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僕の知らない君の世界

2011年9月頃書いたもの。

企画競作参加用。お題は「記憶喪失」でした。コメディです。




 二十二時、残業を終えて自宅へ帰る。

 インターホンを押しても応答はなく、陽一はポケットから鍵を取り出して家の中へ入った。

 いつもならばあかりがついていて、少し眠そうな様子の妻が出迎えてくれる。しかし今日は、家中真っ暗な上、妻の姿はなく、夕食を作った気配すらない。


 家中を探しても妻の姿はどこにもなかった。携帯電話にかけてみても、着信音がリビングのソファの上からする始末だ。


(コンビニにアイスでも買いにいったのかな?)

 そういうパターンは、時折あった。帰宅の途中に妻とバッタリ会ったりもした。

「急に甘いものが食べたくなっちゃって」

 そう言って彼の妻、瑞樹ははにかんだような笑顔を見せたものだ。

(それにしてはおかしい)

 わざわざ家中のあかりを消して出かけるだろうか? すぐに帰れる距離にコンビニはあるし、大体夫がそろそろ帰ってくる時刻だとわかっている。こんな風にすべての電気を消していくのは不自然なように思える。


 急に心配が募ってきて、陽一は妻の実家に電話をかけてみた。しかし、何も知らない。悪いと思いつつ妻の携帯電話を手に取り、仲の良いはずの数人の友人にもかけてみたが皆何も心当たりがないと言う。


 額にじっとりとした嫌な汗が流れる。

 これは、なにかがあったのだ。

 陽一はおそるおそる電話を手に取り、かけなれない三ケタの番号を震える指で押した。




「どうでしょう、奥様で間違いないですか?」

「はい……。間違い、ないです」


 大きな病院の中の一室。

 散々あちこち当たって、ようやく見つけた妻。


「スーパーひばり、古山店はご存知でしょうか?」

「はい、知っています」

 近所のそのスーパーは激安のタイムセールが有名で、妻に付き合わされて一緒に何回も行ったことがある場所だった。

「あの前の道路で事故に合われまして」


 瑞樹はお財布片手に買い物に出かけたところ、スーパーから出た車にはねられたのだという。身分を証明できるものが入っていなかったため、どこの誰だかわからないまま病院へ搬送されていた。

 事故は右折しようとした六十代の運転手の前方不注意が原因で、吹っ飛ばされた妻はケガこそ大したことがなかったものの頭を強く打ち、現在……逆向性健忘の状態だという。記憶が抜け落ち、どうやら夫や結婚生活のことなどはわからなくなっているという説明を受け、陽一はひどく絶望的な気分になって医者にすがった。

「治るんですか!?」

「落ち着いてください。次第に戻ってくる可能性は充分にあります」

 そんなことを言われても、即座に落ち着ける人間の方が稀だろう。

 ベッドの上でぼんやりと自分を見つめてくる妻の姿に、陽一はどうしようもなく不安な気持ちになり、しかしすぐ横の椅子に座って柔らかな手を取った。

「瑞樹」

 ビクッ、と体をすくませ、瑞樹は不安そうな様子で夫の手を振り払った。


 会社を休んでこの妻の異常事態に寄り添う。

 その間病室で、妻の両親や姉とともになんとか記憶が回復しないか色々と語りかけたり、写真を見せたりしてみたがいい反応は得られなかった。

 

 そして一週間もするとどうしようもない疲労が溜まり、同時に家の中には深刻な渋滞がいくつも生まれていた。

 洗濯物が山のように積まれ、空になったコンビニ弁当ばかりが詰まったゴミ袋は臭う。記憶を呼び戻すために引っ張り出した写真が散らばり、ポストには広告やダイレクトメールが溢れてはみ出している。


