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1 終わりのための、はじまりの朝



 あの頃――高校三年の四月。


 わたしの家――上永家は、ギスギスしていた。軽く息が詰まりそうなくらいに。

 制服を着たわたしが、キッチンで朝食やお弁当の準備をしているお母さんを横目に、ダイニングテーブルでトーストを齧っている朝のことだ。

 リビングのほうから、鋏を使う音が聞こえてくる。

わたしはそっちを見ないようにしていた。

 履歴書に貼るために、証明写真を鋏で切っているくたびれたスーツ姿の中年男を見たくなかったからだ。その中年男が自分の父親だなんて、思いたくなかったからだ。

「アレ、持った?」

 お母さんが、フライパンで作った目玉焼きを、わたしの前にある皿に盛りながら訊いてくる。

「アレ? 何それ?」

 わたしは目玉焼きの黄身を箸で小さく崩し、そこにイタリアンドレッシングをかける。

 お母さんはもどかしそうな顔をして、右手に持っていたフライ返しを小さく振った。その目はリビングのほうを気にしている。

「ほら、アレよ。黄色い紙で、今日提出する……」

「ああ、退塾届け? 持ったよ。イン・ザ・バーッグ」

 濁された語尾を引き受けて、床に置いてあるスクール鞄を示した。

 お母さんが顔をしかめたのはわかったけど、それには気づかないフリをして訊く。

「理由んとこ、空欄でいいわけ?」

「いいのよ、別に」

「訊かれたら?」

「別の塾に行くとでも言っときなさい」

お母さんはわたしとの話を断ち切るようにキッチンのほうを向いて、お弁当の準備を再開する。

「嘘じゃん」

 わたしの突っ込みにお母さんはノーリアクションを決め込んだ。

「経済的理由と言えばいい。そうすれば、向こうもわかってくれる」

 履歴書の準備が終わったのだろうか。声のほうを向くと、お父さんがダイニングに来て、茶碗にご飯をよそっていた。

「すまないな。葵の受験までにはちゃんとするから」

お父さんはわたしの斜め前に座る。

「『ちゃんと』って何?」

「『ちゃんと』は、ちゃんとだよ」

 わたしの問いにお父さんは苦笑した。ここで苦笑しかできないから、今みたいな状況になるんだろうな、と思った。

わたしは鞄を持って立ち上がる。

「別にいいって。大学、行く気ないし」

「そんなこと言うもんじゃないぞ。このご時勢、大学くらい出とかないと……」

「このご時勢、大学出たって、お父さんみたいになるんじゃ、意味ないじゃ――」

 お父さんの言葉を遮ろうとしたら、「ん」を言い切る前に、お母さんの「葵っ!」という金切り声が響いた。

 こうなっては何を言っても、お母さんの独壇場だ。わたしは白旗を上げるように、鞄を肩にかけてドアを目指す。

「行ってきます」

お母さんが「葵、お弁当は?」と呼び止めるのを「いらない」と返し、わたしは家を出て高校へと向かう。


 家から歩いて十数分のところにあるコンビニエンスストア「ファミリースポット」に寄って、わたしはオニギリを買うことにする。お弁当をいらないと言ってしまった自業自得なのだけれど、お昼ご飯代を自分のお小遣いから出さなければいけないのは、なんとなく負けた気分だ。

 朝だからか、レジには通勤通学前らしき人たちで、十名ほどの列が出来ていた。これに並ぶくらいなら、お母さんの怒りを受け流して、お弁当をもらってきたほうが効率的だった、と思わなくもない。だけど今さら家に戻るという選択肢もないわたしは、溜め息をつきながら列の最後尾に並ぶ。

 あれ? 

わたしの数メートル前方にあるレジで会計を済ませた男の後ろ姿に見覚えがある。ような気がした。

髪の毛は男の人にしては長めで、紺色のタンクトップから出ている肩は細いながらも筋肉の形が浮き出ている。見覚えがあると思ったのは、その姿勢というか立ち居振る舞いだ。誰だ? 横顔を覗き見ようとしたけど、わたしの前にある数人の列が邪魔でうまく見えない。そうこうしているうちに、その人はコンビニエンスストアのエントランスから出て行ってしまった。

特に深追いする必要もない。見覚えのある人を見かけるなんてよくあることだ。きっとあと数分もすれば見かけたことすら忘れてしまうだろう。

それにしても……わたしの並んでいる列は呪われているのかと思うくらい前に進まなかった。



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