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あんみつおじさん

2011年3月頃の作品。


 


 飯田隆が「伯父」になったのは、ある冬の日のこと。


 その日は土曜日だというのに、朝早くからドタドタと階下がやかましかった。

 いつもより早く起き出してリビングをのぞくと、母親が慌しく狭い室内を走り回っている。

「なにしてんの?」

 無駄の多い動きをする母に疑問をなげかけると、かわりに父親が答えた。

「産まれたんだよ」

「……なるほど」


 予定日までは確かあと二週間ほどあるはずが、早まったようだ。

 一月も終わりの寒い明け方に、隆の妹である雪原緑は人生初の出産という一大イベントを無事に済ませていた。


「もう、あの子ったら、すぐに呼んでくれたらよかったのに……」

 母である飯田安子はブツブツ呟きながら、カバンに色々と詰め込んでいる。

 世話焼きの安子は、嫁いでも近くに住んでいる娘に普段から色々と持っていくのが趣味だった。しかし、今カバンに入れた味海苔の出番はきっとないだろう。

「良かったわ、お兄ちゃんが起きてくれて。さ、車を出して」


 飯田家には、隆、緑、健の三人の子供がいる。それぞれ三十一歳、二十八歳、二十二歳で、結婚しているのは真ん中の緑だけ。つまり、初孫の誕生である。



 妹の家までは徒歩二十分ほどの距離だった。

 目指す産婦人科もそのすぐそばに建っていて、車なら五分で着いてしまう。



 朝九時半の院内は女性患者であふれかえっている。

 入院の施設は二階にあって、上がればすぐに新生児室が一家を待ち受けていた。


 産まれたばかりの小さな命が並ぶのが見える窓に、母親の安子が飛びついている。

 小さな病院なのに、赤ん坊は六人も並んでいた。泣いている子もいれば、すやすやと眠っている子もいる。

「緑の赤ちゃんはどこかしら?」

 並んだベッドにつけられた名札には、母親の名がかかれている。

 一つ一つのぞきこんでいる間に、奥から看護師らしき女性が赤ちゃんの寝かせられたベッドを押しながら入って来た。

「ああ、この子ね!」

 新しく入って来たベッドの名札には、「雪原緑ベビー」と書かれている。

 そこには小さな小さな真っ赤な顔をした赤ん坊が、ちょこんと寝かせられていた。

「まあまあまあまあ!」

 安子はそう大声で叫んで涙を流し、父の満男はただ黙ってケースの中を見ている。


 隆は内心、なんだ、真っ赤でまるで、サルみたいだな、なんて思っている。

 勿論、大人なので声には出さない。


 そこに、緑の夫である誠司が姿を現し、四人で新生児室前で話していると、横にある分娩室のドアが開いて、緑が姿を現した。腕には点滴をつけられ、げっそりとした顔でふらふらと歩いて出てくる。


 病室へと移動してベッドに横になった妹の腹は、すっかりぺしゃんこになっていた。

「よく頑張ったわね」

 母の涙はまだ尽きない。しばらく、ねぎらいの言葉や、親戚への連絡についてどうするかが話し合われていった。

「そうだわ。ねえ、名前は決まっているの?」

 安子はようやく泣くのを終えて、嬉しそうな顔をして娘夫婦に質問をした。

 それに二人は少し照れたような顔で目を合わせると、カバンの中から紙を取り出してみせた。


 命名 結愛乃


「ゆあの、だよ。女の子だってわかってから考えて、決めたの」


 緑は誇らしげな笑顔で言ったが、両親と兄の反応は微妙なものだった。

 