 妻の母は自分がしばらく付き添うからと、陽一に会社に行くように勧めてきた。帰りや休日に病院に寄って、交代で様子を見守ろうというありがたい提案だ。

 これまでは専業主婦だった妻にまかせっきりだったすべてを自分がしなければならない。瑞樹の容態は気になるが、ケガのこともありしばらく退院は出来ない。そもそも働かなければ経済的にも行き詰る。陽一は義理の母の提案を受け入れ、日常生活を少しずつ取り戻していくことにした。



「大変だったなあ、奥さん」

 久しぶりに出社すると、事情を聴いていた上司や同僚が大勢寄って来ては声をかけてきた。

 記憶喪失なんて架空の出来事だと思っていたよと、皆、仲間の妻に起きた不幸に対して同情を寄せるとともに、どこか興味津々といった様子で陽一の反応を伺っている。その対応と容赦のない現実に疲れ果てて缶コーヒーを片手にうなだれていると、仲のいい同僚がやってきて肩をポンと叩いてきた。

「大丈夫か?」

「まあ……、大丈夫だよ、うん」

「でもあれだな、子供がいなかったのが不幸中の幸いだよ。小さい子供なんかいたら、大変だったろう」

 それに、少しだけ微笑む。確かに、夫婦二人だけの生活だったからなんとかなっているんだろう。これ以上面倒を見る相手がいたら、完全にお手上げだったはずだ。

「家計は奥さんがみてたのか?」

「ああ、うん。そうだけど」

「公共料金とか、引き落としとかの口座はちゃんと把握してる? 元気なうちに確認しておくといいと思うよ」

 そこまでの心配をしてくれる人間がいるのか、と陽一は小さな感動を覚えていた。確かにずっと妻にまかせっきりだった家庭の収支について、全容を把握しておかねばならない。なにせ、妻に聞いても「わからない」のだから。


 というわけでこの日陽一は家に帰ると、まずは電気やガスの料金の支払いがどうなっているのかのヒントを探すことにした。

 家中をあちこち探すと、明細が束になったものが見つかり、まずは一安心。どうやらどれも給料が振り込まれる口座からの引き落としになっているらしい。それは手をつけなくて良さそうだったが、一緒にクレジットカードの利用明細も出てきた。

 日付と、謎の会社名がズラズラと並んでいる。どうやらそれは通信販売の支払いに使われたらしいが、半分以上が陽一には見覚えのない名前だった。検索してみると、それぞれ化粧品や下着、書籍などを販売している会社だと判明する。

(通信販売が好きなのかな)

 どれもこれも、ひどく高額だったりはしない数字の中に、夫は自分の知らない妻の姿を垣間見たような気分になっていく。


 陽一と瑞樹は結婚して五年目、二人とも同い年の三十三歳の夫婦だった。

 職場の同僚が開いた合コンで出会い、二年の付き合いの後に結婚。瑞樹は結婚後もしばらく会社勤めをしていたが、人間関係の悪化で体調を崩して退職し、専業主婦になっていた。

 それ以来、家事や家計の管理は妻の仕事だった。陽一は妻を信頼していたのでそれで問題はなかったのだが、しかし、出るわ出るわ。次から次へと知らない単語が踊る明細に、最後はすっかりくたびれて追及は終了することになった。大体、ほとんどが何千円かで収まる程度の可愛い買い物だ。家の事を一生懸命やってくれている妻にこの程度の自由を許したって問題はないと陽一は結論を出し、明細を再び束にしてしまう。

 支払い口座の設定などに問題がないことは確認できて、ほっと安心して陽一は洗濯機の前へ移動した。洗濯機の動かし方はわかる。しかし何種類も並んだ洗剤のうち、どれをどの程度使ったらいいのかよくわからない。

 


「どう、なにか思い出した?」

 病室の妻は小さく首を横に振る。

 声は出るのだが、どうやら誰だかわからない男と話すのは不安らしい。そんな妻の様子に、陽一は悲しみを新たにしている。

「本当にさ……、毎日帰りが遅くてごめん。今更だけど、瑞樹のありがたみが身にしみてわかったよ。早く帰ってきて欲しい」

 手を取り、そこに額を寄せて呟くと、瑞樹は困った顔で視線を逸らしてしまった。

(すごく好きなものとか、ないのかな)

