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あてどなく歩くうちに、わたしの頬がじんわりと痛みはじめた。
腹立たしさも悔しさも、なんの感情も起こらない。ただ、痛いなぁ、という感覚だけがある。お母さんの気持ちは理解できないわけでもなかった。こんなバカで出来の悪い娘でごめんね、とも思う。でもそれだけだった。
心を入れ替えようとか、これからは迷惑をかけないように真面目に生きようとか、そういう気持ちが湧いてこない。
暇なときにお菓子を食べながら見ていたドラマかなんかで、こんな出来事があったあと、素行の悪い若者が改心するような展開になっていたなあ、と思い出す。
わたしは人として大事なものが、何か欠けているんじゃないだろうか。
仮にそうだとして、どうすればいいのだろう。
望むと望まないと、わたしは自動的に年齢を重ねてしまう。いずれ学生というお気楽な身分を剥奪され、社会に出なきゃいけなくなる。こんな欠陥人間のわたしが、得体の知れない社会という場所に放り出されて、うまくやっていけるわけがない。
そんなことを考えているうちに、わたしが辿り着いたのは、久世の住むアパートだった。
時朗たちは表に出ていない。
いつの間にか夜に近い夕方になっていた。
わたしはいつも時朗がボールをぶつけているコンクリートの壁に触れる。
「なーにやってんだか、わたしは……」
何も考えていないのに、なぜかここへやって来た。それってここに何かを求めているからなのだろうか。
わたしが久世のアパートのほうを見たときだった。
金属音らしきものが、立て続けに鳴り響いた。ファミリーレストランとかで、店員が大量のシルバーを床に落としたときに聞くような音だった。久世家の部屋からなのは間違いなく、ドアが閉められた状態でもしっかりと聞こえたのだから、それが本来ならかなり大きい音だというのは、わたしでもわかった。
「お母さーん!」
時朗の悲鳴に近い泣き声が聞こえた。
あれこれ考えている場合ではない。
わたしは久世家のアパートに行き、チャイムを鳴らし、「開けて!」とドアノブを回す。
どうやら鍵を閉めていなかったらしい。
ドアノブはスムーズに回転し、わたしはドアを開ける。
玄関を入ってすぐが、キッチンだった。
床に鍋類が散乱している。これが音の発生源だったのか、と思う。
だが問題はそこではない。
わたしの眼前で、女性が倒れていた。
以前、顔を合わせたことがある久世の母親が、お腹を押さえながらうずくまっている。額から出る脂汗が尋常じゃない。
時朗と美晴は、床に這いつくばっている母を泣きながら揺り起こそうとしていた。いや、どうしていいかわからず、単純にすり寄っているだけかもしれない。
久世はいない。気配でわかる。だからこその事態だ。
わたしは時朗たちに駆け寄り、「大丈夫だから!」と言い切って、スマートフォンを取り出すと、救急車を呼んだ。
わたしたちは、一番近くにある市立の総合病院に搬送された。
今思い返せば、救急車に乗ったことなどなかったけど、車内の様子を見る余裕などなかった。時朗や美晴を抱きかかえながら、「大丈夫だよ」と根拠のない言葉を言い続けることが精一杯だった。
処置の終わった久世の母親は、ベッドに寝かされている。通されたのは四人部屋だったが、他の三つのベッドに人はいないので、個室のような状況だった。
美晴は丸椅子に、時朗はわたしの膝の上に、それぞれ座りながら、母親の手に触れている。二人とも騒動に疲れ果てたのか、泣き腫らした顔をベッドに預けて眠ってしまっている。
不意に激しい足音が室内に響く。
交通整理の作業服を着た久世だった。
「久世……」
久世は寝ている母親の傍に歩み寄ると、息も整わない様子で口を開く。
「……母さんは?」
「薬で寝てる。お医者さんが言うには、たぶん過労だって……明日また、落ち着いたら、詳しい検査をするって言ってた」
「そう……」と呟いた久世の横顔には、何かを押し込めたような険しさがあった。
久世のアパートに戻ってきたのは、夜の九時を超えた頃だった。
