イケナイ香り
どうしてこんなことになったんだろう…。
すぐ隣の部屋では男が寝息を立てている。
自業自得とはいえ、私は悔しさで眠る事もできずにかび臭いにおいのする布団にくるまった。
不覚にも泣けてきた。
家族にも、クラスメイトも、この男も、一番情けない自分も含めて、すべてから逃げたかった。
なのに今はどうすることもできない、この現状に涙が止まらなかった。
数日前…私はもう家に帰らないつもりで家を出た。
いかにも「家出です」と言いたげな様相にはなりたくなかったので、あえて荷物は少なめにして家を出る。
両親に宛てた手紙には「探さないでほしい」と、要点だけ記したそっけないものになった。
言いたいことは山ほどあるのに、ペンを持てば所詮、こんなもの…うまく言い表せない。
とりあえず私が向かう先は、SNSで知り合った男の人のところだった。
名前は卓也、年齢は31歳だと書いていた。
割と私好みの顔、声もいい。
私の悩みを聞いてくれて、会話も知らない話が多くて面白かったし、バリバリ働いている営業マンと言うところが大人で素敵だと思った。
家にくれば「変な事」抜きで、寝泊まりさせてくれるといった。
とにかく、ここじゃないならどこでもいいと思っていた私にとっては渡りに船で、すぐさま卓也と待ち合わせをして会うことにした。
ネットでつながった人間と会う…こんなことは初めてなので少し緊張する。
待ち合わせをしたのは有名な某大手本屋。
立ち読みをしながら店内を落ち着きなく歩き回っていると、夕方7時頃、時間を少し過ぎて卓也はやってきた。
SNSで話した通りのカバン、メガネ…。
けど…写真より太った?老けてる…?
グレーのスーツを着て地味なネクタイを締め、一重の目で私を上目遣いに見る、口の端を独特な感じで曲げて笑顔を浮かべる人だった。
もしかして、写真は少し若い時の物を送ってきていたのかもしれない…。
考えていたイメージと違う…。
本屋の隣にあるカフェに入ろうと肩に手を回されると少しいやな気持になったが、そんなこと口に出すわけにはいかない。
今はヤドリギを探すしかない…と、その気持ちを振り払った。
中学生のころ、仲の良かった友達とそんな話をした。
男の子にも興味が出てきた頃だったけど、奥手だった私たちはリア充のクラスメイトを横目に、羨ましく眺めるだけだった。
そして、今私は憧れだったはずの男の人といる。
けど…。
「でね、親がすごくうるさくて、もう家にいるのが本当にしんどくて…。」
「…そろそろ、行こうか」
「え?どこに?」
カフェでドリンクを飲みながら他愛もない話をしていると話を切って卓也が立ち上がった。
「俺の家。弁当でも買って帰ろうか。」
「あ…うん…」
促されるまま店を出て近くに止めた車に乗り込む。
どうやら卓也の車らしい。
柑橘系のきつい芳香剤の匂いがして、トイレの中にいるみたいだな、と思った。
しばらく走ったところにあった卓也のアパートは古びた二階建てだった。
何だか壁も薄そうで、部屋は全体的に黒ずんでおり衛生的には見えなかった。
帰り道に買った弁当を食べ、お風呂に先に入るように促されたが、風呂場は、漂白剤の混じった変な匂いがしていた。
私が風呂から出ると卓也も続けてお風呂に入った。
「どこで寝る?キッチンは寒いからこっちにおいで。」
トイレとお風呂を除くと、キッチンと居間の二部屋しかない間取り。
お風呂から出たばかりの卓也が腰に申し訳程度の小さなタオルを巻きながら出てきたのを見ると、とても一緒の部屋で寝る気にはならなかった。
いや…やっぱり無理だよね…てか、見えそうだし…見せようとしてるのかな…。
卓也の、ニヤリとした独特の笑い顔を見ると、家を飛び出したことを後悔しそうになる。
自分の甘さに歯噛みしながら恐る恐る言ってみた。
「キッチンで寝るね。ちょっと恥ずかしいし。」
その答えに意外と満足したのか、あっさりと卓也は引き下がった。
じゃぁ、と卓也は敷布団と掛布団を押し入れから出すとキッチンに敷いた。
私が家出少女で、行く当てもないことを重々承知の卓也は、焦りを見せることもなく居間に戻ると、すりガラスの仕切り戸を締めながら「おやすみ」と、また口の端をまげて笑った。
「仕事がきつくてさぁ、やっぱ社会人は疲れるわ。」
毎晩のようにのり弁当を食べ、卓也は箸を振り回しながら必ず会社の愚痴を言った。
大手携帯電話会社の営業をしていると言っていたから、やはり大変なんだろうか…。
とりあえず相槌を打ってみるが、話すだけ話すと私の話を遮って風呂に入ってしまう。
朝7時頃に出てゆき、夜は9時ごろ、手にのり弁当を持って帰ってくる。
当初機嫌の良かった卓也だったが、二日たち、三日たつと明らかに態度が変わってきていた。
初めは帰宅すると高校生の私が家にいるというだけで、なんだか小動物を買うように面白がっているようだったが、次第に私が思い通りにならないことに苛立ち始めているのがはっきりわかった。
私の愚痴を聞く気はないらしく、携帯ゲームをしながら生返事。
それと同時に、卓也は私に触ってくることが増えてきていた。
夜帰宅してからお酒を飲むと、話をしながら必ず隣に座り肩を抱き、太ももに手を置いた。
好きでもない男に触られるのは、本当にキツイ…!