 記憶が一気に取り戻せるような刺激がないか、夫はしばらく考えた。が、浮かんでこない。

(それすら忘れていたら意味がないのか。いや、でも……やってみる価値はある)

 しかし、知らないものが思いつくはずもなかった。妻の嗜好は知っているものの、没頭しているものの心当たりがない。



 帰宅する時にはインターホンを押す。

 妻がドアを開けて明るく出迎える。

「おかえり、陽ちゃん。お疲れ様!」

 それが毎日の帰宅の儀式だった。


 帰り道の途中で買ったホカ弁を平らげながら、陽一は静寂の中で必死に考えた。

 切り札が必要だと。

 医者は別に無理しなくても徐々に記憶は戻りますよ、と言う。しかしそれがいつなのかが問題だ。なるべく近い未来に戻らなくては意味がない。


 広いベッドに一人で横たわり、目を閉じる。

 このまま妻の記憶が戻らなかったら、どうなるだろう。

 もう一度最初から自分を知っていってもらって、一緒に暮らしてもいいと思ってもらえるだろうか。

 家事をまかせて、毎日帰りを待ってもらえる?

 子供が産まれて、幸せな家庭を築いていくことができる?


 やってみなければわからない、不安に思っていても仕方ない事ばかりが陽一の頭の中に浮かんでは積み重なっていく。これまで当然だったものが、そうではなくなるというこの非常事態。


 記憶喪失――


 たとえば中学生くらいの子供なら、なんとなくカッコいいと思えることかもしれないが、現実となれば大問題だ。


 散々不安な気持ちに押しつぶされそうになったら、次は、妻が仕事を辞めてからどんな風に家で過ごしていたのだろうかという意識が芽吹いてきた。


 仕事を辞めた当初は、体調を整えるべくゆったりと過ごすようにしていた。それまではあまり興味のなかった料理に凝りだしたり、散歩にでかけて近所の知らなかった店を発見したり、少しずつ妻には笑顔が戻っていった。

 そして、そろそろ子供ができてもいいのではないかと考え、いつその日が来てもいいように備えていた。しかしきまぐれなコウノトリがやって来ないまま今日まで来ている。


 空虚な日々だったのではないだろうか。


 家事をこなし、帰りの遅い夫を待つばかりの毎日に、妻は満足していただろうか。



 急に罪悪感のようなものが心の奥から噴き出してきて、陽一は思わず顔を両手で覆った。

 疲れているからとまともな会話もせずに眠っては、朝、家を出たあの日。

 寂しそうな顔をしていた気がする。



 寝室を飛び出し、リビングへ。ソファに座り込み、陽一は深いため息をついた。


(瑞樹はここで、どんな風に過ごしていたんだろう)

 薄暗い部屋の中を見回して、またため息。

(自分たちの生活には、愛はあったんだろうか?)

 毎日残業、残業と仕事に精を出してしたのは、妻が仕事を辞めたからだ。

 マイホーム、子供、旅行、記念日のプレゼント……。

 二人のために必要だと思っていた。


 再び深いため息をついて、だらんと体をソファにもたれかけさせると、伸ばした手に何が当たった。

(なんだ?)

