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その日は、休日だった。
世間的に休日というだけで、夕方からはアルバイトが入っている。学校がない分、ゆっくりとした午後を過ごせることが有り難い。
もう一つ、わたしには嬉しいことがあった。
お給料が入ったのだ。
わたしはお給料日に振り込まれた金額を、全額引き出して、家に持ってきていた。
一ヶ月、まるまる働けたわけじゃないけれど、頑張った分の歩合も乗っかって、普通にアルバイトをするのがバカらしくなるくらいの金額をもらった。
ベッドに一枚ずつ一万円札を並べ、それでどれくらいの面積になるだろう、とか頭の悪い行為をしてみる。ベッドの半分くらいが、一万円札で埋まったのを見て、頬が自然と緩んでしまった。もちろん、目標額ははるかに先だけれど、それでもこのまま続ければ、という希望を垣間見ることができた。
わたしはベッドの一万円札を回収すると、その中から一枚だけを財布の中に入れる。それで何を買うかは決まっていた。
外出着に身を包むと、わたしは階段を下りて玄関へと向かう。
靴を履こうとしたとき、ドアが開いた。
買い物袋を提げたお父さんだった。わたしの顔を見て、目が溺れない程度に泳いでいた。
そう言えば、こうやって面と向かうのは久しぶりのことだな、と思う。最近はアルバイトにかまけすぎて、お父さんのこともあまり考えずに済んでいた。
「……出かけるのか」
お父さんがごわついた笑みを浮かべた。わたしみたいな小娘に遠慮しているのが伝わってくる。
わたしはぎこちなく頷くと、お父さんの横をすり抜けて家を出た。
時間は残酷だ。わたしは小さい頃、お父さんが大好きで、休日にはいろんなところへ遊びに連れて行ってもらった。
それが今では、顔を合わせるだけで気まずい空気になってしまう父と娘だ。きっとこの気まずさはますます濃いものになっていくのだろう。
別につらくも、寂しくもない。でも、なんか……少しだけ収まりの悪い感覚を覚えながら、わたしは出勤前に寄るべき場所を目指した。
“ペコン”という間の抜けた音が聞こえる。
久世の家族が暮らしているアパートへやってきたわたしは、以前と変わらない光景を目にした。
壁に向かって男の子が空気の抜けたゴムボールを投げ、少し離れたところで女の子が絵を描いている。
「あ!」
久世の弟――時朗と言っていた――が、わたしのことを見て、目を輝かせた。
「オス!」
わたしは時朗に笑顔で手を上げ、こちらのほうを見ている久世の妹――美晴にも微笑みを投げた。
時朗がわたしのほうに駆け寄ってくる。素直に動ける無邪気さがわたしの胸を温めてくれた。
「また遊びに来てくれたの?」
わたしはしゃがんで時朗と同じ目線の高さになった。
「ごめーん、今日はちょっと時間ないんだ」
苦笑いして、時朗の頭を撫でる。
「そうなんだ……」
時朗は残念そうに口をすぼめる。それを見て抱き締めたい衝動に駆られながら、わたしは「そん代わし……」と持っていた鞄の中に手を入れた。
「はい、これ。これで壁にぶつけても、跳ね返ってくるよ」
わたしが差し出したのは、新品のゴムボールだ。何がいいのかなんてわからないから、ショッピングモールのおもちゃ売り場で一番高いものを買ってきた。
「わあ! ありがとう!」
時朗は掲げるようにボールを受け取ると、壁のほうに向かい、ボールを投げた。
小気味いいバウンド音を弾ませて手元に返ってくるボールをキャッチした時朗は、「おお!」と感動した顔をわたしに向けてくる。
こんなお金の使い方があるんだ、とわたしははじめて知った。自分が気に入った服を買うより、友達とカラオケに行くより、もっとずっと価値があるように感じた。
さて。
わたしは壁とリズミカルなキャッチボールを始めた時朗から離れ、絵を描いている美晴のほうへ歩み寄る。
美晴が座っているコンクリの段に、わたしも並ぶように腰を下ろす。美晴は人見知りするらしい。わたしのほうをチラッと見て、再び絵のほうを向く。でも、わたしのことを気にはしているようで、ちびた色鉛筆を持った手は動いていない。
「はい」
わたしは、鞄の中から十二色の新品の色鉛筆セットを出して、美晴に見せた。
さすがに時朗ほど反応は素直ではなかった。わたしの手にある色鉛筆のケースを見て、戸惑った表情を浮かべている。性格なのか、それとも、そういう教育を受けているのかはわからないけど、無闇に人から物をもらうことを警戒するのは良いことだ。
わたしは用意していた台詞を口に出す。
「これ、もらったんだけどさ。わたし、困ったことに絵、下手くそなんだよねぇ」
もらった、というのは嘘だけど、絵が下手くそというのは紛うことなき真実だ。
「そんなわけで、お姉ちゃんが持ってても仕方ないからさ、もらってくれると嬉しんだ」
本当にいいの? というような顔をしながら、美晴は恐る恐る色鉛筆のケースを受け取った。口元がかすかに微笑んだように見える。
「……ありがとう」
久世の妹弟だから、拒否される可能性も多少考えていたけど、二人とも受け取ってくれて良かった。
わたしは満足感とともに立ち上がる。
歩いてくる者の足音が聞こえた。
久世かな、と思ってそちらを見る。
やってきたのは、買い物袋を提げた四十代くらいの女性だった。表情には疲れが見え、髪も白髪が目立っている。でも、目元がなんとなく久世に似ていた。中学のときに会ったことがある気がしなくもない。
「お帰りなさい、お母さん」
飛びつく時朗が、正解を教えてくれた。
