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わたしは息を切らせて、小規模な自動車修理工場の前に立つ。正確には、自動車修理工場だった建物だ。
シャッターが下ろされ、中を覗くことはできない。その佇まいから、すでに人の出入りがないだろうことを感じ取ることがきた。
長いこと開けられていないだろうシャッターの上に看板があった。「久世自動車」というかすれた文字がかろうじて見える。
「あいつ、親父さんが亡くなったんだよ……それで親父さんのやってた工場とか借金と
か? まあ、いろいろ大変らしくてさ、高校なんか行ってる場合じゃなくなったんだって
……てゆーか、詳しいことは知らないけど」
友原がゴンドラの中で言っていた言葉を思い出す。誇張を混ぜて大袈裟に言っているのかと思ったけど、目の前にある光景は、紛れもない真実を突き付けてくる。
不意に買い物袋を下げた中年の女性が、横を通り過ぎた。彼女はわたしに一瞥をくれると、そのまま久世自動車工場のすぐ近くにある民家の門扉を開く。
「すいません!」
わたしは思わず、声をかけていた。
「はい?」とこちらを振り返った中年女性はわたしに訝しげな目線を向けている。
普段のわたしなら絶対にしない行動だ。なんでこんなにムキになっているのか、自分でもよくわからない。この女性になんと思われても良かった。今のわたしは、少しでも情報が欲しかった。
「あの、ここに住んでた人たちって、今どちらに……?」
わたしはかつて「久世自動車工場」であった建物を指差した。
地図アプリを表示させたスマートフォンを片手に、わたしは教えられた住所に辿り着いた。何度か道に迷いながら。
第一印象はボロい、だった。築何十年経っているのかわからないけど、ちょっと大きな地震でも来たら、耐えられないんじゃないの、と思ってしまうくらい、そのアパートは便りなさげに建っている。
ここに久世が住んでいるのは間違いない。そう思えたのは、そのアパートの近くにある壁に、ゴムボールをぶつけている少年を見たからだった。小学校一、二年生に見えるその子は、着るものがないからか、小学校の体操着に身を包んでいた。胸に大きく「久世」とマジックで書かれた布が縫い付けられている。おそらく久世の弟だろう。
そして、そんな壁にボールをぶつけている少年から少し離れたコンクリートの段差に腰をかけ、広告の裏面らしい白紙にちびた色鉛筆で絵を描いている女の子がいた。男の子よりは二、三歳上だろう。
男の子は、壁に向かってゴムボールを投げる。しかし、ボールは跳ね返ってこない。ボールの空気が抜けて、弾力がないのだ。男の子は壁にぶつけて、落ちたボールを拾いに行くと、また元の位置に戻ってボールを投げる、というのを繰り返した。
「ヘイ、パス!」
声をかけると、男の子がポカンとした顔でわたしのほうを見た。絵を描いている女の子もこっちを見ている。
「パスよ、ここに! 早く!」
わたしは胸の辺りに、両手を構えて見せる。
男の子はわけもわからず、といった感じでボールを投げてくる。
「ナイスボール!」
わたしはしっかりキャッチして笑顔を作る。
そして、その男の子めがけて、山なりのボールを投げ返した。
男の子はそれを両手で捕る。
「ナイスキャッチ!」
わたしが親指を立てると、男の子は嬉しそうにして、再びボールを投げてくる。
「ねえ、久世は……悠介お兄ちゃんは? 今何してるの?」、
わたしは男の子としばらくキャッチボールをしながら、頃合いを見計らって訊いた。
「御飯作ってる」
「ゴハン?」
「お母さんがお仕事のときは、お兄ちゃんが御飯作ってくれるんだ。お兄ちゃんのスパゲッティ、おいしんだよ!」
得意げに言う男の子を見て、わたしは「そうなんだ」と自然に微笑んでいた。
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんの友達、なの?」
男の子が訊いてくる。
わたしが、「あ、うん。まあね」と答えようとしたときだった。
「美晴ー、時朗ー、ご飯できたぞー」
アパートのほうから、知っている声が聞こえてきた。
声のほうを見ると、アパート一階の角部屋のドアが開き、久世が顔を出している。
久世は胸にかわいらしいウサギのアップリケがついたエプロンをしていた。
「な、なんでお前が?」
わたしのことを視認した久世は、慌てた様子でエプロンを取り去り、後ろ手にまとめた。
美晴と呼ばれた女の子は色鉛筆をしまい、時朗と呼ばれた男の子はボールを持って、久世が立っている部屋のほうへと走り出す。
時朗は部屋に入る間際、わたしのほうを向いて、「またやろうね!」と笑った。
わたしは「うん」と手を振る。
久世は手に丸めたエプロンを美晴に渡しながら優しげに言う。
「もうすぐ母さん帰ってくるって……兄ちゃん、これからバイトだから、飯食べて、いい
子にしてろよ」
美晴は頷き、時朗は「はーい」と返事をして、部屋に入っていく。
ドアが閉められると、久世だけが表に立っている形になる。
距離は十メートルくらい。久世が睨むようにわたしを見ていた。