「画数がいいとか?」

 この名前の理由が知りたくて、隆が考え抜いた末に出した質問に緑は冷たく答えた。

「画数なんてこだわらないよ。姓名判断とかくだらないし。二人の愛が結ばれて生まれた子なんだから、この名前にしたんだよ」


 ゆあの、という聞きなれない響きがなんとなく落ち着かない。

 二人目以降の子供はどうするつもりだとか。色々と思うところはあるが、口には出せない。

 流行のキラキラネームというほどではないし。

「今時っぽい名前ねえ」

 安子の言葉に、緑の表情が険しくなる。

 ここはケチをつけていい場面ではない。無口な父に期待が出来ないので、隆は慌てて笑顔を作った。

「いやいや、いい名前じゃないか。女の子らしくて。なあ!」


 今日はもうお疲れだろうからと誠司を残して病室を出て、一家はまた新生児室の前に留まって、これから結愛乃と名づけられるであろう女の子を見つめた。


 真っ赤な顔で静かに眠っている可愛い子猿……。


 首をブンブンと横に振って、隆は両親と共に病院を後にした。




「飯田さん、姪御さんが生まれたんですって?」

 月曜日、隆が職場の同僚との会話のきっかけにした姪の誕生話は、あっという間に広まった。普段あまり話さないような隣の部署の人間もわざわざやってきて祝福の言葉をかけてくれる。

 それに丁寧に礼をして、ついでに「結愛乃なんて名前をつけるらしい」と話す。

「いやいや、まともですよ! うちの嫁なんて、ティアラとかエンジェルとかって言ってましたから」

 確か加藤の子供たちの名前は、優雅と典雅だったはずだ。だいぶマシなんだなと隆がぼんやり考えていると、また同僚が顔を出して祝福される。

「次はお前の番だとか、親に言われないのか?」

 同期の橋本はニヤリと笑う。幸いなことに、安子と満男の夫婦は息子に結婚はいつだとか、子供はいつだとことあるごとに言ってくるようなデリカシーのない親ではなかった。


 隆は結婚というものに興味がない男だった。いや、恋愛というものに興味がない。

 もっと若い頃には恋をしたこともある。まだ二十歳の、社会人になったばかりの頃、好きな女性が出来た。十も年上のバツイチ子持ちの女性だった。よく考えればなかなか無理のある相手だったわけだが、若かったからこそ、そんな苦難と共にある相手を守ってやりたいと思ってしまったのだ。

 結局、突然小学生の子供を持つ勇気も出なければ、彼女の求めている物が夫や父親ではなく安定した収入であると気付かされてこの恋は終わってしまった。最後にむき出しにされた女の本音が隆の心を激しく傷つけ、それ以来、なんとなく女性に対して恐怖心が残ってしまっている。 

 隆の職場は男性が圧倒的に多い。女性との出会いも会話もなく、恋愛などというものからはもうすっかり遠ざかっていて、それに安堵すら覚えている状態だ。

 妹に子供が生まれたのは喜ばしいことだが、自分が同じ体験をする可能性はないだろう。

 隆はそう思いながら、同僚たちに感謝の言葉を伝えた。




「あ、兄さん、おかえり」

 季節は過ぎて、もう夏がそこまで来ている。

 趣味である野球の試合観戦から戻ると、妹が食卓に座っていた。

「来てたのか」

「うん。また野球?なんだっけ、デーゲームだっけ。昼にやる試合だったの?」

「ああ」

 地元に本拠地を構えるチームに夢中な隆と違い、緑は野球に興味がない。それどころか、スポーツ全般にまるで興味がなかった。しかし兄が好きなのはちゃんと知っていて、きちんと話題をふってくれる。

「勝った?」

「勿論! わかるだろ」


 のんきにアイスクリームをなめている妹から視線を部屋の奥にうつすと、母の安子が幸せそうな顔で赤ん坊を抱いていた。四ヶ月ぶりにじかに目にした姪っ子は、初めて見たときの小猿感が一掃され、ふんわりぷくぷくになっている。

「ゆうちゃんはホントに可愛いねえ~」

 安子は満面の笑顔で、小さな額を撫でている。ちょっとはげかけて落ち武者寸前のヘアスタイルに目を瞑りさえすれば、確かに天使と言っても良さそうなくらい愛らしさがあった。

「大きくなったなあ」

 兄の言葉に、緑は少し微笑んで答えた。

「もう五ヶ月だもん。久しぶりでしょ、見るのは」

「ああ。一ヶ月のお祝い以来だからな」

 

 当初は名前が凝り過ぎだと文句を言っていた安子も、時折やってくる赤ん坊の魅力にすっかり参っていた。「ゆうちゃん」と勝手にあだ名をつけて、遊びに来た日は写真を撮りまくって夫や息子に見せている。