わたしは久世のお母さんに一礼する。久世のお母さんもそれに応じてくれた。
わたしがその場を立ち去るとき、久世のお母さんが時朗に向かって、「どなた?」と小さく尋ねているのが聞こえた。
「あのね、お兄ちゃんのお友達!」
時朗の声がお母さんの小声を台無しにする。
ごめんね。お友達ってほど、仲良しでもないんだ。ただ、中学のときクラスが一緒だったってだけで……。
わたしは心の中で、反論しつつ、その場を去る。
今日一番の目標は終わった。あとは、ちょっと頑張って表情筋を笑顔でキープしながら、おじ様たちの愚痴を聞くだけ。
……くらいに思っていた。
今日があんなに長い一日なるなんて、この時点でわかるわけがない。
出勤したわたしは、誰からも指名されることなく、舞子のヘルプでテーブルの賑やかしを務める。
開店して間もない時間のわりには、お客の入りが多いような気がした。見かけない顔ぶればかりのような感じもするが、わたしが単にお客の顔を憶える能力が低いだけかもしれない。
舞子の相手は、以前も来ていた水谷という男だった。まんまと舞子の術中にはまったらしく、あることないこと褒められまくり、テンションが上がりまくりだ。
「ねえ、マユミちゃんて歳いくつ?」
「二十一ですよー、見えませんか?」
「見えないよねー」
「ひっどーい。それってぇ、私がオバサンに見えるってことですかぁ?」
舞子がかわいく膨れっ面を作る。
「ハハハ、違うよ」
水谷はにやにやしながら、舞子に「おいでおいで」をして、顔を近付けさせる。わたしには見えないように、口元に手を立てると、何事かを耳打ちしたようだ。
「ホント!?」と舞子の目が輝いた。
水谷が「ホントホント。僕さ、正直なコには、嘘つけないから」と片目を閉じる。おじさんのウィンクには、内心首を傾げたくなる。
「私たちだけの秘密ね」
「もちろん」
舞子が小声で言うと、水谷はそれに合わせるように頷いた。なんのやり取りがされているのかはいまいちわからないけど、わたしはお邪魔にならないように、テーブルに着いた水滴などを拭き取り、フォローに徹する。
今度は舞子が水谷を手招きして、耳を近づけさせる。
「マジ?」
舞子の耳打ちに、水谷は小声ながらも驚いたようなリアクションを見せた。
舞子は「マジ」といたずらっぽく笑ってピースサインをする。
「そっかぁ、やっぱりかぁ」
水谷は背筋を伸ばすようにして、両手を頭
の後ろで組んだ。
「ねえ、約束通りドンペリ二本、頼んでいい?」
どうやらこれが、舞子と水谷とのあいだでなされたやり取りの内容だったようだ。
「いいよー。ただし、店長に注文してね」
水谷の言葉に「OっKー、了解の介ー」と起ち上がった舞子は、「店長ー!」と大声で柏
木を呼ぶ。
柏木が「はいはーい」とテーブルへやって来る。
「どーしたの、マユミちゃん。嬉しそうな顔して。もしかしてそちらのイケメンなお客さ
んに口説かれちゃった?」
心にもない、というのは柏木が口からついて出る言葉のようなことを示すのだろう。
「こちらのお客さんがね」と舞子は水谷を示し「ドンペリ二本注文してく……」とまで言
いかけたところで突然、水谷が立ち上がった。
最後まで言葉を言い切れなかった舞子が、不機嫌そうに水谷のほうを見る。
でも、水谷はもう舞子のほうを見ていなかった。相対する柏木も、何やら不穏な空気に真顔になり、獲物を睨む蛇のような表情をしていた。
水谷はスーツの胸ポケットから黒い手帳のようなものを取り出すと、柏木に向かって、それを開いて見せた。
「なっ? アンタ……」
柏木が今までに聞いたこのとない、重低音の声を出した。いわゆるドスのきいた声というやつだ。
そして、水谷が出した物が、水谷の身分を示すものなのだろうというのは、さすがのわたしでもわかった。
柏木が声を出した直後だ。
周りで飲んでいたスーツ姿の客たちが、一斉に立ち上がった。みんな、先ほどまでの楽しそうな顔を一変させ、厳つい表情を浮かべている。
「ダメでしょ、店長。十八歳未満の女の子を働かせちゃ。それに十八超えてても、酒を飲んでの接客はちゃんと止めないと。いろいろ突っ込みどころありすぎるから、僕らみたいのがしゃしゃらなきゃいけなくなるんです。言ってる意味、わかりますよね?」
水谷の言葉は、静まり返った店内で無機質に響いた。
柏木は水谷ではなく、舞子のほうに向かって、怒鳴り声を上げる。
「マユミ! てめぇ、何言いやがったんだ!」
恐怖に震えがる舞子は、目に涙を溜めながら、水谷のスーツの袖をつかむ。
「なんで? 二人だけの秘密って言ったじゃん! 嘘つかないって言ったじゃん!」
水谷は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ゴメンね。嘘つきには嘘つかなきゃ、本当のこと言ってくれないでしょ……」
舞子はその言葉とともにくずおれて、ソファに突っ伏して泣き出した。
「全員引っ張れ!」
水谷の無情な一言が、厳ついスーツの男たちを動かした。まるでラグビーのチームプレーのように統制の取れた動きだった。
悲鳴を上げて逃げ惑うキャバクラ嬢や暴力で必死に抵抗しようとする男性従業員と、それを取り押さえようとする警察たちとの攻防戦が繰り広げられる。入念に準備をしてきた者たちと、ただ突発的な危機に抗うだけの者たちとの差は歴然としていた。
わたしはこの光景を突っ立ったまま見て、ぼんやりと考える。
この展開が久世の弟たちにプレゼントをあげられたあとに起こったことで良かった、と。




