22
22
翌朝。
気が昂ぶって寝られなかったわたしは、二階にある自分の部屋の窓から、スーツ姿のお父さんが家を出て行くところを見かけた。
これからハローワークか、どこかの会社の面接にでもいくのだろう。
わたしはなんとなく、歩いていくお父さんの背中に「いってらっしゃい」と呟いていた。達成感を覚えると、どうやら人に優しくなれるらしい、と実感した。
ちなみに、宮沢からもらった宝石付きの指輪は机の引き出しの奥にしまっておいた。宮沢の言った値段が本当なら、質屋にでも持っていけば高額で引き取ってくれるかもしれない。しかし、高校生のわたしがそんな指輪を持っていったら、相当怪しまれることだろう。なので、指輪の処理は、もう少し長い目で考えることにし、しばらくは保管ということにしている。
わたしは自分のベッドを見る。そこには百万円の束が三つ置かれていた。
昼休みの学食で、わたしはまた七味唐辛子山盛りのかけうどんを食べる。
目下、わたしにとって最大のストレスだった宮沢との契約が終了しても、わたしの感覚異常に変化は見られなかった。これからもずっと、白黒の世界で、味のよくわからないご飯を食べ続けるのは、ちょっと損した気分になる。でも、それによって得られるものがあったのだ。後悔はない。
「あ、あのさ……」
背後から声をかけられた。遠慮がちだったが、その声の主はわかる。
振り向くと、千絵がサンドイッチの袋を持って立っていた。
「そこの席、座ってもいいかな」
千絵は躊躇いがちに、わたしの隣の席を指差した。明らかに緊張しているのが見て取れる。千絵は何も悪いことなんかしてないのに。
「どうぞ、お好きに」
「ありがとう」
千絵はパッと笑顔を作って、わたしの隣に座った。
「葵、そんな辛党だったっけ?」
千絵がわたしのうどんを覗き込む。
「まあ、ちょっと味覚が変わってね」
千絵は「ふーん」ともそもそパンを食べ始める。ここであまり深く突っ込んでこないところが千絵の良いところだ。
不意に振動音が聞こえてきた。
わたしはスカートのポケットからスマートフォンを出す。
着信表示に「宮沢さん」とあった。
わたしはスマートフォンの電源をオフにすると、再びスカートのポケットに戻した。
「電話、いいの?」
何も知らない千絵が訊いてくる。
「うん。もう、いいの」
本当にもういいのだ。
着信拒否にしなかったのは、さすがにあからさま過ぎると思っただけで深い考えはない。
わたしは清々しい気分で、唐辛子のまぶされたうどんを啜った。
学校帰り、わたしは久しぶりの自由を謳歌するように街を歩いた。買いもしないアクセサリーを物色したり、本屋でファッション雑誌を立ち読みしたり。
「あれ? 葵?」
ゲームセンターの店頭にあったクレーンゲームの商品を覗き込んでいるわたしに、お声がかかった。
振り向くと、おかっぱのロングヘアで顔も服も地味にまとめられた女の子が立っていた。
はて? 声に聞き覚えがあるような気がしなくもないが、どうにも顔に見覚えが……。
「……どなた、様?」
失礼を承知で訊いてみた。
女の子は、アハハと声を上げて笑う。
「よく見てよ、ほら」
顔をわたしに近づけてくる。
わたしの脳内でシナプスがつながった。
「舞子!?」
「正解!」
わたしは舞子の両肩を持って、ぴょんぴょん跳ねたい気分に駆られる。舞子とはそれこそ、例の一件以来、まったくの音信不通だったのだ。
「ゴメン、ぜんぜん気づかなかった」
わたしが素直に謝ると、舞子はひらひらと手を振った。
「無理ないって、パッと見誰も私だってわかってくれないもん」
「メイク変えた?」
「まあ、それもあるけど。プチッと整形かましたんだ」
「セイケイ?」
「ほら、私、顔変わるくらいブン殴られたから……鼻とか、アゴとか、ね」
そのときの光景を思い出すと、忘れていた憎悪でお腹のあたりがグツグツとする。警察署で舞子の父親が舞子に振るった暴力を、わたしは絶対に許すことができない。
「途中まで歩かない?」
舞子に言われ、家の方角が分岐するところまで一緒に歩くことになった。
「……で、葵は?」
急に切り出されて、「へ?」とわたしは間抜けな返しをする。
「ほら、前に言ってた。人の未来ってのは変えられた?」
ああ、そう言えば。舞子にはそんなことを言ったなあ、と思い出す。そして実際、今のわたしは、一人の少年の未来を変えられる可能性を手に入れた。その縁をくれたのは、まず間違いなく舞子がくれたものだった。
「んー、まあ、これからかな……」
わたしは曖昧に笑った。本当にこれから、なのだ。わたしは確かに可能性――というか、現金を手に入れた。でも、それを「はい、どうぞ」と差し出したところで、久世が素直に受け取ってくれるとも思えない。そのへんは現在、頭を悩ませている最中だ。
舞子は「そか……」と頷き、それ以上踏み込んではこなかった。
「なかなか難しいですよ、人生ってやつは」
わたしが投げやりに手を伸ばす。
舞子も「そうだね……」とわたしの仕草を真似しながら、ぼやいた。
「あーあ、なーんで産まれて来ちゃったのかなぁ? 別に頼んだわけじゃないのに」
「頼んで産まれる仕組みだったら、誰も産まれたがらないっしょ。こんな面倒な世界に」
「なるほど! そっか」
目から鱗、みたいな表情で舞子が言うので、「いや、わかんないけど……」とわたしは自分の言葉に首を傾げる。
不意に舞子が立ち止まった。
「じゃ、私こっちだから」
「うん。じゃあ、またね」
手を振って、背を向けようとしたわたしを「あおいーっ!」と舞子が呼び止める。
「ん?」と振り返ると、舞子が微笑んでいた。その笑顔は、地味な見た目になったのに、学校で女子の中心にいた頃の華やかさを一瞬、彷彿させた。
「久しぶりに話せて良かった」
「わたしもだよ」
「仕組み、変えられるように頼んでみるよ。ダメ元で、勇気出して」
「え?」
「だから、葵も勇気出せ」
「まあ、可能な範囲で」
勇気という言葉がこそばゆく、わたしは濁した答えをしてしまう。
舞子は「葵っぽい」と笑って、手を振った。
「バイバイ」
「うん、バイバイ」
わたしたちは互いに背を向けて、別々の道を歩き始めた。
翌日、わたしは学校で知らされる。
その夜、舞子がビルの屋上から飛び降りたことを。