 ソファの横には雑誌を入れるラックが置かれていて、陽一はその中の何冊かを手に取った。

 通信販売の雑誌には、たくさんの折り目がつけられていて、こんなものが欲しかったのかな、と折られたページに掲載されいている服や雑貨を見つめながら考える。


 そして、現れたのは一冊のノート。雑誌と雑誌の間に挟まっていたノートの中には、その日にあった印象的なことや、テレビでやっていた料理番組で紹介された気になるレシピなどが書かれていた。

 妻の可愛らしい丸い文字を指でなぞって追っていく。


 そして、とあるページの上の方に小さく斜めに書かれた文字に、陽一は目を瞠った。


  実印  離婚届け → 慰謝料


(なんだこれは……)

 胸に刺すような痛みが走り、三つの文字が頭の中でグルグルと回りだす。

 

 震える指で、ページをめくった。何事もなかったかのように、レシピのメモや散歩中に遭遇した面白いアクシデントなどが綴られている。


 しかしその右下に、再び走り書きのメモがあった。


  クラブ☆パラディーソ  聖くん  ○月×日 20時 駅前


 ノートがバサリと床に落ちる。

 今日の日付、今から二十時間後が記されたメモ。


 妻は今日、何をするつもりだったのだろう。




 定時に会社を飛び出し、陽一は病院へと向った。

 すっかり顔なじみになった看護師にぺこりと頭を軽く下げ、病室へと飛び込む。

「あら陽一さん、お疲れ様。今日は早かったわね」

 義母に声をかけられ、まずは礼を述べた。陽一が来れば付き添いは交代で、少し不安そうな顔の瑞樹と共にその背中を見送る。


 瑞樹は既に記憶の問題さえなければ即退院できるほどに回復していて、後は家族がどう受け入れるかを決めるだけになっている。この土日に、どうするのが一番いいか、妻の実家と陽一、主治医とで話し合いをする予定だった。

 

「どう? 何か思い出せた?」

 心の中で煮えたぎる思いを抑えて、陽一は振り返りこう妻に切り出した。

 瑞樹は黙って首を小さく横に振る。

「そう」

 

 真っ黒いペンキをぶちまけたような、暗い感情。

 それを今ここで妻にぶつけたところで何も解決はしない。記憶喪失なのだから。

 わかっていても、しかし、気持ちは収まらない。


(誰なんだ、聖って。離婚しようと考えていたのか?)

 不安げに自分を見つめる顔、その頬に思いっきり手を振り下ろしたい気持ち。

(俺がいない昼間に、何をしていた?)

 ずっと騙されていたのではないかという猜疑心。

(裏切られるなんて、想像すらしたことがなかった)

 おめでたい自分に感じる憤り。

(いつだって笑顔で待っていてくれたのに)

 眠い時も具合が悪いときも、夫の帰りを必ず出迎えてくれた、君。


 ほんの少しだけ、本当に僅差で愛情の方が勝って、陽一は瑞樹をそっと抱きしめた。


「誰なんだ……、聖って」

「え?」

 誰だかわからない男の腕に包まれ、瑞樹は体を硬くしている。それがどうしようもなく悲しくて、陽一はそっと妻から離れ、もう一度同じ疑問を口にした。

「クラブパラディーソの聖。今日、約束してた」

「……クラブ、パラディーソ……」

 

 瑞樹の唇から小さな呟きが漏れ出て、二人の間に沈黙が訪れる。

 が、次の瞬間、瑞樹の目がくわっと大きく開いた。


「今日? 今日、何日?」

「瑞樹……、思い出したのか?」

 大きく開いた目がゆっくりと動き、陽一の顔を捉える。

「瑞樹?」

 はっとした表情、とたんに泳ぎ始める視線。

「思い出したのか!」

「いや、違うよ! なにもわからない! ここはどこ? 私は誰? 今日は何日?」


 突然起きた変化に、陽一は思わず立ち上がった。

 どうみても記憶が戻ったようにしか思えない。

 それは嬉しい。

 しかし、そのきっかけはまさかの、「クラブ☆パラディーソの聖」だ。


 

 やるせない複雑な気持ちをこらえ、陽一は瑞樹の隣に座った。

「わかるか、瑞樹。今の自分の状態。事故に合ったんだぞ。スーパーに行こうとしてはねられたんだって。ケガはたいしたことなかったけど、記憶がなくなっていた」

 主治医に連絡が必要だ。帰っていった義母にも。

「心配したよ。このまま記憶が戻らなかったらどうしようかと思ってたから」

 膝に置いた手が震えだす。記憶は戻ったが、元通りの二人にはもうなれない。

 