「お兄ちゃんもちょっと、抱っこしてみる?」

 安子の提案に、隆は慌てた。

「いいよ、寝てるんだろ」

 本当は、怖い。あんなに小さくて頼りない体を、自分のようななれない者が抱いて落としたりしたらと考えると、恐ろしくて仕方がない。


 妹親子が帰宅し、家族で食卓を囲んでいると安子が突然、宣言をした。

「私、ゆうちゃんに、やっちゃんって呼んでもらうことにするわ」

 なんだそれは、と他の三人があきれた顔をする。

「なんで?」

 弟の健が代表して質問すると、安子は笑顔を浮かべた。

「だっておばあちゃんなんて呼ばれたくないもの。今日、私のことはお母さんって呼んで、緑はママにしたらって言ったら怒られちゃって」

「おばあちゃんなのにな」

 夫の言葉に、安子はムカつきを隠さない。

「お父さんのことは、みっちゃんって呼んでもらおうかしら」

 これに、父の満男はなにも答えなかった。


 テレビではちょうど、今日は飯田夫妻お気に入りの「ゴッドファーザー2」が放送されている。

 隆も一緒になって観ていると、安子はぼそりと呟いた。

「ソニーの息子はアンソニーなのね」

 ちらりと夫に目を向け、そしてお次に隆を見つめる。

「じゃあ満男の息子は、あんみつってことかしら」

 画面に映し出されたシリアスなシーンにそぐわない笑い声がリビングを包んだ。


 この話が緑に伝えられて、いつの間にか隆のあだなは「あんみつ」になっていた。

 




 夏からまたしばらく間があいて、隆が妹と姪に久しぶりに会ったのはクリスマスになってからだった。

「お、あんみつさん、元気だった?」

 あのあだなの話は冗談だと思っていたのに、緑はごく自然に兄をそう呼んでいる。

「ああ。まあな」

「ほら、ゆあ、あんみつおじさんだよ」


 もう来月で一歳になる姪っ子は、あの時子猿と思ったのも、夏に落ち武者と思ったのも申し訳ないくらい立派に成長していた。くりくりとした大きな瞳で、あまり見慣れない伯父の顔を見つめ、みるみる涙を溜めてすぐに泣き始めてしまう。


「ごめんごめん、人見知りするんだよね。特に男の人は苦手なんだ」

 妹がフォローしなくても、この程度で傷ついたりしない。赤ん坊がキャッキャと喜ぶような対応もしていないし、うっとりされるようなビジュアルでもないのだから。

 隆が離れると結愛乃はすぐに泣き止んで、おもちゃを用意されてご機嫌になった。嬉しそうにキャッキャと声をあげながら、木でできた馬の置物で遊んでいる。

 そして、隆が想像もしなかったことが起こった。

「立ってるぞ!」

 テレビ台につかまって、〇歳児が立ち上がっていた。

「そりゃ立つよ。もうすぐ一歳になるんだから」

 妹は平然と言い放っているが、隆には衝撃的な光景だった。

 去年フニャフニャで真っ赤で、まあちょっと感動したかな、くらいの赤ん坊が、この短期間で想像を絶する急成長を遂げているのだから。

「まーま!」

「しゃべったぞ!」

「ちょっとくらいはね」

 緑はやはり平気な顔だが、隆にはまた衝撃が走っていた。


 今、まーまとしゃべって浮かべた笑顔。

 あまりにも愛らしいではないか。

 頬を赤く染めて、可愛らしい目を輝かせて、ご機嫌で。


 無邪気とはこのことか、と隆は思い、急いで商店街へ走った。


 その日の夕方、赤ちゃん用の椅子に座った結愛乃に、隆は買って帰ったものを差し出した。

「メリークリスマス」

「ああーーっ!」

 早速人見知りして泣き出す姪っ子に、今度はなぜか心が痛む。苦笑いしながら妹が娘を抱き上げ、不自由な姿勢のまま器用に包装紙を開けた。

「ゆあちゃん、ほら、かわいいねえ」

 中から現れたひつじのぬいぐるみを、妹は笑顔で娘に見せる。結愛乃はそれで泣き止み、ぬいぐるみに手を伸ばしてにっこりと笑った。







 それからというもの隆は、妹親子が訪れた時は積極的に一緒に過ごすようになっていた。最初はどうしても泣かれたが、少しずつ慣れていき、半年後はとうとう笑顔で迎えてもらえるようになった。