「きょ…今日はダメだよ。」
私は腕を軽く押すと、すぐにキッチンに敷かれた布団に逃げ込む。
後ろに卓也の舌打ちを聞きながら…。
きっと何もしないから何て絶対嘘…このままではやばい…。
危機感を抱き始めていたある夜、少し遅く帰宅した卓也はキッチンの布団に入っていた私にしつこくまとわりついてきた。
「大人」と言うだけで少し憧れすら抱いた自分はすでにおらず、卓也が気持ちの悪いオジサンにしか見えなくなっていた私は必死の思いで卓也をやり過ごそうとした。
「どうしたの?今日はちょっと緊張してる?てか、俺偉いよな。我慢強くて。」
卓也が酒臭い息を吐きながら私の肩を抱き、耳元で囁くように言うので寒気がして鳥肌が立った。
「いや、あの私こうゆうことは無理だし…「ナシ」って事で来たわけだから…。」
嫌だ…嫌すぎる…!
「ほんと、可愛くねぇなぁ。…今日はさ、いいものがあるんだ。特別に安く譲ってもらったから、二人で試そうと思って。」
言うと卓也はカバンからやけにヨレヨレのたばこのようなものを取り出した。
「これ、吸ってみろよ。タバコみたいなもんだから。ほら。」
「私タバコ吸ったことないよ。」
慌てて抵抗する。
「タバコよりいいもんだからさ。」
やけに必死に勧めてくる…やだな…。
卓也はそのタバコらしいものに火をつけて、ゆっくり吸った。
燻った煙から、タバコとは違う変な匂いがした。
これ…絶対イケナイ奴だ…。
私は怖くなってその不思議な煙を大切そうに吸い込む卓也から目が離せなかった。
少しすると卓也は何故か興奮してきた様子で続けた。
「タバコも吸ったことないんだなぁ。まだ高校生だもんな。けどな、大丈夫一口だけ吸ってみろって。」
卓也はしつこく言いながら私の背中に手を回し、反対の手に持ったソレを私の口元に持ってきた。
どうしよう、どうしよう…!
すると、体が硬直したまま動かないのをいいことに、卓也は私の首筋に唇を這わせてきたのだ。
瞬間、びくりと体が跳ね上がり、ようやく呪縛が解けたかのように卓也の体を押し返した。
「ご…ごめんなさい!びっくりして…ちょっと私まだ…まだ…。」
ようやくそれだけ口にすると、卓也はムッとした顔をしながらもすぐにニヤリと笑って、
「そうだな、うん。俺は我慢強い男だからな。コレまだあるから、明日も…な。」
と、含みを持たせて言うと、自分のベッドに戻っていった。
膝が震えた。
私は吐き気を催しながら、キッチンのドアをしっかりと閉めて布団にもぐりこんだが、怖さと悔しさで体の震えが止まらなかった。
家に帰ることはできないのは分かっていたが、だからといってもうここにもいたくない …。
あのタバコみたいなやつだって、変な薬のような気がする。
甘い考えだとは思ったがやはりここを出ようと思った。
けれど、ここを出てどこに行く?
わずらわしく思った両親の顔が浮かんでは消えた。
どうせ私の事なんて全く理解しようとしていない、仕事が一番の父親、それに言いなりになる体面第一の母親…。
娘を勉強させる人形か何かだと思って…自分の果たせなかった夢を子供に押し付けて…。
そう考えていたら悔しくて絶対に帰りたくなかった。
じゃぁ、私はどうすればいい?