 涙が浮かんだ目をベッドの上に向けると、なぜか瑞樹はそわそわと落ち着かない様子だ。

「どうした?」

「うん……あの、ええと」

 明確な返答はない。先程の確認にも、特に返事はない状態だ。それよりも他に、気になることがある。妻の様子はそう感じ取れるもので、陽一は悔しくてたまらない気持ちになって、両手をぐっと握り、自分の膝に思いっきり打ちつけた。


(気になるんだ。今日が、その時だから。自分が記憶を失っていたことよりも、目の前の俺の心配よりも、気になるんだ!)


 クラブ☆パラディーソ。ホストクラブかなにかの名前だろうと陽一は踏んでいた。

 聖という男に入れ込んで、店に通っていたのだろうか。

 そのための資金は? どこかから、こっそり借りているのか。それとも知らないところで稼いでいるのか? それは一体、どんな仕事だ? 悪い予感だけで構成された負のスパイラルが陽一を飲み込み、力いっぱい瞑った目から涙が零れ落ちる。


「陽ちゃん」

 久しぶりに聞く妻からの呼び名。しかし、それはもう幸せの響きではない。

「なんだ!?」

 怒りにまかせて立ち上がり、大声をあげる。妻はビクっと体をこわばらせ、何事かと看護師が飛んできた。

「どうしたんですか?」

「記憶が戻ったんですよ」

 陽一の言葉に看護師は主治医を呼びに走ろうとして、しかし、ただならぬ雰囲気に一度振り返った。

「なにかありましたか?」

「……なんでもありません」

 必死に気持ちを堪えてした返事に、ちょっと悩んだものの看護師は頷き、改めて部屋を出て行った。それを見送り、夫は妻へ向き直る。


「お願いがあるの」


 小さな声。しかし、決意を決めた強い表情。

 思わず目を閉じ陽一は唸る。

 妻の秘密。


 知りたくなかった。


 終わりの予感。



「わかった。言ってくれ」




 リクエストに答え、陽一は自宅へダッシュで戻り、再び病室へやってきて瑞樹の前に立った。


「これか!?」

「うん!」

 ぜえぜえと息を切らしながら寝室のクローゼットにこっそりと隠されていた携帯ゲーム機をカバンから取り出して見せると、妻は目をキラキラと輝かせて笑顔を浮かべた。

 両手を伸ばしてきたのを無視して、勝手に電源を入れる。

「ちょっと!?」

 ゲーム機のロゴが浮かび、次にゲームのオープニングが始まった。おかしなテンションの歌にあわせて、チャラい男のグラフィックが次々と浮かび上がり、そしてタイトル。


 クラブ☆パラディーソへいらっしゃいっ!!


  ~パラディーソッ イケメンのてんごーくー

   パラディーソッ ゆめーのかなーうばしょー


   さーみしーいレディーたーち きみーたちはみんなプリン セーッス♪


 ムカムカしながらオープニングの曲を聴き終わると、スタート画面に切り替わった。

 そわそわと様子を見守る妻を無視して、データをロードさせる。

「駅前で? 二十時?」

 口を半開きにした妻がこくこくと頷く。

 ピンク色の部屋の中に可愛らしい女の子のキャラクターが表示されている横に、コマンドらしきものが出ている。その中の「移動」を選び、「駅前」を選択すると現れた。


「来てくれたんだね!」

 突然大音量でゲーム機から声がした。セリフは「ミーちゃん! 来てくれたんだね!」となっている。なるほど名前までは呼べないというわけか。陽一はそう納得しながら、頬を赤くして手を伸ばしてくる妻に冷たい視線を送った。

「こいつが聖くんとやらか」

「いいから早く貸して! 今日だけの特別なイベントなの!」

 