久世からは「あとは俺がやるから」と追い返されそうになったけど、時朗たちを見て、「この子たちが家に帰るところを見届けないとわたし的にすっきりしない」と返したら、「勝手にしろ」と言われた。なので、勝手にすることにした。途中、ファーストフード店に寄って最安値の夕食を摂った。わたしがおごってあげても良かったのだけど、下手な言い方をするとまた久世を怒らせそうで、わたしは何も言わずに久世家のレベルに合わせ、ドリンクとポテトだけを注文した。
そして今に至る。
わたしと手をつないでいた時朗は、また眠くなってきたのか、もう一方の手でしきりに目をこすっていた。
鍵を出そうとでもしたのだろう。ポケットをまさぐり出した久世が、不意に「あ……」と声を出して、足を止めた。
「何?」とわたしは、久世の視線が向いている先を見る。
アパートの軒下の影になっているところに、煙が見えた。煙草の煙だというのがわかる。目を凝らすと、柄物のシャツを胸まで開いたスーツ姿の男が立っていた。
わたしたちを視認したらしい男は、煙草を地面に投げ捨てると、「よう」とこちらに歩いてくる。浮かべているおちゃらけた表情を見る限り、久世と知り合いらしい。
「遅かったね。けっこう待ってたよ」
「すいません、矢口さん。ちょっとバタバタしてまして……」
久世は神妙な物言いで軽く頭を下げる。
矢口と呼ばれた男は、以前わたしが働いていたキャバクラの店長、柏木にどことなく雰囲気が似ていた。
「聞いたよー。お母さん、救急車で運ばれたんだって?」
矢口の口調は妙にフレンドリーだ。
久世はその振りには答えず、「今日、お渡しの日でしたよね。すぐ持ってきますんで」とドアの前へ進み、鍵を開けた。
「それよりさ、大丈夫なわけ? お母さん、入院なんてことになったら、今でもギリギリの借金返済が滞っちゃうよね?」
軽い言い回しなのに、妙に耳にまとわりつくような声だった。
「妹たちの前でそういう話するのやめてください。大丈夫ですよ、俺が倍働けばいいだけなんで」
久世はそう言うとドアを開け、美晴たちを中に入れた。そして、わたしのほうを見て「お前も入って」と顎をしゃくった。
わたしは「お邪魔します」と靴を脱いで部屋に上がった。先ほどは台所までだったとけど、今度はその奥にある部屋に通された。
お世辞にも綺麗とは言えない八畳くらいの畳の部屋だった。
「美晴、時朗といっしょに歯、磨いてきて、寝る用意して」
久世の言葉に、「はい」と頷いた美晴は、「眠い」と目をこすり続ける時朗を伴って、洗面室のほうへ消えた。
久世は静かにゆっくりと息を吐くと、部屋の隅にある箪笥の引き出しを開け、茶封筒を
取り出した。たぶんそこに、矢口に渡す本日分の借金が入っているのだろう。
「……上永」
いきなり名前を呼ばれて、わたしは「え?」としか声を上げられなかった。
久世がわたしのほうを見つめていた。いつもみたいな小憎らしいものとは違う、切なさを帯びた感じのする目線だった。
「なんてゆうか……今日はありがとな。お前がいてくれて助かった」
いきなりのお礼に、わたしはなんのリアクションも取れない。
何か言わなくては、と口をもごもごさせているうちに、「じゃあ、これ渡してくるから」と久世は茶封筒を示して、部屋を出て行ってしまった。
時朗と美晴が洗面所から戻ってきて布団を敷こうとしたので、それを手伝い、二人が横になるのを見届けた。わたしは、この子たちがなんとか今日を無事に終えられそうなのを見て、胸を撫で下ろす。
それから十数分、久世は部屋に戻って来なかった。
久世家を出たわたしは、夜道を歩きながら、ある決意を固めようとしていた。
そもそも、今考えていることが、うまく行く可能性はそれほど高いとは思えない。
仮にうまく行ったとしても、わたしがそれに耐えられる自信がなかった。
自分なんてしょせん……とか思いながら、どこかで自分のことがかわいいわたしがいる。そんな自分が情けなかった。
わたしは、先ほどの久世を思い出した。
――今日はありがとな。お前がいてくれて助かった。
不思議だった。あのときの久世の顔を、久世の言葉を思い出すと、胸に力が湧いてくるような感じがした。
わたしは全身にあった空気をすべて吐き切るように深呼吸をする。
OK。もう大丈夫。
わたしはポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「あ、もしもし……夜分遅くにすいません……宮沢さん、ですか」




