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 朝起きると、家にはわたししかいなかった。

 お父さんはハローワークへ仕事探しに、お母さんはお弁当屋へアルバイトに出かけておりましたとさ、と某昔話風に考える。

 わたしは、お母さんの部屋に入り、クローゼットの中を物色する。正直、何が正解なのかはわからないけど、とりあえず、それっぽいものを見つけ出すことができた。

 わたしはまずシャワーを浴び、これからの行動に備える。


 電車を数本乗り継いだわたしは、いわゆる中心街へやってきた。指定されたビルは、外側がすべて鏡面ガラスになっている今風の造りで、まわりの景色を反射しながらそそり立っている。

 誰もわたしのことなど見ていないだろうに、それでもわたしは田舎者みたいな劣等感をひしひしと感じながら、そのビルへと足を踏み入れ、目的の階を目指した。

「いやあ、まさかホントに尋ねてくるとはね」

 宮沢は楽しげに手を広げながら、わたしを迎え入れてくれた。

 ここは宮沢が代表取締役を務める企業、「Lock on!」がオフィスを構えるフロアだ。わたしは今、その中枢となる社長室に案内されている。

 広々とした部屋には、いくつもの観葉植物が置かれ、壁の一面を陣取る本棚には、難し

そうな書籍がぎっしり詰まっていた。遮光ガラスになっている窓側には、執務用の大きな

デスクがあり、二台のパソコンモニターが置かれている。

 高校の理事長室にあったのがオモチャに見えるような高級感あふれる応接セットのソフ

ァの座り心地は、驚くほど柔らかすぎて貧乏人のわたしは、逆に落ち着かない。

 数日前に電話をかけ「宮沢さんの会社で会いたい」とお願いした時点で、突拍子もないことを言っていると思ったし、拒絶されることも覚悟していた。けれど、宮沢はそれを面白がってくれたようだ。

「そのスーツは、誰かに借りたの?」

 わたしの正面に座った宮沢は、クスクス笑いながら、わたしが着ている黒いスーツを示した。

「母親のものを借りてきて……変ですか?」

 会社を訪問するのだ。それなりの格好が必要だろう。そう思って、母のクローゼットを漁り、一番まともそうなものを見繕ってきたつもりだ。さすがに家から着て行く勇気はなく、近くの駅のトイレで着替えてきた。荷物はコインロッカーに預けてある。

「まあ、サイズが合ってないとか、いろいろダメだけど、高校の制服とかで来られるよりかはよっぽどマシだよ」

 そう言いながら、宮沢はわたしの前に座る。

「すいません、忙しいのに……」

「店のときとは、やっぱ雰囲気が違うね」

わたしが恐縮するのを宮沢が笑い飛ばす。

「ダメ、ですか?」

「いや、むしろ僕はそっちのほうが好きだよ」

「ありがとうございます」

「でも、なんで?」

「え?」

「なんで、僕の会社で会いたかったの?」

「どれくらい大きな会社か見たくって……名刺とか評判だけだと、なかなかイメージがつかなかったから」

「ふーん。それで実際に見ての感想は?」

「たぶん、大丈夫かなって思いました」

「『大丈夫』って、何が? まさか、ウチに入社したいとか?」

 宮沢がおどけた調子で訊いてくる。

 わたしは見苦しくないように静かに深く息を吸い込み、お腹に力を込める。

 イメージトレーニングは出来ている。実際にあれを間近で見たときの印象は、今でも色褪せてはいない。今度はそれを、わたしが自分の体で実行するだけだ。

 わたしは椅子から立ち上がると、歩みを進めテーブルの脇に立つ。

「どうしたの?」という宮沢の問いには答えず、わたしは膝をついて正座をし、両手を床につけ、深々と頭を下げる。

 手本となったお父さんの迫真のそれよりは見劣りするかもしれないけど、土下座の条件はちゃんと満たしているはずだ。

「わたしは……処女です」

 宮沢が「え?」とこぼした。

「前に宮沢さん言いましたよね? 新しいモノ、初めてのモノは価値が高いって……」

 宮沢は何も答えなかった。これは肯定と捉えていいだろう。わたしは頭を床につけたまま続ける。

「これから一ヶ月、なんでもします。宮沢さんの言うことならなんでも聞きます!」

 言い切った。でも本題はここからだ。

「だから……」

 次の言葉がなかなか出てこない。覚悟をちゃんと作ってきたつもりなのに。それでも喉が震えて、思いが言葉につながらない。

「……だから?」

 あまりにも間が長かったのだろう。宮沢が続きを促した。

 わたしは目をつぶる。

 あのときの久世の顔を思い出す。

――今日はありがとな。お前がいてくれて助かった。

 大丈夫だ。わたしはこの思い出さえあれば、耐えられる。

 わたしは、ひと息に願いを吐き出す。

「わたしの一ヶ月を、三百万で買ってください!」

 言えた。

 この願いが無謀なのは、来る前からわかっていた。でも、わたしの足りない頭じゃ、これくらいしか思いつかなかった。

 わたしはまだ頭をこすりつけたままだ。

 理事長からの答えが聞かされるまで、ひたすら顔を上げなかったときのお父さんの気持ちが、今さらながらによくわかる。

 だが、宮沢は何も言ってこない。

わたしの視界は床に塞がれているので、どんな顔をしているのかも見えない。ただ、なんらかの動きをしているらしい衣擦れの音が聞こえた。

「どうも、宮沢です。お世話になってます……ええ、はい、お陰さまで」

 宮沢の笑い声を聞いて、わたしは思わず顔を上げてしまった。

 宮沢はスマートフォンを顔に当て、誰かと電話をしている。

 わたしの行動も大概だけど、宮沢のやっていることも意味不明だ。

 電話の相手は、どうやら商談相手らしい。軽い近況報告のあとに、宮沢は「それでですね……」と切り出した。

「今日の会食の件なんですが……ええ、申し訳ないんですが、急な予定が入ってしまいまして……はい、ちょっと別件で、新しい契約が決まりそうでしてね……どうしても私の身が空かなくなってしまったんですよ……ハハハ、どうもすいません、わがまま言いまして。また必ず、機会を設けますんで……はい、失礼します」

 宮沢は電話を切って、わたしを見下ろす。

今の電話での話から考えて、わたしの願いを聞きい入れてくれた、ということでいいのだろうか。

 おそらく今、相当の間抜け面を浮かべているわたしに向かって、宮沢は微笑んだ。

「さて……どこで契約を交わそうか」



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