子ども扱い
この日以来、卓也の住む隣の部屋からは生活音が消え、家に帰っていないようだった。
そして沢見さんはどこかで食事をして帰ってくることが増えた。
ほとんどが大学の友達。
自分の分の食事を作らなくていい、と連絡はくれるものの、帰ってくるのは私が寝た後ばかり。
彼と一緒に夕食をとれないことは寂しいことだったが、仕方なく毎日寂しい思いをしながら1人丸まって眠った。
この日も同じように先に食事を済ませてお風呂に入り、布団を敷いているとアパートの下にタクシーが止まった音がした。
なんとなく予感がしてベランダから下を覗くと、 彼が降りてきた。
途端に心が弾む。
沢見さんが、帰ってきた!
しかし次の瞬間、降りた沢見さんの奥に、髪の長い綺麗な女の人が見えて心臓をつかみあげられた気がした
誰…?その人、彼女…?
見ていると沢見さんは彼女が一緒に降りようとしたのを手で軽く遮り、手を振ってタクシーを見送った。
そのしぐさは女性が部屋に上がろうとしたのを彼が断ったようにも見えた。
そりゃそうだよね、部屋には上げられない…私がいるもん…。
女性と話す沢見さんが、私の知らない彼に見えて、いてもたってもいられなかった。
きっと私がいなかったら二人でこのアパートに帰ってきたのかもしれない…。
タクシーが発車すると沢見さんは踵を返し、私は慌ててベランダから離れた場所に移動した。
やだ…、やだ…!!
慌てて電気を消して布団に潜り込むと、やがてドアを開ける音が室内に響いた。
沢見さんは荷物を置くと、ふう…とため息をつき、冷蔵庫から出した水を飲んでいるようだった。
しばらくしてから居間のガラス戸がすっと開く気配がした。
「おかえりなさい…。」
布団の中から小さく声をかけると、別段驚いたふうでもなく沢見さんが言った。
「…まだ起きてたんだ。」
「起きてたよ…沢見さんが女の人お持ち帰りしかけてるところ、見ちゃった。」
心の中のもやもやを消化できない苦しさから、つい口に出した。
「あぁ、同じ大学のサークルの友達なんだ。一緒に呑んでた。」
友達…その言葉に救われつつも、波風が立ってしまった私の心は、収まらなかった。
「ごめんね、私が居たから。部屋にもあげられなくて。」
「なにそれ…別に。沙里がいるとか関係ないし…。」
チクリと言うと、沢見さんは私に一瞬視線を投げると冷たく言った。
無関心なその目が…悲しかった。
私は布団から起き上がると沢見さんに負けじと彼を睨み返した。
「ちょっとからかっただけなのに、そんなに怒るんだね。彼女を狙ってるから?彼女に本気だから私が邪魔で怒ってるの?」
「…じゃぁ、家に帰れば。」
胸が刺されたような痛みに襲われた。
「そんなに俺に当たるなら、まず自分を何とかしたら。痛い目にあったんだから学習しろよ。何であんな目にあったのに、まだここにいるんだよ。」
それは…!!
どこにも帰る場所がないと言っていた当初の理由はすり替わり、もう沢見さんが好きだから帰りたくないに変わっていた。
「それに沙里、忘れてない?俺だって、隣の部屋の卓也って奴と同じ、男だよ。襲われない自信、ある?」
ペットボトルのキャップを閉めながら、挑発するような目で私を睨む。
その目線に私は息をのんだ。
沢見さんのそんな目を私は見たことがなかった。
獲物を狙う獣みたいで、怖い…なのに、むしろ…それでもいいと思い始めている自分がいる。
「とにかく、今週は送っていく。何だったらおかしな事はなかった、って説明してあげてもいいから、早く寝て。」
ふと目をそらして水を冷蔵庫に戻す。
また…また、子ども扱い…。
「やだ…。」
「え?」
「やだ!沢見さんが私を子ども扱いするなら帰らない、ここを出ない…私だって、女だよ!」
「いい加減にしろよ。」
沢見さんが発した声は怒気を含んでいた。
こ…怖い!
体が固まりショックで心が凍り付く私の両肩を今までにない強さで掴んだ。
「何で分かってくれない?沙里の事を一番に考えて、俺は言ってる。」
真剣な目で言う沢見さんの気持ちが痛いほど伝わった。
「けど…私は、沢見さんに保護者になってほしいわけじゃない…!無茶苦茶にされてもいい…、沢見さんの傍に居たい!!」
悲鳴に似た声で言った私の目から、涙がこぼれる。
そんな私を乱暴に引き寄せると、沢見さんは突然、私にキスをしたのだ。
引き寄せた荒々しさと裏腹な柔らかくて優しいキス。
驚きすぎて目を閉じることができなかった。
沢見さんの綺麗なまつ毛が間近に見え、唇の温かい感触で沢見さんが自分に唇を重ねているのだと知った。
その衝撃と喜びで、今世界が終わってしまっても構わないと思った。
華奢に見えた沢見さんがしっかりと私を抱きすくめ、その胸板の逞しさに沢見さんが男性であることを再確認させる。
唇を重ねるだけのキスを一旦やめると、沢見さんは私の頬にキスをしてから、長い大人のキスをした。
沢見さんの呼吸が少し早くなった気がする。
優しいかと思うと、いつもの冷静な沢見さんとは思えないような、むさぼるようなキスをする。
キスなんかしたことない…けど…気持ちよくて、もう、体が溶けそう…。
彼に委ね、すっかり力を失って放心状態の私から沢見さんの唇がゆっくりと離れた。
「沢見さん…?」
彼の目からは先ほどの獲物を見るような熱い眼差しは消え、切なげな色に変わっていた。
思いつめた表情で私をじっと見つめ、小さく「ごめん…」と呟いて、そして彼は出て行った。
無情に玄関のドアが閉まる音がする。
彼が離した腕が、体が…みるみる冷たくなるようだった。
そして、彼はその夜帰ってこなかった。