 妻の願いは叶わなかった。


 思いっきり床に叩きつけられたゲーム機がはじけて、ディスクがぽーんと空を飛ぶ。

「ああああっ!?」

 飛んだディスクを拾うと、陽一はそれを改めて床に投げつけ、革靴のかかとを何度も落とした。

「なにするのよぉっ!」

「うるさいっ、どれだけ心配したと思ってんだ!」


 こうして瑞樹のハマっていた乙女ゲーは粉々に破壊され、陽一は駆けつけた看護師にめちゃめちゃに怒られた。瑞樹は待ちに待っていた特殊イベントを見逃したことに号泣し、主治医の質問にまともに答えない。最終的に夫婦揃ってベテラン看護師に散々叱られて、二人はすいませんでしたと何度も謝ってからようやく病室には静寂が戻った。

 しかし、面会の時間はもう過ぎている。陽一は通りかかった看護師に部屋を追い出され、一人で本日二度目の帰宅をした。


 次の日の朝も、あわただしかった。

 医師の診察や検査が続き、朗報がもたらされて瑞樹の家族がやってきて喜び、退院の準備が進められ、自宅では小さな宴が催された。ハッキリと受け答えをする瑞樹の様子に義理の両親も姉も喜び、すべてが終わってようやく二人きりになれたのは午後二十一時。


 気まずい、妙な空気が夫婦の間に流れる。

 まだところどころに包帯が巻いてある妻は少々恨みがましい目で夫を見ている。

 それを真正面から受け止め、意を決して陽一は口を開いた。


「一つ確認させて欲しい」

「……なあに?」

 秘密のメモが書かれたノートを差し出すと、瑞樹はあからさまに怒りの表情を浮かべて夫をなじった。

「人のノート見るなんて!」

 緊急事態にそんなこと言ってられるもんか、と勿論陽一はムカついている。しかし、そういう罵声や苦情は後まわしでいい。それよりもなにより、理解できなかったあの走り書きについての追求が先だ。

「これは一体なんだ?」


 問題の箇所を広げる。

 瑞樹はそれを覗き込み、ピタリと黙る。


「実印と離婚届で……イコール慰謝料?」

 妻は困った表情を夫に向ける。

「俺との生活、イヤになってたのか」

 この問いに、瑞樹は小さく口を開いた。しかし、言葉は出てこない。しばらくその口がちょこちょこと動くだけの様子を見て、陽一は大きくため息をついた。

「ノートを見たのは悪かった。たまたま見つけて、本当に驚いたよ。いい機会だから、不満があるなら全部言って欲しい。できることはなんでもするから」

 

 ホストクラブに通っているわけでもなく、浮気相手がいたわけでもない。まさかあんな軽薄な絵柄の二次元のキャラクターに入れあげているとは驚いたが、ちょっとゲームにハマるくらいは問題なかった。病室でちょっとハジけてしまったが、あんな薄っぺらいチャラ男が記憶を取り戻すきっかけになったのが悔しかっただけだ。


 しかしあのメモだけは見過ごせない。

 二次元のキャラと結婚するわけではないだろう。いや、そういうことをしちゃう人もたまーにいるのは知っているが、できれば自分の妻は違うと信じたい。


 信じた場合、実印と離婚届はなにを意味するのか……?


