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お腹がすいた。
そう言えばお昼ご飯、まだ食べてなかったんだよなあ……スパゲッティが食べたいなあ、などと思考を泳がせながら、わたしはとぼとぼと歩く。
その少し前を、アルバイト先に向かうのであろう久世が歩いている。黒いTシャツにジーンズ姿は、以前会ったときと同じ格好だ。あのときは気づかなかったけど、よく見れば、Tシャツの黒はかなり色褪せている。
「……ゴメン」
口をついて出ていた。久世の背中に怒りを感じたのか、単純に沈黙に耐えられなかった
のかは自分でもよくわからない。
「何が?」
久世はこっちを見ようともしない。その短い言葉には不機嫌さが滲んでいる。
「いや、なんとなく……」
「なんとなくで謝んじゃねーよ」
「……ゴメン。あ! いや、今のは『なんとなく謝ったこと』に対してのゴメンていう、
明確な理由があって……」
「わかったよ。で?」
久世の言う「で?」は、「なんで尋ねてきたのか」という意味だろう。
「……いろいろ聞いた。クラスメート……あ、いや、県縦の元クラスメートから……高校のこととか」
しどろもどろって、今のわたしみたいなことなのかな、と思う。
久世がチラッと後ろを振り向く。絵に描いたような不機嫌さを貼り付けた横顔だった。
「で、何? 見下しに来た? それとも、同情とか?」
「わかんない」
久世が「なんだそりゃ」と洩らした。
「わかんないけど、なんか、いてもたってもいらんなかった」
久世が何も言わないのをいいことにわたしは続ける。
「どうすんの?」
「何が?」
「学校辞めて、バイトして、それで、最終的に久世はどうなりたいわけ?」
「どうもなりたくねえよ」
投げやりな答えに二の句が継げない。
「今は、借金返すので精一杯だ」
久世はひと息にそう言い切ったあと、ぼそぼそと言葉を足していく。
「……工場のもの、もろもろ整理して、売れるものは全部売って……それでも返しきれなかった」
久世が喋っているのは日本語だ。意味はわかる。でもたぶん、真意を拾えていない。わたしの理解力は編み目が大きすぎて、久世の言葉に込められた心を掬えていない。だからだろう。わたしは即物的な問いしか発せない。
「……いくら?」
「は?」
「……借金て?」
教えてはくれないだろう。久世の性格から考えれば、拒絶の言葉が来るに違いない。それがわかっていたわたしは身構える。
「三百万」
「え?」
前方からの攻撃を警戒してガードしていたのに、後ろから殴り飛ばされたような衝撃を受けた。
久世はそこで歩みを止め、わたしのほうを振り向く。久世の目には、蔑みの色が漂っているように見えた。わたしも射竦められるように足を止めた。
「三百万だよ。もういいだろ。お前のゴシップめいた好奇心に、これ以上付き合い切わせるのはカンベンしてくれよ」
そんなつもりじゃない! わたしの心は叫んでいるのに、口はもごもご動くだけで、声を発せなかった。こういうときに上手く言葉が返せない、頭の回転の悪さが悔しい。
何も言い返せないわたしに、久世は止めの一言と言わんばかりに「だから、今の俺は……」と切り出した。
「だから、今の俺は……何も考えないで、少しでも金を稼ぐしかねえんだよ」
久世はそう言い残すと、わたしに背を向けて再び歩き始める。
一度止まってしまった足を、わたしは動かすことができなかった。
久世がどんどん離れて行く。
小さくなっていく久世の、信念めいた何かで支えられている背中が見えなくなるまで、わたしはその場に立ち尽くしていた。
わたしの心とは関係なく、わたしのお腹が空腹の限界を告げる。
駅前の本屋の自動ドアが開くと、わたしは迷うことなく、あるコーナーを目指す。
受験・参考書コーナー。
わたしが久世に「久しぶり」と声をかけた場所だ。
わたしは久世がかつていた位置に立つ。身長差が十センチくらいあるので、目線はトレースできないけど、そこは想像力で補う。
わたしはあのとき久世が手を伸ばそうとしていた本に、自分の手を置いた。
「ちくしょう……」
なんでこんな言葉がこぼれたんだろう。別にわたしは悔しくないのに。悔しくないはずなのに。
声をかけたときに振り向いた瞬間の久世の表情を思い出す。あれは、見られたくないものを見られた人間の表情だったのだ。
「だったら、そのチケット俺にくれよ」
大学受験を勧める両親に対する愚痴をわたしが吐いたときに、久世が怒鳴った言葉だ。
今ならその意味がわかる。
――どうもなりたくねえよ
――だから、今の俺は……何も考えないで、少しでも金を稼ぐしかねえんだよ
久世がさっき言っていた言葉だ。
嘘ついてんじゃねえよ、あの野郎。
どうにかなりたいんじゃん。
考えてるんじゃん。でも、考えないようにしてるだけなんじゃん。
そう思ったら視界がぼやけてきた。
なんで涙腺が緩んでんだよ、ちくしょう。わたしは歯を食いしばって上を向く。久世のことを思って悔しいと思っている自分が悔しくてたまらない。
わたしは自分の手に取った「高卒認定試験ガイド」という本を棚から引き抜き、レジへと持って行く。