「結愛乃ちゃん、バナナだよ~」

 妹の呆れた表情にも気がつかず、隆はバナナを小さく切って潰して、姪っ子の口に運ぶ。

「おいーち!」

「うわー、お話上手ですね~」

 もうすっかり、伯父馬鹿の出来上がりだ。

「いつか一緒に野球を観に行こうね~」 

「あーい」

 いいお返事に、隆はすっかり満足している。

 結愛乃は彼にとって、地上に舞い降りた天使だった。


 その天使は、彼の傷ついた心を救う。



 職場の配置変更があり、隆は苦境に立たされていた。新しい職場にいた、若い女性職員がことの発端である。

 波野佳世は、隆が最も苦手なタイプの女性だった。若くて、軽くて、思慮が浅い。なんでも場面で決めようなんて平気で言っちゃう今時の女子だ。

 佳世がわざわざ、口を妙な形にして、上目遣いで話しかけてくることに隆は少し腹が立っていた。

 

 それでつい、言ってしまったのだ。

「なに、その顔」

 嫌味のつもりで笑顔を浮かべて言ったのに、佳世はまったく気がついていないらしい。

「えー、アヒル口って可愛くないですかあ?」

 配置が変わってから彼女の声や言動で溜まっていたイライラが、軽く爆発を起こしてしまう。

「可愛くねえし。そんな口したいんだったら、浦安で就職しなおせば?」


 こういう些細なイライラを我慢できないなんて、大人の男とは言えない。隆もそれは理解していた。だから次の日、謝ろうと心に決めて出社した。しかし、時は既に遅かった。

 新しい職場の隠れたドンである、五十五歳、ベテラン事務員の牛窪三枝の耳にもう、隆の暴言に関する報告が入っていたのだ。しかも波野佳世は、社長の姪だったのである。

 飯田隆はどうしようもないヤツだと噂は広がり、毎日のように女子社員から当たられた。仕事上の必要な伝達がこなくなり、仕事にももちろん支障が出る。


 一ヶ月もすれば、ダメ社員の完成だ。


 とうとう隆は、朝起きることができなくなった。会社へ行かなくてはと思うと、もう体が動かない。胃がキリキリと痛み、頭はガンガンと痛み、夜は眠れない。しばらく休ませてくださいと力なく会社になんとか連絡をして、彼は月曜日から日曜日までずっと休んだ。


 そんな日が二週間続いたとある月曜日、緑が娘を連れて実家を訪れた。

「あんみつさん、大福買ってきたよ」

「ああ……、ありがとう」

 おそらく母から自分に訪れた不幸を聞かされたのであろうと思い、隆は思わず涙ぐみそうになってしまう。

 そしてしばらくして、緑はそっと娘に耳打ちをした。結愛乃ももう二歳。ここのところ、反抗期を迎えていうことを聞かない日々を迎えていたのに、この日は幼児なりに空気を読んだのか、母の言葉に素直に従った。


 緑の膝から降りた結愛乃は、とことこと歩いて隆の前にやってくる。


 下に向けていた視線を、ほんの少しあげる。

 すると隆の目の前で、天使は微笑んでこう言った。


「あんみつおじさん、すき!」


 隆の目から、こらえていた涙がぽろりと落ちた。うなだれた頭を、小さな手が撫でてくれた。

 


 隆はその夜、辞表を書いた。そして気持ちを改めてなんとか新しい就職先を探し、三ヵ月後には元気な顔で朝、家を出られるようになった。



 この時の小さな天使から与えられた勇気のことを、隆はよく人に話して聞かせた。

「俺はね、もう、結愛乃のためならなんだってやるよ。本当に可愛くていい子なんだ」

 伯父馬鹿には、拍車がかかる。次の年には緑がひくほどの額のお年玉を渡して、さすがに苦情を言われてしまう。


 しかしそれも、愛ゆえだ。今なら光源氏の気持ちもよくわかる、などと言い出して、周囲は引いているがそんなのも関係ない。


 遺言状を用意しよう。全財産は、結愛乃に残す。これからの人生は結愛乃に捧げる!

 隆は、幸せだった。幼稚園に入る時には、俺がカバンを買ってやろう。小学校に入る時には、ランドセルを……。





 そんな幸せは、五年後の「おじちゃんくさいから嫌い!」の一言で破られることになるのだが、それはまた……別な話。

 


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