母さんのジャケットの裾を引っ張った。

「何?」

 お母さんはうるさげに小声で答える。相当緊張しているのだろう。

「お父さんが決まった会社って……」

 わたしが訊こうとしたところで、店員がドアをノックする音に遮られた。

「お連れの方がお見えになりました」

 店員がドアを開け、「どうぞ」とわたしたちを促す。先頭にいるお父さんが「失礼いたします」と頭を下げ、室内へと足を踏み入れると、それに倣ってお母さん、わたしの順番で入室した。

 広々とした部屋の中央に、大きな丸いテーブルが置かれている。

 すでにテーブルに着いている会社の偉い人の姿は、前に立つお父さんの背中で、わたしの視界からは隠れていた。

「お待ちしておりました、上永さん! 急なお招きで申し訳ありません」

 渋みの効いた張りのある男の声だった。わたしはこの声を聞いた瞬間、背筋に悪寒が走り、全身が固まった。

「い、いえ、こちらこそ、このようなところに家族どもども呼んでいただきまして、たいへん恐縮しております」

 お辞儀をしたお父さんの向こうに……。

満面の笑顔を湛えたスーツ姿の宮沢がいた。

「本当に、御社のような立派な企業から内定をいただけて、主人は、いいえ、私たち家族は、とても幸せです」

 お母さんは感激のせいか、泣きそうに声を震わせていた。

「ハハハ、これから上永さんは、我が社の社員になっていただくんですよ。私にとって、社員は家族と同じ……こうして一度、家族の皆さんと顔を合わせ、気軽にお話をさせていただく機会を、今後はどの社員とも持ちたいな、と考えておりましてね……上永さんは、その第一号というわけですよ」

 宮沢は弁舌軽やかに言ってのける。

 嘘だ。これは仕組まれた茶番だ。

 わたしは宮沢の思考回路の異常さとそれをやってのおけてしまう実行力に恐ろしさを感じずにはいられない。

「とても光栄です」

「どうもありがとうございます」

 何も知らないお父さんとお母さんがそれぞれ、再び頭を下げる。

 わたしが放心した状態で立ち尽くしていると、お母さんが「娘の葵です。申し訳ありません、こういう場に慣れていないのもので……」とわたしの頭を下げさせた。

「まあ、何はともあれ、とりあえずお座りください」

 宮沢に言われ、わたしたち家族は円卓を囲むように席に着いた。お父さんとお母さんが宮沢の隣に座ったため、わたしの位置は宮沢の対面となる。

 逃げ出したい。湧き上がる衝動をなんとか抑え、わたしは椅子に座る。

 宮沢がこちらに向かって微笑んだ。


 改めて自己紹介を済ませたあとの食事会は、終始、宮沢のリードによる軽妙な会話で進んでいた。

 お父さんもお母さんも緊張はしているが、その背景には再就職が決まった喜びがある。生きた心地がしていないのは、わたしだけだろう。

「口に合わなかったかな?」

 宮沢がわたしに訊いてくる。

 わたしの目の前にある皿の料理は、ほとんど減っていなかった。食べようとしても、喉に栓がされていみたいで入っていかないのだ。

「す、すみません! 家でロクなものを食べてないものですから、きっと味がわからないんだと……」

 お母さんが慌ててフォローを入れる。

 わたしは「すみません」と下を向いた。

 不意に、宮沢がポケットからスマートフォンを取り出すと、「ちょっと失礼」と立ち上がり、部屋から出て行った。

 次の瞬間、お父さんとお母さんは、長く深い息を吐いた。溜めこんでいた緊張を一気に吐き出したようだ。

「さっきから手の汗が止まらないよ。洗いに行こうかな……」

 お父さんは傍らに置かれているおしぼりで手を拭いたあと、お母さんに話しかける。

「緊張して味なんかわからくないかい?」

「おいしそうな顔しておけばいいのよ」

 とお父さんをたしなめたお母さんは、わたしのほうを向く。

「葵! アンタ、こういうときくらい、顔の筋肉限界まで使いなさい! 笑顔よ、笑顔! これはね! ウチにとって神様が与えてくれた最大で最高のご褒美なんだから」

 わたしには罰にしか思えない。

 そのとき、わたしのスマートフォンが振動した。操作をすると、メッセージが送られてきていた。

〈出ておいで。少し話そう。宮沢〉

 ここで逃げても仕方がない。

 わたしは「ちょっとトイレ」と言い残し、その部屋を出た。


 廊下を歩いていたわたしが、十字路に差しかかると、「久しぶりだね」という親しげな声がした。

 声のほうを見ると、角を曲がって少し行ったところに宮沢が立っている。

「あ、あの……」

 何か言わなければ、と思って口を動かすが、言葉にならない。

「どうやら、君のケータイが壊れて、通話ができなくなってしまったようだったからね……」

 どうしたらこんな独善的な解釈ができるのだろう。

 宮沢は続ける。

「それで、どうやって君と会おうか考えていたところに、君のお父さんが、ウチの会社採用にエントリーしてきてたことを知ったわけさ……これも運命だと思ったよ」

「わ、わたしは、もう……」

 あなたに会いたくないのだ、という言葉が喉もとで突っかかってしまう。

「君は、君の価値をわかってない」

 宮沢が力強く断言した。

「君は原石だ……磨けばもっと輝ける。だが、輝くにはそれ相応の磨き方が必要だ。君の周りに僕以上に君を輝かせることができる人間がいるかい? 答えはノーだ。……だから、君は僕と出会ったんだよ」

 宮沢の理屈が、わたしにはこれっぽっちも理解できない。だが、そんなことはお構いなしのようだ。

「僕はね……別に女に苦労しているわけじゃない。むしろ女遊びはやり尽くした。だから、遊びじゃない何かを求めていたんだよ……君と会って、それがわかったんだ」

 そこで一拍置かれた。

「……それはね、『育てる』ということさ」

得意げに言い切った宮沢は解説を始める。

「『育てる』というのは、遊びのように一朝一夕にはいかないからね……ゆっくりと時間をかけ、より見事な実りをつけるべく試行錯誤する……これこそ最高の贅沢なんだよ。それに気づかせてくれたのが、上永葵……君だったんだ」

 暗澹とした気持ちが襲ってくる。人をここまで怖いと思ったことはなかった。

 わたしは、目の前に立つ恐怖に圧倒されながら、一つの疑問を切り出した。

「お、お父さん……父は、なんの必要があって雇われるんですか? 宮沢さんの会社で、父は、何をするんですか?」

 わたしの問いに宮沢はあっさりと答える。

「別に、何もしなくてもいいし、何をしてもらっても結構だ」

「え?」

「一日中パソコンでネットショッピングをしようが、動画を見ていようがね」

「じゃあ、父に内定を出したのって……?」

「君のために決まってるじゃないか……君と僕の関係があるから、今回の話があるんだよ。残念だけど、君のお父さん、上永浩平には、ビジネスパーソンとしての価値はない。だが、彼が君の父親である、ということは大きな価値があるんだよ……僕にとってはね」

 突然、「キャッ」という声が響いた。

見ると使用済みのお皿を下げてきたらしい女性給仕が、廊下の十字路付近で何かにぶつかったようだ。慌てていたのか「失礼しました」と変な方向に頭を下げ、その場を去る。

 宮沢は気を取り直したように、こちらに微笑みを向ける。

「君も見ただろ。あのお父さんとお母さんの喜びようを。僕にはね、たくさんの人に幸せを与える力があるんだよ。そして、僕が一番幸せにしたいのは……君なのさ」

 心を削りに削られたわたしには、言葉を発する気力すら残っていなかった。



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