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久世が低く呻いた。
暗い室内で久世の表情はよく見えない。
久世の下にいたわたしは、「もう?」と口に出してしまった。失言した、と思ったときにはすでに遅い。
「ゴメン……俺、こういうの初めてで……」
久世は恐縮したように項垂れる。
わたしは吹き出して、愛おしく思った久世のことを力いっぱい抱き締めた。
「わたしはねちっこいより、こっちのほうが好きだよ」
フォローになっているのかはわからないけど、本心だった。いや、相手が久世ならどんなふうでも良かったのかもしれない。
わたしは今、久世と裸で抱き合っている。
地元にあるラブホテルの一番安い部屋のベッドの上で、わたしは久世に満たされない何かを埋めてもらった。
チェックアウトの時間までは、まだ十分ほど残っている。
部屋を出る準備のできたわたしと久世は、ペアソファに座って、流しっぱなしのテレビを見ていた。さりげなくわたしが久世の手に触れると、久世がわたしの手をしっかりと握ってくれた。もうこれで人生が終わってもいい、と思える瞬間だった。
わたしは心の中で舞子に言う。
――さて、わたしの勇気も、そろそろ仕上げのお時間です。
「久世……」
「ん?」
「今日は、一緒にいてくれてありがとう」
「……うん。てゆーか、こっちこそ、その……要領悪くてごめん」
「久世は頑張ってたよ。今も頑張ってる」
わたしは久世のほうを向いて「ありがとう」と微笑んだ。
「こんな……汚れた私と、セックスしてくれてありがとう」
久世が何かを言おうとしたが、それを遮るようにわたしは続ける。
「お礼に、久世に自由をあげるよ」
わたしは傍らに置いてあった鞄の中から封筒を取り出し、久世に渡した。
「見てみて」
久世は封筒を受け取って、訝しげに中身のものを取り出す。
「な! なんだよ、これ?」
驚嘆、という表現のお手本みたいな叫び方だった。久世は手にした三つの百万円の束をわたしに向かって示している。
「チケットだよ……前に久世、『チケットくれ』って言ってたじゃん」
久世は三百万円をテーブルに置いて、声を荒げた。
「お前バカか。こんなモンもらえるわけないだろ。だいたい、いったいどうやって、こんな大金……」
「今日一緒にいてくれたお礼だってば」
「そんなの、飯でもおごってくれりゃ済む話じゃねーか。これはいくらなんでも悪ノリが過ぎるぞ」
「わたしは久世のどん詰まりみたいな人生に風穴を開けたいんだよ。これはわたしのわがまま。だからお願い。これをもらって」
一瞬、久世の表情から険が薄くなった。気がした。それでも納得するまでには至っていないらしい。
久世はまっとうな主張をしてくる。
「とにかく、これはもらえないって」
あくまで拒否しようとする久世。それはある意味で予想通りだった。
お礼でダメ。お願いでダメ。ならば次に取るべき手段は……。
わたしは机にあった百万円の束を手に取って立ち上がった。久世のほうを正視すると、ポケットの中からジッポのライターを出して火を着ける。
「な! 何考えてんだよ」
ライターの火と百万円の束のあいだには、小指の第一関節ほどの隙間もない。まさに一触即発火という状態だ。テーブルには灰皿がある。喫煙前提の部屋だから、多少の煙は大丈夫だろう。
わたしが取った手段は、脅しだ。
「なら燃やす。久世がいらないって言うなら、こんなのゴミと同じだから」
わたしは百万円に火を近づける。
「おい! バカなことすんな!」
久世は俊敏な動きでわたしの懐へ入ると、そのままライターを持っているわたしの右手をつかんだ。
わたしは振りほどこうと必死に腕を振るが、やはり男の子の腕力にはかなわない。久世の指が、ライターを握りこんでいるわたしの手の中に入り込んできて、指をライターから引きはがそうとしている。
それでも抵抗するわたしは、無理な方向に体を捻った。
「あっ!」
声を上げたときには、わたしたちは勢い余って、もつれながら床に転がっていた。
わたしの手からこぼれたライターが、回転しながら床を滑っていく。
「大丈夫か?」
久世がすぐさまわたしを抱き起そうと手を差し伸べる。わたしはその手を振り払った。
「……もらってよぅ」
自分でも情けないと思うくらい、弱々しい声しか出なかった。
床に仰向けに寝転がったわたしは、前腕で自分の目を覆い、鼻をひくつかせながら途切れ途切れに訴える。
「……久世がもらってくれなかったら、なんの意味もないんだよぅ……このお金も……わたしの今までも……お願いだから、もらってよぅ……」
わたしは久世が折れてくれるまで、この体勢から動くつもりはない。脅しが通じなかったわたしには、もはや泣き落とししか残されていなかった。子どものように駄々をこねる。昔、千絵が「ズルい」と呟いた女性教師のことを言えない。でも、どんなに恥ずかしい過程でもいい。今、わたしが欲しいのは、久世がお金を受け取ってくれるという結果なのだ。
「……わかったよ」
久世の声だった。今までにない、優しい響きのある声だった。
わたしは目を覆っていた腕を少しずらして、久世の様子を窺う。
膝立ちになっている久世の表情は、根負けの滲んだ苦笑だった。
「わかったから……もう泣かないでくれ」
弱り切った久世がかわいい。そう思うと同時に、わたしは久世に抱きつき、声を上げて泣いていた。
「良かったよー。ありがとう、久世ぇ」
久世は、わたしを強く抱き締め、頭を撫でてくれた。それだけで幸せだった。
「『ありがとう』って言うのは、俺のほうだろ。お前ホントバカだな……」
今はこの憎まれ口がたまらなく嬉しかった。
夜道。
ここから家に向かうには、久世とわたしは別々の道になる。
わたしは名残惜しく思いながら、久世の手を放した。
「じゃあね」とわたしが言う。
「おう」と久世が答える。
お互い、なんとなく照れたように笑い、ゆっくりとそれぞれの道を歩き出した。
「なあ、上永!」
久世がわたしを呼ぶ。
わたしは「何?」と振り返る。
久世は言いづらそうにもごもごしながら、「今度はさ……」と切り出す。
「今度?」
「今度は、その……フツーに会わねえ?」
わたしは小首を傾げた。
「フツーって?」
わたしの理解力の乏しさをもどかしく思っているかのように、久世は頭を掻き毟る。
「あれだよ……映画観たりとか、遊園地行ったりとか……」
わたしは一瞬、ポカンとする。急に可笑しくなって噴き出した。
「別にいいけどさ……」
「いいけど、何?」
笑われたのが嫌だったのか、久世の顔は不服そうだ。
「なんかそれって、デートっぽくない?」
わたしの言葉に、久世は「そこからかよ……」と宙を仰ぎ、不貞腐れたように、どこか照れ臭そうに言う。
「そうだよ、悪いか?」
わたしは笑顔で答える。
「悪くぬー」