「陽ちゃん」

「うん」

「あの、ホント、ごめん」

 やっとでてきたセリフに、陽一はぐっと体を強張らせた。

「ごめんって?」

「あのね」

 たまらなく言いにくそうに縮こまっている妻に、希望が少しずつ遠のいていく。

 表情を暗くしてじっと動かない陽一の様子に、瑞樹が慌てる。

「ごめん。そんなシリアスな感じにさせて」

「なるだろ。普通だろ。いいからハッキリ言ってくれ!」


 ここまで来たら待つしかない。

 妻の言葉。

 毎日帰りが遅くて寂しいとか。

 甲斐性なしとか。

 よく見たらブサイクだったとか。

 最近加齢臭がするようになったとか。


 どんな罵詈雑言も受け止めよう。


「あのね、あれ」

 蚊のなくような声だった。

「アイテムの合成レシピなの……」

 なんとか聞き取れたが、言葉の意味がまったく理解できない。

「は?」

「ええとね……、今やってるゲームの中に出てくるアイテムを、合成すると新しいアイテムができるっていうシステムがあって、それで……、離婚届と実印を合成すると、慰謝料ができていっぱいお金が稼げるの」


 妻は照れくさそうに、上目遣いで陽一を見つめている。


「嘘はいいよ」

「嘘じゃないって。ホントなの」

「どんなゲームだよ、それ!」


 抑えていたムカつきを丸出しにして文句を言うと、瑞樹は立ち上がってテレビ台の中に納まっているゲーム機の電源を入れた。

「そんなのうちにあったっけ」

「最近買ったんだよ。中古で。これちょっと古いんだけど、レビューがすごく良くて。やってみたらホントに神ゲーだったんだ。ハマっちゃって。あとちょっとでエンディングなんだけど」

 見覚えのないゲーム機が音を立てて中に入っているディスクを回す。チャンネルを切り替えると、古めかしいロゴが出現し、荒い解像度のゲーム画面が表示された。

 しらけた視線を送る夫の横で妻はコントローラを操作し、アイテムの一覧表を呼び出すと、カーソルを移動させて目的のアイテムを見つけて笑顔を浮かべる。

「ほらほら、これ!」

 確かにそこには、「実印」と「離婚届」というアイテムがあった。

「新しい装備を買いたいのにお金が足りなくて、それで高額で売れるアイテム探してたら、この慰謝料っていうのがあるってネットでね! わかったんだよ!」


 実に朗らかな笑顔だ。


「ああ、そう……」

「これを戦闘中に順番に使うとアイテムが合成されるんだよね」

 その後主人公達がフィールドに出るとモンスターにぶつかり、戦闘が始まった。

 妻はうまくキャラクターを操作して、敵を倒し見事に目的のアイテムを手に入る。

「あ! できた! できたできた!!」


 入手したアイテム一覧の中に、確かに「慰謝料」がある。


 それを見届けると、陽一は立ち上がってリビングを出た。

 急に夫が去り、瑞樹も慌てて立ち上がる。

「陽ちゃん!」

 まだ少し痛む体を動かして後を追おうとしたが、夫はすぐに戻ってきた。


「昨日はごめん。これ……」

 小さな紙袋が差し出され、瑞樹はそれを受け取るとソファに座って中を確認した。

「あ!」

 昨日ボッコボコに壊された携帯ゲーム機の新型、しかも新色バージョンが出てきて、妻はぱあっと顔を輝かせる。

「買ってきてくれたの?」

「さすがにやりすぎたかと思って」

「クラブ☆パラディーソは?」

「……アレはムカつくから買ってこなかった」


 瑞樹の頬が膨らむ。

 でもそれはすぐにしぼんで、あがっていた眉毛もいつもの八の字に戻っていった。


「ごめん」

「いいよ。無事で良かった。ホント、良かった」

 陽一は瑞樹を抱きしめ、妻の腕が背中にまわってきたことに、ほっと安堵を覚えた。

「今度一緒にできるゲームでも買いに行こう」

「陽ちゃんゲームなんかやらないでしょ」

「いいよ。一緒にできることが増えたら楽しいだろ?」

「……ありがと」


 こうして二人の生活は、無事に元通り。


 妻は夫の想像以上にハードなゲーマーになっていてこの後色々と想像と違う出来事が起きるのだが、それはまた、別な話。





 

 離婚届+実印→慰謝料のアイテム合成ができるのは

 ゲームキューブ用RPG「バテン・カイトス」です。超面白いよ!

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