眠れないまま布団をかぶり目を強く閉じた…そして今に至るというわけである。
ウトウトしたまま朝を迎えていた。
卓也はいつものように私に声をかけることなく出て行った。
私は部屋の中に点在した歯ブラシや洗濯を回収し、置き手紙で謝ってそっとドアを開けた。
鍵を閉めて合鍵をポストに落とすと、ジャリンと音がして静まり返った。
どこに行くかなど決めていなかったが、昼間はショッピングセンターででも時間をつぶせばいいし…夜は…寒さがしのげるカラオケボックス…とか?とにかく、卓也が帰ってくる前に遠くまで行ってしまおう…。
次の瞬間、予期せぬことが起こった。
考えながら足早に階段に向かっていたら突然隣の部屋のドアが開き、人が飛び出してきた。
考え事でいっぱいだった私は、卓也の隣室の住人らしい男性にぶつかり、ついでにドアで顔を強打してしまったのだ。
「きゃっ…!!」
小さく叫んで床に倒れこんだ。
しこたま顔を打ち付けた驚きと痛みで、 私は立ち上がれずに茫然と座り込んだ。
「いっ…たぁ…。」
と、顎を温かいものが流れ、白色のダウンジャケットに点々と赤いシミを作ったのだ。
「鼻血!!」
彼と同時に叫ぶと、ドアを開けたと思われる張本人は部屋に戻り、すぐさまティッシュを持ってきた。
「ごめん、大丈夫?これで抑えて。」
「そ…それより、ダウンジャケット…。とれなくなると困る…!」
何しろこのダウンジャケットで今から過ごしていかなければならいのに、こんな目立つ場所に血痕なんて残したくない。
「とりあえず入って、服脱いで、洗うから!」
言われるがまま、私は部屋に入り服を脱ぐと彼はすぐさまそれをもって洗面に走った。
「ちょっと座ってて、気分が悪くなったらすぐに教えて。」
私に背中を向けジャケットを洗いながら彼はそれだけ言った。
卓也と同じ間取りの部屋だったが、玄関入ってすぐのキッチンの床に直接座ることをためらわずに済んだ。
何故なら、殺風景ではあるものの、明るくて手入れが行き届き衛生的な部屋だったからだ。
しゃがみ込み鼻を抑えたまま辺りを見回した。
卓也の部屋にあったようなダイニングテーブルや古びたカーテンなどはなく、必要最小限の炊飯器や冷蔵庫、壁に掛けられた数着の洗濯物らしき衣服以外は衣装ダンスも見当たらない。
奥の居間に全て押し込んであるのだろうか?あまり生活感がない部屋に少し驚いた。
しばらくすると彼が私のジャケットをタオルで拭きながらやってきた。
血痕は綺麗に落ちていた。
「これで大丈夫だと思う。ごめんね。怪我は?」
言って真正面から私を見た。
その時の衝撃を、私は忘れることが出来ない。
整った顔立ち、長めのショートのせいか一瞬女の子かと間違うほど綺麗な切れ長の二重の瞳に、ほれぼれするような唇から漏れる風貌にピッタリの優しい声。
そう、恐ろしくいい男が目の前に立っていたのだ。
ヤ…ヤドリギ様、見つけましたー…!
彼は吸い込まれそうになるような瞳で私をじっと見つめた。
「驚いたよね、ごめん。傷を見せてもらっていい?」
ぼんやりしたまま押さえていたティッシュを外すと、彼は湿らせたタオルで顔をそっと拭いてくれた。
「ちょっと腫れてる…。鼻血以外で痛いところは?」
「ないです…。」
彼は私を小さなパイプ椅子に座らせて代わりのティッシュを渡してくれた。
細い繊細な指にドキリとする。
「あの…大丈夫です、もう血も止まりました。ところで、急いでいたんじゃないですか?」
「あぁ、大学が休みでのんびりはしていたんだけど、コンビニに行こうかと思って…。午前中に宅配が届く予定だったから慌ててドアを開けてしまって…。」
そういった途端チャイムが鳴った。
「来たみたい。ちょっと待ってて。」
彼はドアに向かい荷物を受け取ると判を押す。
大学生なんだ… 背が高いな …。
少し癖のある茶色の髪の毛は明るすぎず、彼の中性的な顔立ちにしっくりときた。
ドアを閉めて彼が段ボールを床に置いて向き直ったので慌てて目をそらす。
「隣の人の知り合いなの?」
そうだった、卓也の部屋は二階の突き当りだから向こうから歩いてきたという事は卓也の部屋から出てきた以外考えられない。
それがばれるのが嫌だった。
「あ、いえ違います…。ポスティングの仕事…みたいな…感じで…。」
いや、どう考えても苦しい言い訳、私チラシ何て持ってないし!
彼は不思議そうに私のカバンをチラリと見て「ふうん…。」と言った。
ダメだ、絶対不振がってる…。
「頭がくらくらしてない?おかしかったら病院に行くけど。」
あ、やばい、追い出しにかかられてる、私…。
不穏な空気を感じて、私は椅子から立ち上がった。
彼は私が帰ろうとしているのかと思ったらしかったが、私は思い切り土下座をした。
「お願いです!!ここに置いてください!!」